平成14年(2002)3月15日の各新聞は一斉に、奈良県御所市で見つかった、石舞台古墳(明日香村)にも匹敵する石室 を持った巨大な横穴式古墳についての記事を掲載している。條ウル神(じょううるがみ)古墳。 資料によれば、この古墳は既に大正5年(1916)刊行の「奈良縣史蹟勝地調査會第三回報告書」に、当時の奈良縣技手「西 崎辰之助」によって、「條ノ古墳」として報告されている。今回の調査で、この古墳は所在地の地名を取って「條(条)ウ ル神古墳」と名付けられた。
デカイ。上の写真を新聞で見て、こりゃなんとしても見たいと思った。しかし、現地説明会の23・24日は既に予定が入 っている。24日は終日だし、23日のAMに別件を片づけて、午後から御所へ向かおうかとも考えたが、AMは大阪南部 にいる。とても間に合うまいと思い、春分の日の今日、思いきって出掛けていった。見学会前には見せてくれないか、或い は覆いがかかっていて外から見るしかできないかもしれないが、どんな所か見るだけでもと思って西名阪へ車を走らせた。 少しパラパラと小雨が降っていたが気になるほどではなかった。新聞の大雑把な地図だけでは心許ないし、道路地図には 「條」という地名も載っていない。御所に着いたら誰かに聞こうと思っていた。
御所について、閉まっている市役所の宿直室を訪ねた。せめて道順だけでも聞こうとしたのだ。そしたらたまたま応対して くれた人が現地説明会の関係者だったようで、手に詳細な地図を持っていた。表へ出て道を聞いていると、同じ女性職員の 方が「私が案内しましょう。」と言ってくれて驚いた。「私の後に付いてきてください。」 上記の写真一帯が「條」部落である。この辺りは巨勢古墳群という700基もの群集墳がある。その規模は全国でも1,2 位を争う。
狭い部落の道を、案内してくれる職員さんの後についていったら程なく発掘現場で、地元の人数人と、やはり考古学ファン らしき人が2,3人チラホラしていた。
入り口は狭い。人一人がやっと通れるくらいだ。聞けば、「狭いので見学会は外から眺めるだけになります。」との事。め ちゃ Lucky! B4の資料も1枚くれた。外から見るだけでもと思っていたので感激だった。
上左は、石室奥面と天井を組み合わせた。何というデカイ石だろう。これはほんとに「石舞台級」だ。二上山から持ってき たかこう岩。石棺は同じく二上山の凝灰岩。 同じく上左の写真で、右側にいるのが私の嫁半である。カメラなど持ってきてないのに何で撮しているのかと思ったら、な んと携帯( J-phoneの写メール)で撮してPCへ電送していた。下がその写真であるが、まぁまぁ結構、伝えるだけならモ ノになっている。
石棺は半分土砂に埋まったままだ。土砂の上は歩くと粘土のような感じがする。今は土砂を掘る予定はないそうなので、正 確な石棺の高さは不明。 (以下3月24日記す) 末尾に書いたが、この後この古墳は埋められる。その後いつか掘られると思うが、関西大学名誉教授の網干善教氏によれば、 「藤ノ木古墳と同じようなものが出るでしょう。」との事だ。【2002.3.24 関西大学「高松塚古墳発掘30周年記念講演会」 にて】ちなみに氏は「條ウル神古墳」の調査委員長でもあって、3月23日(昨日)一般公開の説明会に行ったそうである が「ものすごい人で、3時間待って30秒見るという感じだった。」と言っていた。なんたるLUCKY と思う反面、少し後ろ めたい気もする。
今回調査時にはもう開いていたという石棺の蓋。約3トンと推定される。右は中に手を入れて撮した石棺内部。粘土のよう に固まった土の中に、藤ノ木古墳のような黄金の太刀やもろもろの副葬品が埋まっているかもしれない。再調査が待ち遠し いものだ。果たして葛城氏か巨勢しか、はたまた蘇我氏なのか? 掘ってみたい衝動に駆られる。
明後日の土・日に現地説明会があり、それが終わったらただちに埋め戻すのだそうだ。その後の発掘は、来年度以降予算が 付いて計画に入れば行われるそうだが、そうでなければしばらく埋められたままになる。許勢氏のものなのか、葛城氏か、 それとも蘇我氏なのか、決着はその時まで着きそうにない。個人的には葛城氏であって欲しいような気も・・・。 朝日新聞は「条」の字を用いているが、日経は「條」である。市役所の資料にも「條」とあるし、地名も「條」なのだから。 ここは本来の字を使うべきなのではないだろうか。ちなみに「條(じょう)」が大字で、「ウル神(がみ)」が小字だそう だが、どうしてカタカナの地名なのかは聞き忘れた。
御所の條ウル神古墳の石室 金銅製馬具の一級品 棺外、ほぼ完形を確認 奈良新聞 2003年5月29日 国内最大級の横穴式石室が見つかった御所市條の條ウル神古墳(6世紀後半)で、金銅製馬具の一部がほぼ完全な形で発見 されていたことが、28日までに分かった。石棺の手前に置かれ、周辺にはよろいの小札(こざね)が散らばっていた。調査 した市教委は「棺外の遺物は手つかずで残った可能性が強い」と話しており、副葬品でも1級の成果が期待される。 同古墳は御所市教委が平成13年度に発掘調査。石室は長さ7.1メートル、幅2.4-2.7メートルで、蘇我馬子の墓といわれる明 日香村の石舞台古墳に匹敵する。床には約60センチの土砂がたい積しており、家形石棺の高さを確認するため、入り口側の 約25センチ四方を掘ったところ、金銅製馬具の一部が見つかった。くらの前後を飾る前輪か後輪(しずわ)で、フレームに あたる覆輪(ふくりん)と海金具、磯金具がそろっていた。遺物の取り上げは行わず、顔を見せた先端部だけ観察した。 金銅装は金メッキした銅板を鉄板などに張りつける技法で、藤ノ木古墳(6世紀後半)の金銅製馬具(重要文化財)にも使 われている。今回の馬具に文様は確認されていないが、海金具に金銅装を用いる例は少なく、1級の資料であることがうか がえる。 棺外の副葬品は棺と奥壁の間に置かれることが多く、入り口側で見つかるのは異例。出土土器の形式などから追葬のあった ことが分かっており、金銅製馬具がこの時の副葬品だった可能性もある。石棺内の副葬品は盗掘を受け、ガラス玉と冠など の飾りとみられる金銅板が蓋の上に散らばっていた。條ウル神古墳は巨勢山古墳群の一角にあり、古代豪族・巨勢氏を率い た人物の墓と考えられている。 県立橿原考古学研究所の河上邦彦副所長は「金銅製馬具などの副葬品が残ったということは、盗掘者が床面を掘り荒らして いない可能性がある。石室に水がたまって掘れなかったのかもしれない。かなりの副葬品が手つかずと考えられ、今後の調 査に期待したい」と話している。 (c)NARA-SHIMBUN 2003