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2002.8.15(木)






	お盆の帰省で14日の夜博多に着いた。15日に予定していたスケジュールがドタキャンとなったので、突如思いたって
	「宇佐」へ行く事にした。和気清麻呂が神託を受けに来たという「宇佐神宮」にも行きたかったし、宇佐風土記の丘にも
	一度は来たかったので、一人「日豊本線」に乗った。昔はオンボロな客車だったのに、見違えるような綺麗な汽(電)車
	になっていた。

 

 


	「宇佐風土記の丘」古墳群

	「宇佐風土記の丘」は、国指定史跡「川部(かわべ)・高森(たかもり)古墳群」の6基の前方後円墳を中心として、周
	辺に展開する円墳や方形・円形周溝墓など約120基で構成される。それぞれの前方後円墳は地形的には独立した場所に
	営まれ、その方向もバラバラである。しかしながら、古墳は宇佐平野を見下ろす駅館川(やっかんがわ)の台地に位置し
	ており、北東に豊前海を望む場所にある。陸・海両方から仰ぎ見ることのできるこうした立地は、周囲に権力を誇示した
	かった古代人にふさわしい。

	前方後円墳以外の墳墓は耕作などによって墳丘を失い、現状では墓と認識できないものが多いが、前方後円墳を中心に、
	このように多数の周溝墓が集中する遺跡は大分県内ではここだけである。九州内においても特徴的な遺跡で、規模も宮崎
	県の西都原古墳群(約320基)に次ぐ。

   
 古墳名 
 大きさ 
 築造時期
 副葬品 
 備考  
赤塚古墳 全長57.5m 3世紀末 大正10年(1921)発掘され、
副葬品は、中国製三角縁神竜虎鏡1面、
管玉3・鉄刀片3・鉄斧1
最古の前方後円墳の一つ。箱式石棺を持つ。
古墳の形に沿って10mほどの空濠。
免ケ平古墳 現在直径25mの円墳。
元来は全長約50m
の前方後円墳
4世紀 鏡・碧玉・勾玉・鉄刀・鉄剣・農耕具など。 約5mの竪穴式石室を持つ。箱式石棺から
若い女性の人骨、中国鏡、石釧が出土した。
福勝寺古墳 全長約80m。
後円部の直径約55m
の前方後円墳
5世紀   春日山古墳とも呼ばれ、県下で4番目の規模
を誇る。
車坂古墳 全長約60m。
後円部の直径約36m
の前方後円墳。
5世紀   南側と、東側に 11〜22mの空濠をもっている。
古墳のすぐ横には地蔵堂古墳と呼ばれる
小円墳がある。
角房古墳 全長46m。
後円部直径26mの
前方後円墳。
5世紀   前方部を西北にとり、駅館川に直面している。
周囲に幅7〜12mの空濠。
鶴見古墳 31.0mの前方後円墳。 6世紀   内部は横穴式石室で、石室内部の見学可。


 




	前方後円墳としては県下最古である赤塚(あかつか)古墳は、古墳時代前期(3世紀後半−4世紀初頭)に築造されたも
	ので、免ケ平(めんがひら)古墳がこれに続き、角房(かくぼう)古墳・車坂(くるまざか)古墳・福勝寺(ふくしょう
	じ)古墳が古墳時代中期(5世紀)頃、鶴見(鶴見)古墳が古墳時代後期(6−7世紀)頃の前方後円墳である。それぞ
	れの被葬者達は、宇佐平野を支配していた歴代の権力者たちと見られる。





 


	赤塚古墳から出土した鏡は、福岡県石塚山古墳、同原口古墳、京都府椿井大塚山古墳から出土した鏡の同笵鏡と見られて
	いる。博物館発行の「総合案内」には中国鏡となっているが、これは誤りである。三角縁神獣鏡が中国製か国産かをめぐ
	っては学会でも議論伯仲しており、中国鏡と断定されたわけではない。3世紀と最古式の古墳であるところからそう判断
	しているのかもしれないが、一方的に中国製と断定するのはよくない。




	赤塚古墳の西側から南側にかけて、17基あまりの周溝墓が展開している。その出現時期は赤塚古墳とほぼ同じ頃である。
	墓の築造は、古墳時代前期を中心として、一部は中期におよんでいる。また同一丘陵(大分県歴史博物館の東−南側)に
	は合計32基の方形・円形周溝墓が古墳時代を中心とする時期に形成されている。これらの墳墓群の被葬者達も、赤塚古
	墳の被葬者と同じ集団に属し、その配下にあった者達だろうと想像できる。
	   
 








	墓の築造は、西から南へ移動しながら造られていったと考えられ、免ケ平古墳や角房古墳でも同様の展開が見られる。こ
	れらから、古墳時代前期から中期にかけて宇佐平野には有力集団(ムラ)が複数存在し、それぞれの集団の支配者が各時
	期毎に宇佐地方全体の支配者となり、前方後円墳を築造していった様子がうかがえる。「宇佐風土記の丘」は、そういう
	集団の聖なる奥津城だった。現在、駅館川東岸の河岸段丘上の台地19.2 haが史跡公園として整備され、大分県立歴史
	博物館もこの公園内にある。

 





 

 

 

 


	【宇沙都比古・宇沙都比売 (うさつひこ・うさつひめ)】
	「古事記」には、東征にあたり神武天皇は、まず日向を発って筑紫へ向かい豊前の宇佐に着く。この時宇沙都比古 (うさ
	つひこ)・宇沙都比売 (うさつひめ)の二人が一足騰宮(あしひとつあがりのみや)を作って 食事(御饗:みあえ)を献
	じたとある。
	「日本書紀」では、神武天皇は甲寅年10月東征に出発し、早吸之門(はやすいのと)で一人の漁夫にあい、彼に椎根津彦
	(しいねつひこ)の名を与えた。その後天皇は筑紫国の菟狭(うさ)に至る。時に菟狭国造の祖である菟狭津彦・菟狭津媛
	が、菟狭の川上に一柱騰宮(あしひとつあがりのみや)を造り饗を奉った。天皇はこれに応え、菟狭津媛を侍臣天(あまの)
	種子命(たねのみこと)の妻とした、という。

 


	この記事については昔から論議を呼んでおり、一足騰宮の位置をめぐっても諸説ある。しかしこれらの記事については、
	神武天皇東征話そのものが、どの程度歴史的事実を反映しているのか不明であり、学会には「記紀神話」全体を否定する
	空気も根強い。だが、何らかの事跡があってそれが伝承として「記紀」に残ったと考えると、「日本書紀」が、二人を菟
	狭国造の祖としていることにもある程度の事実があり、その証拠というか、事実の痕跡が「川部・高森古墳群」とも考え
	られるのである。




	この古墳群の規模や、九州最古の前方後円墳とも言われる赤塚古墳の存在、まわりには同時代の各種の墳墓が発見されて
	いる点、少なくとも2世紀半以上の間1か所に集中して古墳がつくられている事実などを考えると、この古墳群の被葬者
	たちの中から、やがて宇佐国造が出た可能性は十分考えられる。




	国造制の成立時期については諸説あるが、宇佐平野の中で国造の墓に匹敵する遺跡を探すとすれば、まず「川部・高森古
	墳群」以外には見当たらない。6基の前方後円墳は、代々にわたりこの地域を支配した一系の首長墓だと考える見方もあ
	り、一つの首長系譜が6代もたどれるとすれば、宇佐国造の墓という見方もまんざら的はずれでもなさそうである。



	古墳群の入り口に現在「大分県歴史博物館」が建っている。古墳群から出土した遺物や、国東半島を中心とする磨崖仏や
	仏教文化の国東における隆盛が展示してある。





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