SOUND:Penny Lane
難波宮跡
大阪市中央区の官庁街のど真ん中に、6、7世紀に造営された難波宮(なにわのみや)の跡がある。上の写真はその復元
された模型だが、2枚の写真を合成したので少し(?)ゆがんでいる。難波宮は文献上では頻繁に登場するのに、長い間
その場所が不明であった。しかし、法円坂から瓦が出土したのをきっかけに1954年から発掘調査が始められ、その調
査は現在まで40年に及んでいる。調査の結果、難波宮は前期と後期とに分かれて建造された事が判明した。その出土品
は膨大な量に及び、現在も整理作業が続けられている。
上左は、5世紀頃の高床式倉庫群の跡。上右は、大極殿の遠景。現在遺跡は全て埋め戻され、大極殿のあった場所に基壇
の跡が作られて史跡公園として整備され、市民の憩いの場所になっているが、大都市のど真ん中に埋もれていた大遺跡と
して一時全国的に有名になった。
史跡公園のすぐ前は、大阪市内を横断する中央大通りが走っており、その上は高速環状線が堺や奈良に繋がっている。
この40年にも及んだ発掘作業・出土品整理を現場で行っているのが、財団法人大阪市文化財協会である。財団は昭和44
年に設立され、難波宮のみならず大阪市で遺跡・文化財の管理を引き受けているが、難波宮については史跡公園の片隅に
ある作業場で現在も遺跡の整理が行われている。
このレポートはその作業場での作業内容を報告したものである。
史跡公園の南の端っこに財団の作業場がある。この史跡公園そのものが、旧陸軍の師団の跡地である為この建物もその遺
物である。軍の建物で残っているのはこれだけで、木造2階建ての、おそらく兵隊の宿舎であったのだろうと思える所で、
財団の出土品整理作業は続けられている。
上右の写真、魚のトロ箱みたいなものの中に出土品が詰まっている。出土品はまず、遺物を傷つけないよう最新の注意を
払いながらついている泥土を洗う事から始まる。
乾いたら遺物にナンバリングする。どの位置のどの部分から出土したものか分かるようになっており、塊だった遺物はひ
とまとめにしてナンバリングされる。
次にその塊の土器群の中から、欠け口の合うものを見つけ復元作業に入る。端で見ているとこれが一番面白そうだった。
まるで大きなパズルのようである。どうしても欠けた部分がある場合その隙間をパテや石膏で埋める。よく展示会に行く
と部分的に白く埋められた土器があるが、それはこの過程を経てきたのである。
ちゃんと土器の形が出来たものをトレースする。様々なメジャ−を用いて計測し、トレース紙に1個1個形を模写していく。
これがやがて学術報告書のページを飾る事になる。発掘の最終成果はこの報告書なのである。これを作成し後世に残すため
これらの整理作業はあるのだ。
最終段階として、整理されたものを記録する。昔は大きなノートに作業員が手書きしていたらしいが、現在ではPCがそれ
を受け持っている。どこかのデータベースに集約されて、誰もがこのデータを見れるようになって欲しいものだか、現在ま
だそこまでは進んでいないようだ。FD(フロッピ−ディスク)ベースで研究機関へ渡り、そこで報告書が作成される事に
なる。ちなみに、これらの作業を担当しているのは、殆どがアルバイトのオバちゃん、お姉さんである。
復元された土器や出土品は、よほど貴重なものでない限りここに置かれたままである。財団では陳列棚を作りそこに並べて
あるが、公園の一角に展示館を作りそこにキチンと陳列しても良さそうなものだ。軍隊の、バラックのような所に古代の遺
物がひっそりと眠っている。高速道路や舗装道路も必要だろうが、文化遺産にももっと予算を割いて欲しいものだ。
冒頭の難波宮の模型もこの財団の陳列室に飾ってある。
下の写真は、左が柱の跡の土である。薄く輪切りし張り付けて壁にかけてある。右がその出土した柱。
高床式倉庫群の模型。これの実物大の復元倉庫が、この史跡公園の北側道路を挟んだ向かいに建てられている。財団では、
曜日を決めてすぐ隣に置いてある復元古代船「なみはや」と共に一般に公開している。
大阪市内の人は一度見に行って貰いたい。
<尋ね人>
数年前このHPを見てmailをくださった、神戸市のサラリーマンの方、確か歴史倶楽部に入りたいと
仰っていましたが、お返事を差し上げる前にmail-idを消してしまい、ずっと気にかかっています。
たしか新大阪におつとめとの事だったように思いますが、もしこれを御覧になっていたら、再度mail
をいただけないでしょうか。
邪馬台国大研究・ホームページ / INOUES.NET / 財団法人大阪市文化財協会