上野原遺跡は、鹿児島県国分市川内の標高250mの台地上にあり、工業団地「上野原テクノパーク」の造成(第1区〜第 4区に分かれ造成された)に伴い、昭和61年に発見され、一部部分的に発掘調査が行われたが、以後、平成4年度から本 格的な発掘調査が続いていた。昭和61年の第1区をはじめとした調査では、弥生時代の竪穴式住居跡(約 1,800年前)など が発見され、棟持ち柱のある掘建柱建築物2棟と竪穴式住居5基からなる弥生時代中期の集落が確認されている。(現在は 第1区第2区は工業団地として使用され、遺跡そのものは埋め戻されて、記録上に存在するのみである。) 平成3年〜6年度に行われた第3工区では、縄文時代早期後葉(約7,500年)の壷形土器、土偶や耳飾り(耳栓)などが出土し、 南九州の縄文文化として全国的に注目され始めた。(この時の、出土品767点は平成10年6月30日に国指定重要文化 財に指定されている。) そして、平成7年度から始まった第4工区の調査において、平成9年5月、約9500年前の火山灰がみつかったことでこ の遺跡は一躍脚光を浴びる事になる。この調査で発見された縄文時代晩期(約2,500年前)の竪穴式住居跡や弥生時代の 竪穴式住居跡、10数列の柵跡(延長1、200m)等の遺構や遺物も注目を集めたが、特に縄文時代早期の竪穴住居の中か ら、9500年前の火山灰がみつかったことで、この遺跡は今から約9500年前の、国内では最古・最大級の集落跡であ ることが判明したのである。
|
|
開館時間 | 午前9時00分〜午後5時00分 |
休館日 | 月曜日、祝祭日の翌日、年末・年始(12月28日〜1月4日) |
入館料 | 無料 |
住所・TEL番号 | 鹿児島県国分市川内 鹿児島県埋蔵文化財センター TEL 0995-65-8787 |
交通案内 | JR日豊本線国分駅よりタクシー約20分 |
その他 | 西日本にも広く縄文時代が栄えていたことを立証した遺跡。青森の三内丸山遺跡よりも古い集落跡が発見される。 |
上野原台地をすこし下へ降りていくと船着き場の跡も発掘されている。「縄文海進」で海岸線は相当近くまで来ていたよう だ。展望台(テクノパーク2区にある)のあたりから、船着き場跡を探したが分からなかった。
とうとう来たぞ。遺跡発見の報道を目にしてからここへ来たくてたまらなかった。 70年生きると仮定して私の人生を214回繰り返す程の昔に、ここに人間が住んでいた。土器を造り、壺に水を蓄え、イ アリングで耳を飾り、争いもなく子供を育て集落を形成していたのだ。北の果ての「三内丸山」といい、この南の果ての 「上野原」といい、どうして広大な縄文遺跡に立つとゆったりした心持ちになるのだろう。 「吉野ヶ里」や「妻木晩田」も弥生遺跡として確かに広大だし、仁徳天皇陵などは歩いて巡っても全貌は想像できないくら いデカい。 しかし弥生・古墳時代の遺跡を見ても、縄文遺跡を見たときに感じるような心の平安は覚えない。これは一体どうした事だ ろう。おそらくは、私の脳内の「縄文時代」についてのイメージが美化されて、牧歌的な光景とダブッてここを穏やかな桃 源郷のような気にさせているのだろうが、そのような知識からくる感慨とは別なものが何かあるような気がする。
入り口で受け付けをしてくれたおじさんが寄ってきて「説明が要りますか?」と言うのでお願いした。ボランティアのおじ さん達は発掘作業にも従事したそうである。我々に説明してくれたこのおじさんは石臼を掘り当てた。(後出)
火山灰層に挟まれて多くの遺物が出土した。竪穴式住居跡52基、石焼き料理の元祖と思われる集石施設が39基、薫製製 造施設と思われる連結土坑が16基、貯蔵や埋葬などに使用されたと見られる土坑群(約260基の土杭)、道跡2箇所等 々が発見されている。いずれもあきらかに定住を示す集落跡である。
この遺跡からは、さらに驚くべきものも出土した。弥生土器を思わせる約7,500年前の地層から出た「壺型土器」であ る。壺型の土器は稲作文化の産物として、穀物貯蔵用に製作されたというのがこれまでの常識であった。それが既に縄文初 期、南九州において使用されていたのである。これはその後2,000年を経て関東・東北でさかんに製作されることにな る。
他にも成熟した文化が栄えていたことを示す出土品は多い。薫製製造施設もそうだが、女性の耳を飾ったと思われるイアリ ング型土製品や土偶等。一般的には、縄文時代は中盤から後半にかけて最盛期を迎えたと考えられてきた。しかしこの上野 原遺跡では、早くも縄文早期にはその文化が既に成熟期を迎えていたのである。
右上写真の左側石臼を、説明してくれたおじさんが発掘した。勿論レプリカ。本物は埋蔵文化財研究センターにある。 下の年表看板は、長さの尺度を年数に比例して製作してある。縄文時代がいかに長いかという事を実感する。
落とし穴の中には尖った杭が立ててあり、落ち込んだ動物が刺さって死ぬようになっている。縄文時代、大型の動物は捕ら えてもどうやって殺すかが難問だったらしい。下手をすれば攻撃されてこっちが死ぬからだ。
上野原遺跡の時代環境は、最後の氷河期が15,000年前に終わり、温暖化が進み始める時代である。森はやがて緑の平 原となり、そこからの恵みは次第に縄文人達の定住化を可能にしていったと思われる。南から進んだ温暖化は、人類の定着 化も又、南から進んでいった事を推測させる、その証拠のような遺跡が上野原遺跡なのである。
上野原遺跡以前にも、南九州において縄文遺跡が無かったわけではない。しかし、三内丸山遺跡に代表される「東の縄文」 に対してその規模はあまりに小さく、発掘者によっては「もしかしたら(今掘っている遺跡は)相当古いのでは?」と感じ た者がいたとしても、確信が持てるほどではなかったのだ。平成4年には、鹿児島県加世田市の「栫ノ原遺跡」(かこいの はら)で縄文時代草創期(約11,000年前)の集石や石積みが出土したが、集落跡は発見されなかった。だがその兆しは見え 始めていたのである。 そこへ「上野原遺跡」が登場した。発見当時マスコミは、「縄文もやっぱり西からか?」とか、「薩摩から津軽へ渡った縄 文人!」とか言う見出しを付けてこの発見を報じたが、この遺跡のもたらしたものの探求は今からであろう。 とりあえずの大騒ぎは済んで、研究者達はこの遺跡のもたらしたものの真の意味について、あらゆる方面から照射を浴びせ なければならない。鹿児島県国分市上野原遺跡は、日本国内最古最大級の定住集落跡として、平成11年1月14日、【第 四工区】が文化庁から国指定史跡に指定された。
=参考文献及び資料原典= ・平成10年7月10日鹿児島県教育委員会発行「上野原遺跡出土品」パンフレット ・平成10年8月25日国分上野原シンポジウム実行委員会発行「日本文化の原点・国分上野原シンポジウム」 ・鹿児島県立埋蔵文化財研究センター発行「上野原遺跡」パンフレット ・平成9年7月22日南日本新聞社発行「縄文グラフ 発掘!上野原遺跡」 および ・上野原遺跡内資料展示館に常備されていた各種説明資料