Music: I saw her there

佐賀県神埼郡・吉野ヶ里遺跡 1998.8.14 再訪    1999.3.21 歴史倶楽部例会




	お盆の最中なのに結構見学者がいた。何年か前に来た時と少し変わっていた。エリア内に資料館が出来ていたし、体験
	コーナーもあった。遠くでは新たな復元施設の工事も始まっていた。施設も又変貌して行くのだ。




 


あまりにも有名になりすぎてしまった遺跡。弥生時代中期の大規模環濠集落跡。この遺跡の特徴の、その環濠があまりに広大だった事と、その広大さが我が国では初めて確認された事により、吉野ヶ里の名前は一躍全国に知れ渡ってしまった。
興奮した学者の中には「こここそ邪馬台国だ!」と叫んだ者も少なくなかったが、冷静で明晰な発掘担当者達の報告書がでるとたちまち失笑を買ってしまった。未だにそうだと主張している者も僅かにいるようだが、学会では殆ど相手にされていない。

その一番の決め手は年代である。
吉野ヶ里遺跡の中心は弥生中期の遺跡で、邪馬台国時代は弥生の後期にあたる。考古学者によりバラつきはあるが、多くの考古学者が、吉野ヶ里遺跡の主要年代を弥生中期と判断しているので、邪馬台国時代とは200年から250年程の年代差があるのである。勿論この集落そのものは、その後もずっと使用され続け古墳時代まで続くのであるが、最盛期は弥生中期となっている。
又、発掘の指揮をした佐賀県教育庁文化課の高島忠平氏は、甕棺等墳墓の数から見て吉野ヶ里の或一時点での人口は1,000人位であったろうと推定しているが、これもほぼ異論がなさそうである。つまり、邪馬台国にしては人口が少なすぎるという第二の決め手である。
更に、権力者の威厳を示す遺物(鏡、剣等)が少ないという点や、吉野ヶ里の位置が魏志倭人伝の旅程記事と合致しないという点など、総合的な判断として、吉野ヶ里は邪馬台国ではないと言うのが、今日の通説である。

しかしながら、邪馬台国に繋がる弥生の貴重な遺跡である事は間違いないし、今後の発掘次第では筑後川流域にあった(かもしれない)邪馬台国連合国家の一つと見なされる可能性もまだまだ残している。




 










	魏志倭人伝に記されている「楼閣」を思わせる掘立柱穴跡が、内濠の内側で東西2ケ所発見されている。柱の数はい
	ずれも6本。大きさは一辺約1mで、全体の大きさは縦約7.5m、横約5m。現在復元されている物見やぐらは、
	床高6.5m、高さ12mで、柱穴跡から推定して復元されている。弥生時代にこのような高さの建築物を、しかも
	大木に穴を開け組み合わせてやぐらを組む技術がすでに1800年前に存在していたのである。
	吉野ヶ里もそうであるが、最近次々と発見される縄文・弥生の遺跡、青森三内丸山、鹿児島上野原、大阪池上曽根、
	奈良唐古鍵、福岡平塚川添等々の遺跡の内容を見ていくと、人間は、土木・建築や生活の技術というものを相当昔か
	ら確立していたのがよくわかる。我々が今まで考えていた以上に、古代においても計画・管理された社会を営んでい
	た可能性がある。翻って、現代に生きる我々は果たして縄文人・弥生人に恥じない生活をおくっているのであろうか?
	と考えさせられる。



    














	吉野ヶ里遺跡へは、博多駅から鹿児島本線に乗り鳥栖で長崎本線に乗り換え神埼駅か吉野ヶ里公園駅で下車。鳥栖で
	の乗り換えがスムーズに運べば博多から約40分程。駅からはタクシーか、歩いて20分。年中無休、何時でもオー
	プンしている史跡であるが、見学と遺跡資料館は9時−5時(17:00)である。









1999.3.21 歴史倶楽部春の例会「北九州弥生の旅」でまた訪問


 
 

高床式建物を復元してある側で発掘作業中だった。又新たな発見があるかもしれない。
 

 



「えらい広い遺跡やねぇ。」「日本一やからなぁ。」「青森の三内丸山のほうが広ないか。」
「ううん、どっちが広いんかなぁ。」「なんか縄文も弥生もあんまり変わらんね。」「そりゃ誰も住んどらんもん。」



 

道路を隔てて従来の遺跡とは反対側に、新たな復元施設を建設中である。歴史公園としていよいよ本格的な整備を始めたようだ。
環濠跡を復元中で、環濠の外にずらりと柵が立ち並んでいる。平成13年には一体どんな公園になっている事だろう。
 

 



<新たな発見!>   99.11.2朝日新聞夕刊 吉野ヶ里に最古の「市場」?高床式倉庫跡 新たに40棟確認


(c)Copyright Asahi Shinbun co.,


	3月の訪問時に発掘していた場所で40棟以上の高床式倉庫跡が新たに見つかったと99年11月2日の朝日新聞夕刊が
	報じている。写真を見ればもう3月の時点で幾つか発見されていた事がわかる。発掘を担当した佐賀県教育委員会
	によると、弥生時代後期(2-3世紀)の高床式倉庫跡で、同区画では従来の発掘分と合わせると延べ100棟の倉庫が
	存在していたとみられる。同委員会は「クニの交易拠点となる「市場」の機能を持った区画の可能性がある。」と
	いう。今回発見された、高床式倉庫と確認された柱穴の中に幅約3m、長さ約6mのものがあり弥生では大型の部
	類に入る。竪穴住居跡は、最大で横8.6m、縦8.2mあり、吉野ヶ里で発見されたものでは最大。
	倉庫群跡は約8000平方bのエリアにまたがり、十棟分位を1グループとして、1988年に確認された北側の高床倉庫
	群のうち、現在も調査が続けられている西側の分と併せて3グループに分かれている。

	森浩一・同志社大学名誉教授(考古学)の話
	倉庫のうち相当数が同時代にあったことは確か。しかも、一つひとつの規模が大きく、小都
	市的な性格のある拠点集落の芽生えと言って
	よいだろう。「市場」だけの倉庫にしては立派すぎるし、多すぎる。遠隔地との交易のための倉庫の役割もあった
	のではないか。川を利用した貿易港のにおいもする。吉野ヶ里は当初考えていたより範囲も広く、構造も複雑だっ
	たことがわかってきた。



2001年1月6日の吉野ヶ里

福岡に住む友人の藤田君が、吉野ヶ里に行ったとmailで以下の映像を送ってきてくれた。4月にオープンする建物が大分できあがっている。

 

何だこれは、楼閣だ! 楼閣も復元されている。藤田君、我らが故郷の「平塚川添遺跡」は先を越されたばい!

 

 

 

おおっ、環濠もでけとる! なんかほんまもんの弥生邑になってきたねぇ。

 

藤田君ありがとね。またどっか行ったら写真送ってきてね。頼じょくばい。






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