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	難波京:大規模な建物跡見つかる 7〜8世紀、貴族邸宅か mainichi

	
	難波京跡で見つかった大規模な建物跡=大阪市天王寺区で2012年12月19日、長谷川直亮撮影

	 大阪市天王寺区の難波京(なにわきょう)跡(北河堀町所在遺跡)で、7〜8世紀の大規模な建物跡5棟が見つかり、19日、
	大阪文化財研究所が発表した。格式の高い1棟(南北約18メートル、東西約10メートル)を囲むように他の4棟が規則的に配
	置され、2500平方メートル以上の広大な敷地を有していた。同研究所は位の高い貴族の邸宅か役所だったと見ており、「古代
	大阪の都市構造や京の実態解明につながる重要な手がかりだ」と指摘している。
	 難波京は宮殿(難波宮<なにわのみや>)の周囲に存在した都市域。民間の土地開発に伴い、同研究所が9月から調査していた。
	現場はJR天王寺駅の北約250メートル、四天王寺の南約500メートルで、想定される京(東西約1.6キロ、南北約4.2
	キロ)の南端にあたる。
	 建物群は、ひさしがあって最も規模の大きい建物を中心に、東西南北に1棟ずつ見つかった。北側の建物は2番目に大きく、東
	西約16メートル、南北約5メートル。最も小さい南側の建物は、東西約8メートル、南北約5メートルで、倉庫か門だったとみ
	られる。柱の直径は最大約30センチ、最も高い建物は推定3〜7メートルで、これまで難波宮跡で見つかった建物に匹敵する規
	模だった。
	 調査した市川創・学芸員は、「調査地は宮や難波津(港)に近く、北に四天王寺、南に阿倍寺の塔を望む風光明媚(めいび)な
	場所だっただろう。従来より京域が南に広がる可能性も出てきた」と話す。続日本紀(しょくにほんぎ)は744年ごろ、元正上
	皇が難波京に左大臣・橘諸兄(たちばなのもろえ)の邸宅を訪ねたと伝えるが、この邸宅が京内のどこにあったかはわかっていな
	い。
	現地説明会は22日午後1時〜同3時半。少雨決行。問い合わせは同研究所難波宮調査事務所(06・6943・6836)。
	【林由紀子】



	
	四天王寺の南で新たに古代の建物群が見つかりました
	−現地説明会を12月22日(土)に行います −大阪市 [2012年12月19日]

	発掘調査の現地説明会を天王寺区悲田院町にて開催します。

	大阪市教育委員会と公益財団法人大阪市博物館協会大阪文化財研究所は、平成24年 9月初旬から実施してきた四天王寺の南500mに
	位置する北河堀町所在遺跡での発掘調査の成果を広く市民に公開するために、平成24年12月22日(土)13時00分より、発掘現場の
	現地説明会を開催します。
	今回の発掘調査では、古代の貴族など有力者の邸宅跡、あるいは役所の可能性がある整然と並んだ大規模な建物群が発見されまし
	た。古代大阪における都市開発の実態や、都市としての構造を考えるうえで重要な発見といえます。


	<現地説明会の開催について>		画像はクリックすると拡大表示されます。

	1.日時  平成24年12月22日(土)13時00分〜15時30分
                ※小雨決行(開催時間までに大阪府下に暴風または大雨警報が発令された場合は中止とします。)

	2.場所  大阪市天王寺区悲田院町(現地説明会案内図)                   

          地下鉄御堂筋線・谷町線 天王寺駅下車  あべちか7号出口より北東へ200m

          近鉄電車 大阪阿部野橋駅下車 あべちか7号出口より北東へ200m

          JR 天王寺駅下車 北口より北へ250m

	3.内容  調査成果の解説及び出土遺物の展示

	4.問合せ 公益財団法人大阪市博物館協会 大阪文化財研究所 難波宮調査事務所
          担当:高橋・市川 電話  06-6943-6836 
          説明会当日問合せ:発掘調査現場事務所 電話 090-2386-7682 

	
	現地説明会案内図



	<調査の概要>

	今回の発掘調査は、四天王寺から南へ500m、JR天王寺駅から北へ250mの場所で、約2,100平方メートルを対象として実施していま
	す。
	調査地は大阪市内を南北に延びる上町台地の上に位置します(図1)。古代にあっては、想定される難波京の南端に位置し、調査
	地の北側には和気清麻呂が河川の掘削工事を行った跡とされる谷が東西方向に走っています(図2)。
	今回の発掘調査では、西半の調査区で掘立柱建物3棟(建物B〜D)を、東半の調査区で掘立柱建物2棟(建物E・F)を検出しまし
	た(図3)。建物Fが総柱建物である以外はすべて側柱建物です。すべての建物が東西南北に軸線をそろえて建てられています。

	
	図1 想定難波京と今回の調査地

	
	図2 周辺の調査と地形

	
	図3 遺構検出状況


	5棟のうち中心となる建物は南北方向の建物Dで、桁行は6間(14.3m)、梁行はおそらく3間(6.3m)で、身舎の床面積は約91平
	方メートルです。また、建物の4周には庇がついていたと考えられ、庇部分を含めた床面積は約177平方メートルとなります。
	柱穴の規模は1.0〜1.5m、柱の直径も30センチメートルと、当時の宮殿であった難波宮の遺構と比べても遜色がありません。この
	建物Dを囲むようにして、北側には東西方向の桁行6間(15.8m)、梁行2間(4.8m)の建物B、西側には南北方向の桁行5間(15.0m)、
	梁行2間(4.7m)の建物C、東側には南北方向の桁行5間(9.9m)、梁行2間(4.2m)の建物E、南側には東西方向の桁行3間(7.9m)、
	梁行2間(5.2m)の総柱建物Fが配置されています。

	これらの建物B〜Fは、柱筋をほぼ揃えて並ぶことから、計画的に配置され、同時期に存在したものと考えられます。ただ、その時
	期については、この建物群の時期を明確に示す土器などの遺物がまだ得られていないため、厳密に決めることができません。しか
	しながら、
	(1)東西南北に軸線をそろえて建てられていること、
	(2)長方形を呈する柱穴の形状や建物のプランが古代に特徴的なものであること、
	(3)柱穴の掘形が大規模であることから、7〜8世紀に属するものと思われます。

	建物群の性格については、5棟以上の大規模建物から構成されること、および東西50m以上、南北50m以上の広い土地を占めている
	ことから、貴族の邸宅、ないしは宮外に置かれた役所であった可能性が考えられます。


	<発掘調査成果の重要性>

	今回の発見でもっとも重要なことは、難波京の南端部で大規模な建物群が見つかったことです。今回見つかった建物群は、柱穴・
	柱の大きさや5間以上の大規模なプラン、対称性の高い配置、そして広い占地面積といった点から、難波宮などの宮殿内に配され
	た建築群にも匹敵する規模と規則性を備えたものです。貴族の邸宅なのか、あるいは役所であるのかを決定する材料はいまだ得ら
	れていませんが、この場所になぜこうした施設が造営されたのか、今後考えていく必要があります。

	また、想定される難波京との関係も重要です。難波京のプランについては諸説があり、発掘調査によって京の存在が実証されつつ
	ある段階で、京の具体的な範囲や条坊についてはいまだ具体的に考える根拠が不足しています。そうした中、今回の調査で建物群
	が見つかったことによって、難波京の南限が現状の想定よりも南になるなど、条坊復元に再考が必要となる可能性もあります。

	さらに、住宅密集地に立地する難波京域の調査では、これまで古代の宅地の占める面積を論じることはまったくと言ってよいほど
	できませんでした。そうした中、今回の調査で少なくとも 2,500平方メートル以上の広大な敷地を占める施設の存在が判明したこ
	とも、大きな成果と言うことができます。
	今回の発掘調査により、古代大阪の都市構造を考えるうえで重要な成果が得られ、今後、大阪における都市開発の具体的な姿を復
	元する上での重要な手がかりとなります。


	
	写真1 調査地全景(北西から)

	
	写真2 建物群(東から)

	
	写真3 建物B(北から)



	<用語解説>

	・難波京(なにわきょう)
	 大阪の上町台地には7世紀と8世紀の2度にわたって宮殿(難波宮)が置かれた。この宮殿の周囲には碁盤目状に区画された都市域
	(=京)が存在したと考えられており、これを難波京と呼ぶ。

	・掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)
	 穴を掘り、そこに柱を立て埋め戻す柱の立て方を掘立柱、掘立柱によって構成される建物を掘立柱建物と呼ぶ。

	・総柱建物(そうばしらたてもの)
	 建物周囲に加え、内部にも柱を設けた建物。建物の用途としては倉や門などが考えられる。

	・側柱建物(がわばしらたてもの)
	 建物周囲を囲む柱によって構成される建物。床は土間であったと想定される。

	・身舎(もや)
	 庇に対し、家屋の主体をなす部分。



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