隣接迎賓館へ水流す? - 最古の水時計跡/明日香・水落遺跡2010年12月3日 奈良新聞 東西方向の流路(研究員が立つ地点)に分断された南側の水落遺跡(奥)と北側の石神遺跡(手前の石敷)の遺構 =2日、明日香村飛鳥の水落遺跡 中大兄皇子(天智天皇)が作った日本最古の水時計「漏刻(ろうこく)」跡が確認された明日香村飛鳥の水落遺跡(7世紀中ごろ)で、 北側に隣接する斉明朝(7世紀中ごろ)の迎賓館跡・石神遺跡に向かって水を流す銅管や木樋(もくひ)跡、大型建物の柱穴などが 見つかり、奈良文化財研究所が2日、発表した。石神遺跡との接合部は後世に破壊されていたが、同研究所は「二つの遺跡は密 接に関連する」との見方を強めた。 過去の調査では漏刻が置かれた施設の地下から北側に付設する建物に続く木樋そのものが出土。漏刻の水は石神遺跡の噴水 施設「須弥山(しゅみせん)石」に再利用したことが分かっている。 漏刻から北方に向かう銅管は今回調査区で痕跡2.8メートルを確認し、総延長21.2メートルになった。 2本の木樋を地下に埋設する際などに掘られた溝は3カ所で確認され、幅20〜80センチ、長さ2.3〜6.7メートルだった。いずれ も中世以降の水流で消滅し、石神遺跡から南向きに延びる水利設備との接合は確認できなかった。 漏刻台の北側で、東西に並ぶ一辺約1.5メートルの柱穴8基分が見つかった。過去の調査と合わせると東西24.6メートル以上、 南北4.5メートルの掘っ立て柱建物になる。水に関わる施設と考えられる。調査区の北辺では、石神遺跡の南限通路の石敷の一 部を検出した。南辺は後世に破壊されていた。 庄田慎矢研究員は「銅管は北に向かって続き、木樋は石神遺跡に直線的につながる可能性が高い。二つの遺跡の関連性があら ためて明らかになった」と話している。 現地見学会は5日午前10時〜午後3時。近鉄橿原神宮前駅から奈良交通バス、「飛鳥」停留所下車徒歩5分
WIFEはまだ今年本格的に紅葉を見ていないというので、じゃ日曜はどこかへ行こうかと話していた。そこへこの新聞記事だ。これ はいいCHANCEと、早速訪れた。ここには紅葉はなかったが、この後ここから談山神社へ廻り、桜井・奈良と紅葉路をドライブした。
明日香の現地説明会というと、普段はごそっと人手が繰り出して、行列で2時間待ちなどザラだが、今日はめちゃくちゃ見学者が 少なかった。交通の便が悪いのと、午前中だったからかもしれないし、或いは、帰って来て調べるとこの記事が報道されていたの はサンケイ新聞だけのような気もするので、そのせいかもしれない。駐車場に車を入れてすぐ説明が聞けた。
<日本最古の時計の跡> 水落遺跡: 史跡飛鳥水落遺跡。斉明天皇6年( 660)5月、皇太子中大兄皇子(のちの天智天皇)は、日本で初めて水時計を作って 人々に時刻を知らせた、と「日本書紀」に書かれている。日本書紀はその場所について何も語っていないが、1981年その水時 計の遺跡が、ここ飛鳥水落遺跡で掘り出された。ここでは、精密に、堅固に築いた水時計建物と、建物内の中央で黒漆塗りの木製 水槽を使った水時計装置とが見つかった。水時計建物を中心にして、水を利用したさまざまな施設があることもわかった。ここは、 「石神遺跡」と呼ばれる遺跡全体の中にある。
「ここの木桶とあっちの木桶はつながっているように思えますが、その間が崩れてしまっていますので、推測はできますが断定は できません。」と説明員のおじさん。
斉明6年( 660)、中大兄皇子がはじめてつくった漏剋(水時計)を据えた時計台の遺跡が、飛鳥寺の西方で発見された。貼石の ある四角い土壇に、4間四方の楼状建物が建っていた。土壇をつくる途中で礎石を据え、礎石間には自然石を連結した、地中梁工 法ともいえる堅固なつくりとなっている。建物と一体で黒漆塗りの木箱、木樋暗渠、枡、銅管など、水を使用するいろいろな仕掛 けがつくられていた。噴水用のプールだったとする説もあり、飛鳥資料館には復元模型が展示されている。礎石も残っていて、導 管や配水管も発掘された。平成6年には飛鳥川とつながっていたと思われる水路やいくつかの附属の建物の遺構も出土し、贅をこ らした建物であったことが解明されつつある。飛鳥川の水を利用し、サイフォンの原理で一定量の水を垂らすことによって時を刻 んだ。万葉集にも時報の鐘の音を聞く歌が収められている。
水落遺跡の水時計は、当時最新の技術によって作られていたであろうと思われる。四段式漏壺、あるいは、三段式漏壺であったか もしれない。東から木樋を流れてきた水を桝で堰止め、ラッパ状鋼管を通して、一旦、地上に汲み上げる。そこから一番上の漏壺 への給水は人力に頼ったのであろう。箭が上がりきると、箭壺にたまった水を漆塗の木箱へ一気に排水し、そこから、さらに、木 樋を通して西へ流した。中大兄皇子が漏刻を作ったことにより、それまで大まかに決められていた時間の観念が、詳細になった。 役人達の勤務時間も漏刻により決められたであろう。
<石神遺跡> 飛鳥寺と水落遺跡の北に接している。明治時代に須弥山石・石人像が掘り出されたことで有名。また、当時の飛鳥小学校で石敷が みつかり、このあたりは飛鳥浄御原宮の候補地にもなっている。1981年からの調査で、7世紀中頃から8世紀初めの建物跡や溝など がみつかっている。隣に時計台がそびえていた斉明天皇の時代には、整然と並ぶ長い建物群、石敷をもつ立派な井戸、石敷広場な どがみつかり、饗宴の施設と考えられている。
水落遺跡では、全ての柱が抜き取られており、残っていたのは、木樋、漆塗の木箱、銅管等であった。ラッパ状銅管も、木樋の蓋 にしっかりとくい込んでいたためであろうか、途中で無理にへし析ったような状態であった。水落遺跡では、天武朝の時期と考え られる柱穴等もみつかっているので、漏刻施設の廃絶は、天武朝の造作にかかわる可能性も残されている。
白村江で唐・新羅の連合軍と戦い破れた後、天智6年(667)には、飛鳥を離れ近江の大津に都を遷し、翌天智7年(668)には、 斉明の死後、皇大子の地位にとどまったまま政治を行なってきた中大兄皇子が即位した。水落遺跡の漏刻は、近江遷都とともに飛 鳥から近江へと移されたのであろうか。日本書紀には、天智天皇が近江にも漏刻を作ったという記載がある。 斉明天皇6年(660年)の記事 1月1日 - 高句麗の使者、賀取文ら百人余が筑紫に着く。 3月 - 阿倍比羅夫に粛慎を討たせる。比羅夫は、大河のほとりで粛慎に攻められた渡島の蝦夷に助けを求められる。 比羅夫は粛慎を幣賄弁島まで追って彼らと戦い、これを破る。 5月8日 - 賀取文らが難波館に到着。 5月 - 勅して百の高座と百の納袈裟を作り、仁王般若会を行う。 皇太子(中大兄皇子)が初めて漏刻を作る。 阿倍比羅夫が夷50人余りを献じる。 石上池のほとりに須弥山を作り、粛慎47人を饗応する。
「明日香村埋蔵文化財収蔵庫」が見えており、その左には飛鳥で取れた農産物を売っている店がある。私が説明を聞いて、写真を 撮っている間中、wifeはここで買い物をしていた。デカい大根やら菜っ葉やらごまんと買い込んでいた。 「明日香なんて、もうみんな発掘されてしまっているのかと思ってた。まだ、こんなもんが出てくるんやね。」とのたまう。 ま、素人さんはそう思うやろねぇ。我々も驚くもんなぁ。