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王仁博士の墓 2003.7.13 郷土の文化財を訪ねる会











JR長尾駅前に大きく掲げられた附近の略図だが、「王仁の墓」の紹介説明板である。




	今年になってはじめて、「大阪文化財センター」の「郷土の文化財を訪ねる会」に参加した。今年4回目だが、
	3回とも今まで行った事のある場所ばかりだったのでパスしていたのだが、今回はここへ行くというので参加
	する事にした。雨が心配だったが家を出るときは降っていなかったので勇んで家を出たが、JR学研都市線の
	長尾駅に着いたらパラリパラリと降ってきた。正俊寺、菅原神社と巡ってここへ来た。所狭しと植えられたむ
	くげの花が、折からの雨に打たれて妖艶な色合いをより一層艶やかにしていた。むくげは夏から秋まで長く咲
	き続ける花で、とりわけ韓国では「無窮花(ムグンファ)」と呼ばれて、民族のシンボルの花としても愛され
	ている。

 


	「古事記」の応神天皇15・16年の条に、「阿直岐(あちき)はよく経書を読んだ。そこで、皇太子菟道稚
	郎子(うじのわきいらつこ)の学問の師とされた。ある時天皇は、阿直岐に「あなたより経書に詳しい優れた
	学者は他にいるか」と問うた。阿直岐は「王仁という優れた人がいます」と答え、(天皇は)王仁を招き、菟
	道稚郎子の師にした。」という記事がある。「日本書紀」には、「応神天皇が百済に使者を遣わして日本に迎
	えた。渡来後、皇太子の師として典籍を教えた」とあり、又、「続日本紀」には、「また百済国にも「もし賢
	人がいれば」とおおせられた。それを受けて命令を受けたのが和邇吉師(わにきし)である。彼は論語十巻、
	千字文一巻、併せて十一巻ととともに(日本へ)贈られた。」とあり、「王仁の子孫が文首(ふみのおびと)
	である西文(かわちのふみ)氏となった。」という。「古今和歌集」には王仁の歌として「難波津に 咲くや
	この花 冬ごもり 今を春べと 咲くやこの花」というのがある。この歌は、難波京で即位した仁徳天皇への
	讃歌であるとされているが、「咲くやこの花」という表現や、大阪市此花区というのはこの歌から来ている。




	上記の諸文献に王仁が出てくるが、「応神天皇の時に王仁(わに)が渡来して論語10巻千字文1巻を天皇に
	献上した」という内容には大差ないようである。しかし、「論語」は巻数が多すぎ、「千字文」は6世紀前半
	に作成されたもので、つじつまが合わない、日本に漢字・儒教を本格的にもたらしたのは、百済の武寧王によ
	る五経博士と見るべきであるというのが通説である。現在の学説では、古代朝廷において文書を司った西文
	(かわちのふみ)氏一族の祖先を立派に見せるために創作した伝承であろうとみられている。韓国においては、
	王仁に関する文献史料も考古史料もない。いずれにしても、朝鮮半島からの論語・千字文を含む先進的学問の
	渡来の事実を、王仁という人物に象徴して語り伝えたものだろうと推測される。そもそも韓国が日本に初めて
	漢字を伝えたと言うこと自体正しくない。漢委奴国王印は57年に日本へ来ているし、卑弥呼は外交使節を何
	度も中国へ派遣し、そのときの資料の中に山ほど漢字を見ているはずだ。また銅鏡その他の考古資料にも沢山
	の漢字があるので、読み書きできた日本人(渡来人・帰化人を除いても)が居たことは確実である。
	王仁以前に漢字は日本に伝わっていたのである。ただ、まとまった資料として大量に日本へ文献が渡来してき
	たのが応神天皇の頃という事になるのだろうと思われる。






	上記を読んでお分かりのごとく、この墓は京都の儒学者並川五一郎(誠所)が、いわばねつ造したものである。
	実在すらも疑われている王仁が、ここで死んだなどと言う確証はないのに、伝聞と伝承で強引に王仁の墓にし
	てしまった。教育委員会はそれを知っているので、ことさらに「伝王仁墓」と「伝」を強調している。しかし、
	ここまで大々的に日本に漢字を伝えた大恩人と評され、「漢字博士王仁」として称えられていると、もう後に
	は引けないという感じなのだろう。地元の人たちを中心に「王仁塚の環境を守る会」もでき、清掃や木の手入
	れなどを続けている。その努力や思い入れが、例え学術的には何ら根拠のないものだとしても、人々の善意を
	打ち砕いてしまうには忍びないという所か。

 


	墓の周りを取り囲んだ石柱の一本に、「東京 朝倉文夫」とあった。他にも様々な著名人が寄進しており、こ
	こを王仁の墓に仕立てるにあたっては相当な運動があったことを窺わせる。実在の人物としては認められない
	が、東アジア文化の基盤となる儒教と漢字が日本と最も友好的だった百済の最高レベルの学者によって伝えら
	れ、これが日本にとって決定的な飛躍点になったことは疑いないし、それを記念した記念碑だと思えば、殊更
	に「ねつ造、ねつ造」と騒ぎ立てるまでもないかもしれない。日韓友好のシンボルだと思えばいいのである。

 














	休息所には王仁の生地という韓国南西部・全羅南道霊岩郡の「王仁廟」の写真などを展示し、毎年4月に開か
	れる「王仁文化祝祭」の様子も紹介されている。時折、韓国からの観光旅行や修学旅行でここに立ち寄る人も
	多いというし、金鍾泌元首相が立ち寄り、ヤマモモを植樹したそうである。儒学の縁で台湾を含め中国の研究
	者や学生も訪れるらしいが、考古学上の史料は一切なく、朝鮮においても、文献資料も考古学資料にも王仁は
	一切登場しない。その実在性は証明されておらず、今のところ、王仁は伝説上の人物と見るべきであろう。

 

 


	善隣友好館と名付けられた休憩所の脇に、「千字文」の一節を刻んだ記念碑があって、その後ろから真っ直ぐ
	に伸びる木は、孔子が好んだという「楷(かい」という木である。中国・山東省の孔子廟から種子を持ってき
	たようで、それが発芽したものだという表記がある。大阪の論語普及会がこの木の種を寄贈し、地元住民らで
	つくった「王仁塚の環境を守る会」のメンバーが種をまき苗から育てたものだという。現在、この碑の周りに
	約30本の木があり、陽当たりが良ければ楷の木は、高さ25mほどの大木に成長するという。

  


	千字文は、千の異なった漢字四語による250句の詩で形成されている。一文字の重複もなく見事な韻で読み
	上げたもので、「親戚故旧(親戚縁者や古くからの知り合い)」「徳建名立(徳がたしかに定まれば名声も上
	がる)」などの熟語が並んでいる。



 


	【大阪】
	百済から渡来し、日本に論語や千字文を伝えた王仁(わに)博士の功績を顕彰する「千字文記念碑」が、王仁
	塚のある枚方市内の王仁塚に完成した。同記念碑は大阪府が王仁塚を史跡指定した六十周年を記念して宝塚王
	仁ライオンズクラブが寄贈したもの。九日の除幕式には枚方市から中司宏市長も参加、金世澤駐大阪総領事、
	金漢翊民団大阪府本部副団長らとともに鋳像の完成を祝った。
	鋳像には王仁博士の功績をたたえ「偉大なる日本儒学の祖、博士王仁の千字文と論語による仁と徳の思想と教
	訓を永遠に記念すべく本碑を建立し顕彰する」と韓国語と日本語、英語の三カ国語による説明が刻まれている。
	式典には韓国から元国会議員の柳寅鶴氏も出席、「韓日両国のさらなる交流を願う」と記された金大中大統領
	の親書を代読した。(98.5.15 民団新聞)

 


	【大阪】王仁博士の功績を顕彰する第16回「博士王仁まつり」が枚方市の大阪府史跡「王仁墓」で3日、大阪
	日韓親善協会(安部川澄夫会長)の主催で開かれ、祝い太鼓に続いて王仁博士に扮した民団大阪・枚方支部関
	係者による行列が行われた。尹■奎駐大阪総領事、洪性仁民団大阪府本部団長、王仁博士の出身地の全羅南道
	霊厳郡から駆けつけたペ勇泰郡守、中司宏・枚方市長らが見守る中、祭文の朗読などで王仁博士の功績を顕彰
	した。また、韓国の馬韓歴史文化研究会からも元国会議員の李元湃顧問ら多数が参席し、王仁博士の墓に献花
	した。(1999.11.10 民団新聞)




 

 


	儒学者並河誠所が作り上げた王仁碑の建立であったが、「王仁の墓」は河内周辺にたくさんある王仁伝承を受
	けて次第に既成の事実であったかのようになってゆく。文政10年(1827)、枚方招提村の家村孫右衛門が、
	王仁博士を顕彰するため皇族の有栖川宮の筆になる「博士王仁墳」の碑を建立した。皇室をも用いた権威付け
	は増幅され、やがてここがほんとに王仁の墓のようになり、地元でも自分たちを王仁の子孫だと思っている人
	たちがいるそうである。









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