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2000.9.16(土)

9500年前・南九州にもあった縄文時代の定着集落跡








	上野原遺跡は、鹿児島県国分市川内の標高250mの台地上にあり、工業団地「上野原テクノパーク」の造成(第1区〜第
	4区に分かれ造成された)に伴い、昭和61年に発見され、一部部分的に発掘調査が行われたが、以後、平成4年度から本
	格的な発掘調査が続いていた。昭和61年の第1区をはじめとした調査では、弥生時代の竪穴式住居跡(約 1,800年前)など
	が発見され、棟持ち柱のある掘建柱建築物2棟と竪穴式住居5基からなる弥生時代中期の集落が確認されている。(現在は
	第1区第2区は工業団地として使用され、遺跡そのものは埋め戻されて、記録上に存在するのみである。)

	平成3年〜6年度に行われた第3工区では、縄文時代早期後葉(約7,500年)の壷形土器、土偶や耳飾り(耳栓)などが出土し、
	南九州の縄文文化として全国的に注目され始めた。(この時の、出土品767点は平成10年6月30日に国指定重要文化
	財に指定されている。)
	そして、平成7年度から始まった第4工区の調査において、平成9年5月、約9500年前の火山灰がみつかったことでこ
	の遺跡は一躍脚光を浴びる事になる。この調査で発見された縄文時代晩期(約2,500年前)の竪穴式住居跡や弥生時代の
	竪穴式住居跡、10数列の柵跡(延長1、200m)等の遺構や遺物も注目を集めたが、特に縄文時代早期の竪穴住居の中か
	ら、9500年前の火山灰がみつかったことで、この遺跡は今から約9500年前の、国内では最古・最大級の集落跡であ
	ることが判明したのである。

       
【鹿児島・上野原遺跡】
開館時間 午前9時00分〜午後5時00分
休館日 月曜日、祝祭日の翌日、年末・年始(12月28日〜1月4日)
入館料 無料
住所・TEL番号 鹿児島県国分市川内 鹿児島県埋蔵文化財センター TEL 0995-65-8787
交通案内 JR日豊本線国分駅よりタクシー約20分
その他 西日本にも広く縄文時代が栄えていたことを立証した遺跡。青森の三内丸山遺跡よりも古い集落跡が発見される。






国道10号線を鹿児島方面から北上し、国分を通り過ぎてしばらくするとあちこちに「上野原遺跡」の案内板がある。下の看板から左に折れると5分ほどで遺跡に到着する。「上野原テクノパーク」という看板を見てきてもいい。同じ所に着く。







桜島が目の前に見えている。上野原は海岸にどーんと突き出た高台にあったらしい。
 


	上野原台地をすこし下へ降りていくと船着き場の跡も発掘されている。「縄文海進」で海岸線は相当近くまで来ていたよう
	だ。展望台(テクノパーク2区にある)のあたりから、船着き場跡を探したが分からなかった。

 


	とうとう来たぞ。遺跡発見の報道を目にしてからここへ来たくてたまらなかった。
	70年生きると仮定して私の人生を214回繰り返す程の昔に、ここに人間が住んでいた。土器を造り、壺に水を蓄え、イ
	アリングで耳を飾り、争いもなく子供を育て集落を形成していたのだ。北の果ての「三内丸山」といい、この南の果ての
	「上野原」といい、どうして広大な縄文遺跡に立つとゆったりした心持ちになるのだろう。
	「吉野ヶ里」や「妻木晩田」も弥生遺跡として確かに広大だし、仁徳天皇陵などは歩いて巡っても全貌は想像できないくら
	いデカい。
	しかし弥生・古墳時代の遺跡を見ても、縄文遺跡を見たときに感じるような心の平安は覚えない。これは一体どうした事だ
	ろう。おそらくは、私の脳内の「縄文時代」についてのイメージが美化されて、牧歌的な光景とダブッてここを穏やかな桃
	源郷のような気にさせているのだろうが、そのような知識からくる感慨とは別なものが何かあるような気がする。

 



 




	入り口で受け付けをしてくれたおじさんが寄ってきて「説明が要りますか?」と言うのでお願いした。ボランティアのおじ
	さん達は発掘作業にも従事したそうである。我々に説明してくれたこのおじさんは石臼を掘り当てた。(後出)

 



下は平成9年の発掘現場一般公開時の第4工区を上空から見たもの。
(C)Copyright Minaminippon Shinbunnsha co.,


下はその発掘状況。霧島が見える。





	火山灰層に挟まれて多くの遺物が出土した。竪穴式住居跡52基、石焼き料理の元祖と思われる集石施設が39基、薫製製
	造施設と思われる連結土坑が16基、貯蔵や埋葬などに使用されたと見られる土坑群(約260基の土杭)、道跡2箇所等
	々が発見されている。いずれもあきらかに定住を示す集落跡である。







宮本長二郎氏は古代建物の復元には必ずと言っていいほど名前がでる。著名な遺跡の建物復元に殆ど関わっている。



 

上は発掘時、下はその復元。熱した石を食物と一緒に置き、蒸らして調理したらしい。今でも南方では同じ調理法がある。

 



上野原遺跡のシンボル  −連結土坑−


 

明日NHKの森田美由紀アナウンサーが取材に来るというので、連結土杭の試し焼きをやっていた。

 

 


	この遺跡からは、さらに驚くべきものも出土した。弥生土器を思わせる約7,500年前の地層から出た「壺型土器」であ
	る。壺型の土器は稲作文化の産物として、穀物貯蔵用に製作されたというのがこれまでの常識であった。それが既に縄文初
	期、南九州において使用されていたのである。これはその後2,000年を経て関東・東北でさかんに製作されることにな
	る。










	他にも成熟した文化が栄えていたことを示す出土品は多い。薫製製造施設もそうだが、女性の耳を飾ったと思われるイアリ
	ング型土製品や土偶等。一般的には、縄文時代は中盤から後半にかけて最盛期を迎えたと考えられてきた。しかしこの上野
	原遺跡では、早くも縄文早期にはその文化が既に成熟期を迎えていたのである。


 

	右上写真の左側石臼を、説明してくれたおじさんが発掘した。勿論レプリカ。本物は埋蔵文化財研究センターにある。



	下の年表看板は、長さの尺度を年数に比例して製作してある。縄文時代がいかに長いかという事を実感する。
 

 

看板に載っていた右上の写真中程にある石臼を指さして、おじさんは「これ、これ、私が掘ったんです。」と得意げだった。



	落とし穴の中には尖った杭が立ててあり、落ち込んだ動物が刺さって死ぬようになっている。縄文時代、大型の動物は捕ら
	えてもどうやって殺すかが難問だったらしい。下手をすれば攻撃されてこっちが死ぬからだ。

 

一部の復元建物では、内部に生活の様子を再現してある。

 

 



 





地層の断面は覆いをしておかないと、風雨ですぐボロボロと崩れていくらしい。あまりひどくなると削り直すらしいが、我々はちょうど削った後に来たそうで、くっきりと層の違いが分かった。おじさんが「いやぁ、運のいい人達ですねぇ。」とお世辞をいったが、そうするとこの断面はしまいには削って無くなってしまうんだろうか? まだ見てない人、早くいかなきゃ。














	上野原遺跡の時代環境は、最後の氷河期が15,000年前に終わり、温暖化が進み始める時代である。森はやがて緑の平
	原となり、そこからの恵みは次第に縄文人達の定住化を可能にしていったと思われる。南から進んだ温暖化は、人類の定着
	化も又、南から進んでいった事を推測させる、その証拠のような遺跡が上野原遺跡なのである。




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錦江湾に沈む夕陽を浴び桜島を見ながら今夜の宿、姶良郡にある国民年金保養所「サンピアあいら」を目指す。





上野原遺跡内に資料展示館がある。出土品のレプリカや参考資料が展示されている。見たい方は以下のバナーをクリックして下さい。




=関連情報1=
屋久島の横峯遺跡で縄文時代の住居跡400基見つかる Asahi.com 2000.5.15
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鹿児島県屋久町教委は14日、同町安房の屋久島横峯遺跡で発掘を進めていた縄文時代後期中ごろ―後半(約3500―3200年前)のものとみられる竪穴住居跡の総数が350―400基に上ると推定される、と発表した。住居跡は約3000平方メートルの範囲に重なり合って密集しており、当時の人が住居を建て替えながら定住を続けていたとみられる。縄文時代の住居跡の数としては西日本最大で、これまで東日本中心とされてきた縄文文化の見方に一石を投じそうだ。
屋久島横峯遺跡は島の東側海岸から約1キロ内陸に入った、標高約80メートルの平たんな土地にある。調査団(団長・上村俊雄・鹿児島国際大教授)によると、竪穴住居跡はいずれも長径約4―6メートルのだ円形で、東西約90メートル、南北約55メートルの範囲に広がっている。一部が重なり合うような状態で見つかっており、縄文時代の遺跡としては極めて密集度が高いという。

調査団は「場所が平たんで、近くに沢もあるため、生活に適していたことや、短期間に次々と家を建て替えたことが密集の原因と思われる。約300年にわたって安定した集落が形成されていたようだ」としている。当時の住居の耐用年数や他の遺跡の例から考えて、同時期に併存していた住居数は最大でも16―17と推定されている。
周辺からは、植物の調理具である石皿やすり石が多数出土する一方、石のやじりや釣り針といった狩猟・漁業用の道具は見つかっておらず、植物性食糧への依存度が高かったことがうかがわれる。のみ状石器など木の伐採・加工用具も多いという。本土と同じ様式の土器や屋久島にはない黒曜石が見つかったことから、南九州など本土との交流もあったらしい。

縄文時代後期の住居跡がまとまって出土した例としては、西日本ではこれまで宮崎県木城町の石河内本村遺跡の56基が最高だった。今回の遺跡はそれを大きく上回る。
縄文文化は東日本が中心とされていたが、鹿児島県内でも近年、上野原遺跡(国分市)など縄文草創期から早期の遺跡が次々と見つかっている。今回、後期の大規模な集落跡が新たに確認されたことで、東日本を中心とする考え方がさらに揺らぐことになりそうだ。

調査団副団長の中園聡・鹿児島国際大助教授は「今回の発見は、狩猟用具が見つからないなど特異な点もあり、多様な縄文文化が日本各地で発達していたことを示す証拠にもなる」と話している。(09:11) (C)Copyright Asahi Shinbun co., LTD


=関連情報2=



	上野原遺跡以前にも、南九州において縄文遺跡が無かったわけではない。しかし、三内丸山遺跡に代表される「東の縄文」
	に対してその規模はあまりに小さく、発掘者によっては「もしかしたら(今掘っている遺跡は)相当古いのでは?」と感じ
	た者がいたとしても、確信が持てるほどではなかったのだ。平成4年には、鹿児島県加世田市の「栫ノ原遺跡」(かこいの
	はら)で縄文時代草創期(約11,000年前)の集石や石積みが出土したが、集落跡は発見されなかった。だがその兆しは見え
	始めていたのである。
	そこへ「上野原遺跡」が登場した。発見当時マスコミは、「縄文もやっぱり西からか?」とか、「薩摩から津軽へ渡った縄
	文人!」とか言う見出しを付けてこの発見を報じたが、この遺跡のもたらしたものの探求は今からであろう。
	とりあえずの大騒ぎは済んで、研究者達はこの遺跡のもたらしたものの真の意味について、あらゆる方面から照射を浴びせ
	なければならない。鹿児島県国分市上野原遺跡は、日本国内最古最大級の定住集落跡として、平成11年1月14日、【第
	四工区】が文化庁から国指定史跡に指定された。



=関連情報3=





	=参考文献及び資料原典=

	・平成10年7月10日鹿児島県教育委員会発行「上野原遺跡出土品」パンフレット
	・平成10年8月25日国分上野原シンポジウム実行委員会発行「日本文化の原点・国分上野原シンポジウム」
	・鹿児島県立埋蔵文化財研究センター発行「上野原遺跡」パンフレット
	・平成9年7月22日南日本新聞社発行「縄文グラフ 発掘!上野原遺跡」 および
	・上野原遺跡内資料展示館に常備されていた各種説明資料

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