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若狭・鳥浜貝塚 2000.5.4(木)& 2003.9.22(月)福井県三方町








	北陸地方における縄文時代の特筆すべき遺跡「鳥浜貝塚」は、福井県三方町の三方駅から西方約1km、三方湖に注ぐ「はす川」
	と高瀬川の合流地点にあった。発掘現場そのものは現在水中に没しているが、この河原付近に最近(平成12年5月)この遺跡を
	テーマにした「縄文博物館」がOPENした。
	鳥浜貝塚からの遺物は「三方町立郷土資料館」「福井県立若狭歴史民俗資料館」にも分散して展示されていたが、三方町として
	はこの「縄文博物館」を今後の目玉にしたいようである。「三方町立郷土資料館」の縄文時代遺物は全て「縄文博物館」に移さ
	れた。
	遺跡の発掘調査は、昭和37年から60年まで10次にわたって行われた。その結果、約5000年〜6000年前の縄文時代前期の遺跡であ
	る事が確認された。縄文時代には「鳥浜貝塚」の周辺まで湖がせまり、遺跡の西方から伸びる丘陵が岬のように湖に突きだして
	いた。縄文人達はこの丘陵先端の南側斜面に住居を構え、貝殻をはじめさまざまな日常生活のゴミを廃棄して遺跡が形成される
	ことになった。「鳥浜貝塚」は海抜0(ゼロ)メートル以下の低湿地遺跡と呼ばれる河床の下から見つかっているため、さまざ
	まな遺物が破壊・分解される事無く今日まで残ったもので、縄文人が湖岸から水中に捨てていた日常生活のゴミの山が彼らの生
	活ぶりを現代に蘇らせる「宝の山」となったのである。
	第10次までの発掘調査で出土した遺物は総数20数万点にも及び、それまでの縄文時代の概念を塗り替えるような貴重な遺物の出
	土が相次いだ。とくに調査が進んだ段階での第4次発掘調査(昭和47年)では、「鳥浜貝塚」のシンボルとも言える縄文時代の
	逸品「赤色漆塗り櫛」が発見された。9本歯の短い飾り櫛とみられ、堅いヤブツバキの1枚板で作られている。
	縄文時代にこれほど完全な漆塗り技術が存在していたとは誰も想像すらできず、各方面に大きな衝撃を与えた。その後、三内丸
	山遺跡をはじめとして幾つかの縄文遺跡から漆塗り製品が発見される事になるが、当時は「縄文時代観」を覆す大発見だった。
	「取り上げた瞬間は真紅の櫛だったものが、5000年後の空気に触れたとたん、手の中でみるみる黒ずんだ赤色に変色していった。」
	という報告書の記述は、発掘現場に居た者ならではのリアルな驚きと興奮が伝わってくる。漆塗り製品の出土はその後も続き、
	赤色漆を全面に塗った上に黒色漆で模様を描いた木製の深鉢や皿、さらには焼いた上に真っ赤なベンガラを塗って仕上げた丹彩
	土器など、当時の技術の高さがしのばれる。これらは前述の「福井県立若狭歴史民俗資料館」と新設の「縄文博物館」で見るこ
	とができる。

 

JR小浜線の「三方駅」。駅前には福井県出身の歌手「五木ひろし」が寄贈した石碑が据えられている。



鳥浜貝塚遺跡までは、三方駅から歩いて10分ほどである。上写真の中央、現在記念碑が建っている場所が発掘された。




 

昨日(9月21日)の雨で「はす(魚時)川」は満々と水をたたえている。

 

 

 







 

記念碑のそばにはでっかい縄文人の像がたっていて、「ここが遺跡だぞー」と教えている。






		第4次の調査では、もう一つ大きな発見があった。「縄文時代」の呼び名となった「縄」である。「縄文時代」の名付け親
		は「大森貝塚」を発見したモースである。彼の「CODE MARK」という語を、白井光太郎が「縄文」と訳したのであるが、それ
		まで縄目の付いた縄文土器は各地から山ほど発見されているのに、肝心の「縄」そのものの出土は皆無だったのである。
		それがこの「鳥浜遺跡」から出土した。直径10ミリに満たない程の「縄」の断片を発見した時の発見者の興奮はいかなる有
		様だったか、想像するに余りある。
		最終的には180点に上る程の「縄」が発見されるのであるが、縄の「撚(よ)り方」にも様々な方式があった。「二本撚り」
		「三本撚り」「右撚り」「左撚り」。太さも2,3ミリの糸状のものから、5ミリ程度の紐状、10ミリ以上の綱状など、想像以		上のバリュエーションを持っていた。材料も、大麻やアカソ、ヒノキなどの植物繊維を使用し、敷物や袋、カゴ、漁網など
		多種多様な「繩製品」も大量に出土した。これはそれまでの「縄文遺跡」からは全く出土したことの無いものばかりであっ
		た。

		鳥浜貝塚の出土品からは、繊維工芸技術や漆工芸技術と同時に、木工技術の内容とその水準も明らかになっている。とくに
		木製品の出土は縄文時代の木工技術とその道具を考える上で非常に重要である。ユズリハなどの弾力のある材料を選び、木
		の幹と枝を巧みに利用した石斧や弓具などの完成品も出土している。また当時の木工技術の水準の高さを示すものに「丸木
		舟」がある。第6次の調査で発掘された「丸木舟」は、直径6メートルほどの杉の大木を用いて焼き焦がしながら芯の部分を
		刳り抜いて製作してある。

		第4次の調査では自然科学の各分野との共同調査も行われ、その結果として栽培植物のヒヨウタンの原産地が西アフリカであ
		り、従来説の伝来年代を3000年近くも遡る事がはっきりした。その後の調査でもシソ、エゴマ、ゴボウなどの海外から渡来
		した栽培植物の発見が相次いだ。貝塚は10次にわたる全調査が終了した後、河川改修工事によって海中に没した。

		鳥浜貝塚遺跡の西500mには「ユリ遺跡」があって、ここからも縄文時代の丸木船や縄文土器が多数出土している。この
		遺跡からさらに5,6分歩くと「三方町立縄文博物館」があるが、鳥浜貝塚からの出土物の大半は、同じくJR小浜線の
		「東小浜駅」にある、福井県立若狭歴史民俗資料館に展示されている。元々若狭歴史民俗資料館に展示されていて、三方町
		は最近縄文博物館を建てたのだが、ここに全部移すわけにはいかなかったようだ。また同じく三方町には北寺遺跡もあって、
		ここも船の櫂(かい)や土器等々を出土する典型的な縄文時代の遺跡である。




以下は、三方町縄文博物館での「鳥浜貝塚等遺跡」 発掘の案内ビデオから一部を転載。



	
	流入する水を防ぐため設置した防護壁の鉄板が、丸木船の船尾のど真ん中に穴を開けてしまったようだ。その後防護壁を取
	り外してから全体が出土したが、残念な事にそこだけ穴が開いている。現在この丸木船は、JR東小浜駅にある、福井県立
	若狭歴史民俗資料館に展示されている。


	
	ユリ遺跡からも丸木船が出土したことにより、従来あった「三方五湖は五湖ではなく六湖だった」という説に信憑性が増し
	た。ユリ遺跡からはその後も2号、3号遺跡と、ぞくぞく丸木船が出土し、それらはこの三方町の縄文博物館に実物が展示
	されている。







【福井県立若狭歴史民俗資料館】
〒917-0241 福井県小浜市遠敷2丁目104
TEL 0770-56-0525  FAX 0770-56-0837



【三方町縄文博物館】
〒919-1331 福井県三方郡三方町鳥浜122-12-1
TEL 0770-45-2270  FAX 0770-45-3270





 
	
	「若狭」という国名については諸説有り判然としないが、地元では、地元が生んだ江戸時代後期の国学者伴信友(ばんのぶ
	とも)の説が有力視されているようである。それは、日本書紀の履中天皇の巻に、「若狭国造膳臣余磯(かしわでのおみあ
	れし)が、天皇に御酒を献じた時に、冬の11月 6日であるというのに、どこからともなく桜の花びらが舞い落ちて天皇の盃
	に浮かんだ。天皇はこれを慶び、余磯(あれし)に稚桜部臣(わかさくらべのおみ)という名を与えた。」という記事があ
	ることから、この稚桜(わかさくら)が和加佐(若狭)となったのであろう、というものだ。非常に美しい説であるが、果
	たして真相やいかに?








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