Music: Michell

吉野ヶ里遺跡 2001.5.12 歴史倶楽部有志会 −安本美典と行く、邪馬台国・甘木朝倉説−

		私の故郷、福岡県甘木市にある「平塚川添遺跡」のオープン・セレモニーで、「邪馬台国=甘木朝倉説を
		安本美典博士と検証する」ツアーというのが催された。安本教授の講演会と、甘木朝倉の遺跡めぐりをす
		るバス・ツア−とがセットになっていて、近くの「原鶴温泉」に1泊しての楽しいツアーだった。そのバ
		ス・ツアーのコースの最後にこの「吉野ヶ里」遺跡訪問も組み込まれていたのだ。大阪から歴史倶楽部の
		有志を募って5人で参加した。
 

 


		エントランスはまるでどこかのテーマパークの入り口のようで、相当コストを掛けてこの遺跡を整備してい
		るのがわかる。広範囲な遺跡群をまるまる復元して、一大「弥生村」を出現させようとしている。新しく発
		掘調査が終了した北方面の区画に、大きな祭殿跡と見られる柱坑や集会所跡、甕棺墓などが発見されたため、
		それらについても復元施設が建設されている。環濠や防御杭なども発見場所に復元されている。安本先生も、
		以前訪れた時との変わり様にしばらく絶句していた。
		この広大なエリアを見ていると、ここが邪馬台国ではないかと思えてくる。安本先生も案外そう思ったんじ
		ゃなかろうか。弥生時代の人々が、稲作を中心にした共同作業の為に集落を作り、親戚・縁者は近郷に集ま
		って生活していたのは十分推測できる、しかしここのような大きさは、当時にあっては一つの国家のような
		ものだったのではなかろうか。この大きさは、そう思わせるに十分な根拠となる。

 

 





 

 


		この環濠の傾斜、深さはどうだ。大阪の和泉にある「池上曽根遺跡」の環濠と比べると、これこそが環濠だと
		いう気がする。近畿地方の環濠は浅く、単に水を集落へ導くための用水路のような気がする。比べて、九州地
		方の環濠は、有名な壱岐の「原の辻」、甘木の「平塚川添」をはじめとして「板付遺跡」などでも、その傾斜
		は急で、明らかに外敵に対する防御施設である。
		弥生時代の、穀物をめぐる戦いもまず北九州で始まったのだろう。そして、それが東へ行くにつれ、次第に争
		いは減少し、近畿で弥生村が営まれる頃は、環濠はもう本来の目的を失っていたのではないだろうか。





 



 



 



		遠くに見えている山々は背振の山並である。あの向こうに伊都国、末羅国がある。
		それにしても、よくぞまぁと思わせるほど見事に復元されている。相当カネが掛かったんだろうな。後の支払い
		は大丈夫かいなと心配になるが、しかし同じ借金返済でもこんな施設の借金なら、乗客もいず、やがてペンペン
		草が生える空港の借金なんかよりははるかに支払いがいがあると言うものだ。

 





 

 

 

 

 

 

 



 

 

発掘は今でも続いている。新しい発見が日々新聞紙上をにぎわす。(末尾参照)



 

こんなものが残っているというのは、明らかに敵対する集団が廻りに居たという証拠だろう。

 

 








<






		この新聞記事の示唆するものは何か? 古墳を築いた民族が、それまでの弥生民族とはまた違った地方や年代
		からの民族だったとしたら、日本が一気に弥生から古墳の動乱期に移行していったのも理解できよう。
		移入してきた「疑似騎馬民族」は日本中を駆けめぐり、縄文人と融合してやっと落ち着いた生活を始めていた
		弥生民族を蹴散らして王権争いに明け暮れる。この時代が、「寧所に暇あらず」の時代であり、中国も朝鮮も
		使者を送って状況を把握する事など出来もしなかった「謎の4世紀」なのに違いない。




邪馬台国大研究ホームページ / INOUES.NET /webmaster@inoues.net