Music:旅愁

脇本遺跡 第18次現地説明会の前日 2012.9.28(金)奈良県桜井市







	雄略天皇の宮殿の堀か 奈良、脇本遺跡	西日本新聞 2012年9月24日 21:34 

	雄略天皇が5世紀後半に築いた宮殿「泊瀬朝倉宮」の所在地とされる奈良県桜井市の脇本遺跡で、宮殿の堀の護岸とみられる石ぶき
	遺構が見つかり、奈良県立橿原考古学研究所が24日、発表した。 
	 飛鳥時代(7世紀ごろ)より前の天皇が築いた宮殿の構造については、これまでほとんど実態が分かっていない。今回の発見は、
	古代王宮の姿を解き明かす貴重な手掛かりになりそうだ。 
	 護岸は過去の調査で宮殿の一部とみられる建物跡が確認された場所から南西約70メートルで見つかった。調査区外にも延びると
	みられ、長さは東西30メートル以上。20?30センチ大の石がふかれていた。 
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	5世紀の石積み遺構発見、雄略朝の「泊瀬朝倉宮」堀跡か 奈良 	日本経済新聞 2012/9/25 0:59 

	 雄略天皇の泊瀬朝倉宮(はつせのあさくらのみや、5世紀)跡との説がある奈良県桜井市の脇本遺跡を調査中の同県立橿原考古学
	研究所は24日、5世紀後半の石積み遺構が見つかったと発表した。古墳の葺(ふ)き石の技法を採用、同時期の豪族居館の堀の護岸
	遺構と似ており、同研究所は「朝倉宮に関連する堀跡か、池のような施設の跡では」とみている。 
	 石積み遺構は直線状に延びており、長さ約30メートル分を見つけた。20?30センチの大きさの石を、1.1メートル前後の高さに積ん
	であった。下底部に水がたまっていた形跡は無く、空堀だった可能性があるという。出土した土器の年代から5世紀後半に構築され、
	6世紀後半には埋没したとみられる。 
	 この時期の豪族居館跡は、同県御所市の極楽寺ヒビキ遺跡などでも見つかっている。同研究所は今回の石積み遺構について「他の
	豪族居館と比べても遜色ない大規模なもの」としている。 
	 付近では5世紀後半の大型建物跡が見つかっており、朝倉宮の関連施設との説が出ている。 
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	奈良・脇本遺跡:古墳中期、堀状の遺構 雄略天皇宮跡か	毎日新聞 2012年09月25日 大阪朝刊 

	 奈良県立橿原考古学研究所(橿原市)は24日、同県桜井市の脇本遺跡4件で、古墳時代中期(5世紀後半)に築かれた大規模な堀
	状の遺構(南北60メートル、東西30メートル)と、その南端に石積みの護岸を発見したと発表した。すぐ北東の台地では、雄略
	(ゆうりゃく)天皇の泊瀬朝倉宮(はつせあさくらのみや)に関連するとみられる大型掘っ立て柱建物が見つかっており、専門家は
	遺構が宮の周濠(しゅうごう)や池だった可能性があるとしている。 
	 雄略天皇は古墳時代の5世紀後半に在位した21代目天皇で、ヤマト王権の勢力拡大を進めたとされる。脇本遺跡4件は、宮である
	泊瀬朝倉宮の推定地。 
	 今回見つかった遺構の底面は、南北の高さがほぼ水平で、水がたまった形跡はなかった。堆積(たいせき)物がたまらないように
	管理されていたか、そもそも水が無かったかは不明という。 
	 石積みは、約20?30センチ大の石がほぼ東西方向に約30メートルにわたって直線状に並び、底からの高さは約1・2メートル
	だった。出土した土器から、いずれも5世紀後半に造られ、6世紀後半の古墳時代後期にはなくなったとみられる。遺構や石積みは調
	査区域外に及ぶ可能性が高いという。 
	 京都教育大の和田萃(あつむ)名誉教授は「周囲を囲む大溝という印象。景観や防御の要素もあるのではないか」と話している。 
	 現地説明会は29日午前10時から午後3時まで。近鉄大阪線大和朝倉駅から北東に徒歩約15分で、駐車場はない。【矢追健介】 
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	雄略帝宮殿 石の護岸出土  …奈良・桜井 (2012年9月25日 読売新聞・関西) 

	 奈良県桜井市の脇本遺跡で、堀か池の護岸とみられる古墳時代中期(5世紀後半)の石積み遺構が長さ約30メートルにわたって出
	土したと、県立橿原考古学研究所が24日発表した。一帯は雄略(ゆうりゃく)天皇の宮殿があったとされる地域で、同研究所は宮殿の
	関連施設だった可能性があるとみている。 
	 同研究所によると、遺構は東西にほぼ一直線に延び、現状で高さ約1メートルの斜面に20?30センチ大の石を積み上げていた。
	周辺の発掘結果から東西30メートル以上、南北60メートル以上の堀か池の一部と推定される。6世紀後半に埋もれてしまったらし
	い。 
	 これまでの調査では約50メートル北東で5世紀後半の大型建物跡が見つかっており、一帯は雄略天皇の「泊瀬朝倉宮(はつせあさ
	くらのみや)」があったと考えられている。飛鳥時代(7世紀)より前の天皇の宮殿はほとんど実態がわかっておらず、和田萃(あつむ)
	・京都教育大名誉教授(古代史)は「様々な機能を持つ大規模な空間が広がっていたことがうかがえ、当時の宮殿を考える重要な資料
	になる。堀などの防御施設の一部ではないか」と話している。 
	 現地説明会は29日午前10時?午後3時。近鉄大和朝倉駅の北東約0・5キロで、駐車場はない。問い合わせは同研究所(平日午
	前8時半?午後5時15分、0744・24・1101)。 
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	NHKニュース詳細	古墳時代の宮殿関連施設発見か 9月25日 6時22分

	奈良県桜井市の遺跡で長さ30メートルにわたって岸辺を石で覆った古墳時代の堀のような跡が見つかり、専門家は、当時の宮殿に関
	連する施設ではないかとみています。
	桜井市の脇本遺跡では、奈良県立橿原考古学研究所がことし5月から行った発掘調査で、20センチから30センチの大きさの石が1
	メートル10センチほどの高さに積み重ねられているのが、東西方向に30メートルにわたって確認されました。
	さらに北側には、人の手で水平に掘られた跡が石積みからおよそ60メートルの範囲で見つかり、研究所は岸辺を石で覆った堀のよう
	な施設が広がっていたとみています。
	研究所によりますと、この施設は出土した土器などから5世紀後半の古墳時代につくられたとみられ、この時代のこれほど大きな遺構
	は珍しいということです。
	脇本遺跡のある地域は、日本書紀の記述やこれまでの調査の成果などからこの時期、雄略天皇の宮殿「泊瀬朝倉宮」があったことが有
	力視されています。
	古代史が専門の京都教育大学の和田萃名誉教授は「今回見つかったのは、宮殿の関連施設を守る堀などではないか。宮殿が近くにあっ
	たことを裏付ける資料といえる」と話しています。調査結果については、今月29日に現地で説明会が開かれます。
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	上記の新聞記事を読んで、「あ、これはいかなくては」と思ったが、生憎29日(土)は別件が入っていた。そっちの会合は昼間で、済
	めば「酒飲み」へと続くのでCANCELはしづらい。そこで前日の金曜日に行ってみることにした。過去にも一回どっかで同じようなこと
	をしたのだが、その時は説明会前日なのに気の早い歴史ファンが何人か来ていて、係員も見学者を古墳の中へ入れてくれて説明し、資
	料もくれたので、今回もあわよくばと目論んだのだが、今回は甘かった。
	見学者は東京から見に来たというおじさんが一人。わざわざ東京からきて説明会が明日だと知らなかったらしい。明日はもう(東京へ)
	帰るので今日来たと言っていた。係員も誰もいず、いかにも作業員というおじさんたちだけ。東京から来たおじさんは橿考研へ寄って
	きたそうだが、明日の説明会の資料をくれと言ってもくれなかったそうだ。「わざわざ東京から来たのに」とボヤいていた。しかし、
	東京からワザワザ来るんだったらもう一寸調べてくれば、という気がしないでも無い。近畿には、古墳巡りや遺跡巡りで何回も来てい
	るという割に「邪馬台国大研究」を知らなかったので、名刺を渡してお別れした。





朝は曇っていたのにだんだん暑くなってきて、まるで夏へ逆戻りしたような暑さになった。10分で発掘現場へ到着。



初瀬川も真夏の装い。



脇本のお地蔵さんも健在。



脇本の信号。今回の発掘現場はここから西へ20mほどの所だ。今までにこの信号の周囲を相当掘っているようだ。




	発掘現場らしき所があったので近づくと、先述の東京のおじさんがいたので、おそるおそる「あのー、新聞に載ってた発掘現場はどこ
	でしょうかね?」と訪ねると、「ここ、ここ、ここですよ。あの青いビニールシートのところが石積みですよ。」とうれしそうに教え
	てくれる。金網越しに中を覗くと、いきなり深くて広い大きな溝が真ん中を走っている。なんだこれは!

	「あの石積みの向こうは川で、この溝はそこの水を谷の向こうの初瀬川へ流していたんだと思いますね」とおじさんが解説する。誰も
	学芸員はいないので聞けなかったが、土杭や竪穴建物がその向こう側にあるので、それもどうかなという気がする。一体何の為の溝な
	のだろうか。ここで、冒頭に記したような会話を東京のおじさんと交わして、発掘現場の周りをぐるりと一回りする。



Newsで取り上げられた問題の石積み。宮殿を支える石垣よりも、確かに護岸に近い。







上の写真、中央の石積みから左の道路の下にも伸びているとすればかなりの長さになるものと思われる。







しかしこの溝はホントにでかい。こればっかりは発掘した人に聞かんとわからんねぇ。一体何やろ。









	
	我が歴史倶楽部の今年最初の例会が、この初瀬街道だった。その時この脇本遺跡を掘っていたが、その場所はもっと春日神社に近い所
	だった。(第173回例会「脇本遺跡・春日神社)
	その後橿原考古学研究所は、今年5月から第18次発掘調査としてここを掘っていたそうだから、我々が見学していたとき地面の下にこ
	の石積みは埋まっていたのだ。

	ここで前掲の各社新聞記事・Newsを以下のように分析してみる。

	<事実>

	@ 古墳時代中期(5世紀後半)に築かれた大規模な堀状の遺構(南北60メートル、東西30メートル)と、その南端に石ぶき遺構
	  が見つかった。
	A 護岸は、過去の調査で大型掘っ立て柱建物跡が確認された場所から南西約70メートルで見つかった。また、この時期の豪族居館
	  跡は同県御所市の極楽寺ヒビキ遺跡などでも見つかっている。
	B 石積みは、約20〜30センチ大の石がほぼ東西方向に約30メートルにわたって直線状に並び、底からの高さは約1・2メート
	  ルだった。
	C 古墳の葺(ふ)き石の技法を採用、同時期の豪族居館の堀の護岸遺構と似ている。
	D 今回見つかった遺構の底面は、南北の高さがほぼ水平で、水がたまった形跡はなかった。堆積(たいせき)物がたまらないように
	  管理されていたか、そもそも水が無かったかは不明。空堀だった可能性がある。(<推測>のDと矛盾する)
	E 出土した土器の年代から5世紀後半に構築され、6世紀後半には埋没したとみられる。
	F 脇本遺跡4件は、宮である泊瀬朝倉宮の推定地。 


	<推測および未確認事項>

	@ 雄略天皇は古墳時代の5世紀後半に在位した21代目天皇で、ヤマト王権の勢力拡大を進めたとされる。
	A 雄略天皇が5世紀後半に築いた宮殿が「泊瀬朝倉宮」(はつせのあさくらのみや)。
	B 橿原考古学研究所は、「朝倉宮に関連する堀跡か、池のような施設の跡では」とみている。 
	C 同研究所は今回の石積み遺構について「他の豪族居館と比べても遜色ない大規模なもの」としている。
	D 専門家は遺構が宮の周濠(しゅうごう)や池だった可能性があるとしている。 <水のたまった形跡が無い>の記事と矛盾。
	E 石積み遺構は調査区外にも延びるとみられる。
	F 「今回見つかったのは、宮殿の関連施設を守る堀などではないか。宮殿が近くにあったことを裏付ける資料といえる」 
	  (京都教育大学の和田萃名誉教授)

	これらから、

	5世紀の石積み遺構発見、雄略朝の「泊瀬朝倉宮」堀跡か? 奈良県立橿原考古学研究所が9月25日発表

	となる。確認されたこれらの<事実>は、<推測>部分をほぼ立証したかのように見える。雄略天皇の「泊瀬朝倉宮」はホントにここに
	あった可能性ががぜん高くなったと言えよう。とすれば、記紀の雄略天皇の宮に関する記述は正しかった事になる。と言うことは、とり
	もなおさず記紀の他の記述も正しいという事になりはしないか。





今回の現場は道路の脇である。これがほんとの脇本なんちゃって。上左端の建物が発掘現場事務所。



秋の代名詞「彼岸花」が咲いて、稲の穂もたわわに実って、脇本の里は秋真っ盛りである。








2012.9.29 現地説明会資料






上はクリックして貰えば拡大します。溝については何も記述はありまへん。







2012.6.19発表の資料
























   邪馬台国大研究ホームページ/遺跡めぐり/脇本遺跡・現地説明会前日