Music: ariran
トンカラリン
2003年2月26日 熊本県菊水町






	熊本県菊水町に、「トンカラリン」と呼ばれる古代の遺跡がある。地中にできた暗渠(あんきょ)や地割れによる縦穴の上部
	を葺石で塞いで、延々460mに渡ってつなげた随道(トンネル)型の遺構である。排水施設であるとか、道教の教えに基づく
	祈願の為の隧道であるとか、卑弥呼の祭祀施設の一部であるとかいわれたが、結局のところ、この遺構建造の真の目的や用途
	は判明していない。また、土器類や時代を特定する地層とかも明らかではないため、はっきりした時代特定もできていないが、
	地元に何の伝承も残っていない事や、最近、江戸時代の灯置台が3つ発見された事から、少なくとも江戸時代よりは前の遺構
	である事は確かで、人によっては太古(縄文・弥生)という見方もあるし、4世紀築造とも言われる。昭和49年に一度本格
	調査され、推理作家の故松本清張氏が、「邪馬台国の卑弥呼の鬼道説」を発表すると、全国の歴史・考古学ファンが現地に殺
	到して一躍脚光を浴びた。




	2月中旬、熊本の玉名市に住む吉崎さんからメイルをいただいた。この「邪馬台国大研究」のHPをよくご覧頂いているよう
	で、数年前に訪れた「江田船山古墳」の近くに「トンカラリン」という遺跡があって、卑弥呼に関わるという話もあるので、
	今度熊本へ来ることがあったら是非寄ってください、という内容だった。トンカラリンという名前は聞いたことがあったが、
	熊本のどこにあるのかも知らなかったし、このような隧道遺跡だともしらなかった。また、熊本もいつ行けるか判らなかった
	ので、吉崎さんにはとりあえずの返事を返しておいた。ところが、2,3日して部下が、「井上さん、来週熊本に行けますか」
	と聞いてきた。熊本の顧客に契約更新の判子をもらいに行くので、ご無沙汰しているし一緒に行ってくれと言うのだった。
	何という偶然、作ったようなタイミングとはこの事だ。二つ返事でOKし、早速吉崎さんにmailを出した。

 


	仕事が終わって、吉崎さんが「木の葉駅」まで車で迎えに来てくれた。ご自宅の横を通りトンカラリンへ行くと、菊水町の経
	済課商工観光係の前渕さんが待っていた。吉崎さんはあまり詳しくないので、わざわざ頼んでくれたのだという。恐縮しなが
	らも名詞を交換して、パンフレットと資料を頂き、早速説明をうかがう。帰りに、吉崎さんからも資料を頂いたが、ここに掲
	載したデジカメ以外の資料は、全てその時頂いた資料からの転載・引用である。記して深く感謝したい。
	また、当日私はスーツにコートという出で立ちだったので、トンカラリン内部へは入れなかった。お二人は、「今度は汚れて
	もいいような服装で来てください。」と仰ったが、そんなわけで、ここでトンネル内部について記述している部分は、お二人
	からの話とその他資料からの引用である事をお断りしておく。

 

上左はたんたん落としの前の石舞台。

 




	「トンカラリン」の一番下の部分に当たる長力(ちょうりき)という所に、長力横穴群がある。凝灰岩の岩をくり抜いた墳墓
	で、近くの「石貫ナギノ横穴群」のように穴を開けてそこに遺体を葬ったようだが、「石貫−」のほうは綺麗に穴を穿ってあ
	るが、こちらはただボコッと穴が開いただけの横穴である。中へは入れなかったので、手を突っ込んでデジカメで撮影したが、
	「高井田横穴古墳群」などと比べても、ずいぶん簡素な墓群のようだ。

 

 


	2,3個横穴が並ぶ崖の、横穴入り口の前に、トンカラリンの最終出口(入口?)があり、その前に半月形の大岩が横たわっ
	ている。石舞台と呼ばれている。スパッと切ったような切り口の半円である。その大岩の上で、吉崎さん前渕さんが踊る。
	「こんなして卑弥呼が踊ってたんでしょうかねぇ。」

 

 

タンタン落とし(下)へ行く道は今工事中だったので、迂回して車で廻り、下へ降りてきた。

 


	最下部のタンタン落としという出水口から始まって最上部まで、トンカラリン全体は切石で構築されている。トンネル内部は
	阿蘇凝灰石でできており人工的な石組み通路である。二つ目のトンネルは内部に7段の石段が組まれ、更に上部のトンネルは
	自然の地隙を利用している。タンタン落としも全面切石で築かれ、大きさは大人が腰をかがめてやっと歩けるほどである。大
	きな排水路のような切石面の上部には、小さい通水路のような穴がある。何の目的でこんな穴を開けているのか全くわからな
	い。最上部のトンネルは11石の4面切石の精巧な壁となっており、いずれのトンネルも切石の天井ふたがあって、上を埋め
	土が覆っている。タンタン落としの石組法は、朝鮮半島の古代遺跡、あるいは沖縄の城跡などにも見られ、「卍構え」と呼ば
	れる石積み技法らしい。ここから、タンタン落としには朝鮮半島の技術を用いていると言う意見がある。




 




	トンカラリン全体は、もともと形状や大きさの違ったトンネルを連ねてつくられており、阿蘇凝灰岩の切り石を組んだ隧道、
	U字型の溝、蓋石(ふたいし)を乗せた地隙(ちげき =地盤の裂け目)からなる。「トンカラリン」という名前は、上部の
	穴から小石を下の穴の中に落とした時この音がするからと言われている。しかし、中国北方民族の古代語で、「トンカラ (ト
	ンカリ)」は「天」または「拝天者」、「リン」は「君主」を表わすので、「トンカラリン」は実は語源は朝鮮語で、高句麗の
	伝説の始祖「天帝」をさすのだ、という解釈もある。また、朝鮮語で洞窟(どうくつ)を意味する トングリから来ているの
	ではないかという説もあり、タンタン落としの石垣は古代の朝鮮式山城にそっくりだとも言われる。 今では随道遺跡全体を
	トンカラリンと呼んでいる。この遺跡の用途や建設方法などについては今もなお多くの謎が残されているが、石は方形に切
	ってあり、中には装飾らしきものもあると言う。

 

 

 


	「トンカラリン」遺跡の中は、人が1人やっと通れるほどの狭く曲がりくねった通路や、這ってしか通れないほどの人工的
	な石組み通路から成っている。全長464.6m、「タンタン落し」と呼ばれる開口部周辺から始まり、最下部の穴は腰を
	かがめて通れるほどの大きさで、全部切石で築かれている。空溝を昇った二つ目のトンネルには、内部に7段の階段があり、
	それを登りつめると人が這って通れるほどのトンネルとなっていて、37m続く。更に続く上部の2つのトンネルは自然の
	地隙を利用して作られており、高さ 2m 〜 7m のトンネルは左右に蛇行している。そして11石の壁にぶつかり、四面切
	石の精巧なトンネルへ直結して出口(入口?)となる。出口の周りは今は畑になっており、その前の丘上の「鶯原神社」の
	手前で「トンカラリン」は終了している。






 

第一地隙間の入り口付近。天井(上左)と入り口から奥を覗く(上右、下左)。奥から入り口を見る(下右)。

 

 


	平成13年秋の発掘調査で見つかった階段状の石組みを指さして、前渕さんが「排水路なら、水の流れをせき止めるような、
	こんなものは作らんでしょう。」という。道理である。その上には、高さ7、8mの地割れが口を開けている。少しだけ中
	へ入ってみる。中に踏み入ると、自然の壁からソフトボールを少し大きくしたような大石が2,3飛び出している。奥は狭
	くやたら天井ばかりが高い。「奥は真っ暗ですよ。」と吉崎さん。吉崎さんも前渕さんもこの奥へ入っていった事があるら
	しい。図を見れば判るが、穴が急激にすぼまった先は再び石組みの暗渠になっている。「狭くて狭くて、ここを通り抜けた
	時は、人生観変わりましたよ。空ってこんなに広いのかと思いましたね。生まれ出てくる時ってあんなんじゃないですかね。」
	と吉崎さんが当時を思い出して言う。狭い空間をはいつくばって20mほど進むと、突然光のある世界に抜け出て、大感激
	するそうだ。「生きてて良かったーと思いますよぉ。」

 

 


	これまでトンカラリン建造の目的については、「排水路説」「古代信仰遺跡説」「朝鮮的信仰遺跡説」などの諸説があったが、
	その用途については、誰も明確に答えられた者は居ないようである。昭和50年代に、作家の故松本清張氏が現地を訪れ、魏
	志倭人伝に言う邪馬台国の、卑弥呼の「シャーマニズムに関係した鬼道ではないか」と発表して全国にその名が知られた。そ
	の後「卑弥呼の鬼道」説を筆頭に、中世の城の抜け穴、砂鉄の精錬施設など様々な説が飛び交い、論争が巻き起こったらし
	いが、熊本県教委が「近世の排水路」と結論づけた調査報告書を発表して騒ぎは沈静化した。しかしその後、平成5年6月
	の集中豪雨時、熊本県北部の多くの排水路が甚大な被害を受けたにも拘らず、トンカラリンには一切の損害がなく、それは
	水が大して流れなかった事を意味していた。そこで農業土木の見地から今一度詳細な再調査が行なわれることになり、調査
	結果から、平成13年、熊本県教委と菊水町教委はそれまでの排水路説を正式に見直した。以下のように、「排水路」にし
	ては不都合な点が多すぎると結論づけ、結局「謎の遺跡」としての位置づけへ戻ってしまった。構造上、水の通路としては
	説明できないとした、その主な理由は次のとおりである。(説明の看板にある。)
 
	1、トンネル内部の階段−水路とはなじまない
 
	2、トンネル全部にかぶせられた天井ふた−小丘の斜面にあるとはいえ、排水施設であれば短時間で土砂に埋まる、管理の
	  上からも天井ふたは不必要、用水路としての水源も上部にはない。
 
	3、タンタン落しにある蛇口と開口部の構造−現在開口部より流れている水は、近年来付近の住家から流される生活用水で、
	  戦前まではトンネル内には水はなく、逆に蛇口より清水がとうとうと落ちていた。
	 (清水の水源は40mほど上部にある湧水で、現在は下方の養魚池の水源に利用されているため、蛇口からは流れていな
	  い)排水路であれば湧水池の排水も当然トンネル内部にそそぐのが自然であり、仮にそうせずとも、わざわざ谷中央部
	  のタンタン落し開口部の真上に蛇口を置く必要はない。目的は他にあると見るべきである。
 
	4、土木専門家の見方として、大げさすぎる施設−一帯の地形や降雨量からしても排水路としては大げさすぎる。


	そして1994年、トンカラリン周辺の「松坂古墳(1体)」「前原長溝遺跡(3体)」から発見された変形頭蓋骨が「シ
	ャーマン」ではないかとの説が出され、現在トンカラリンは、再び、やはり古代祭祀遺構ではないかとの脚光を浴びている。
	発掘した別府大学の坂田邦洋助教授は、「この変形頭蓋骨の人物は、弥生時代中期ころの支配階級の女性であり、変形は人
	工的になされたもの。」だという。同助教授は、トンカラリン周辺で発見された、計4体の変形頭蓋骨は「シャーマン」で
	あり、シャーマンが顔を変形させる理由について、「神と人間とを結ぶ存在として、顔を変形させることで神秘性を帯びさ
	せ、人々にその特別な存在をアピールしていたのではないか」という。さらに、「トンカラリンはシャーマンによって使わ
	れていた宗教祭祀施設ではないか。」というのだ。その根拠として、トンカラリンの一部に見られる古代朝鮮の特殊な石組
	み技法が見られることから、トンカラリン周辺で朝鮮半島との交流があった事を指摘し、交流があったとすれば、朝鮮半島
	で行われていた、洞窟などにシャーマンが籠り神を呼び出して神託を賜る、いわゆる「隧穴信仰」がトンカラリン周辺に普
	及したのではないかという。さらにTVの特番がこれを取り上げたことから、トンカラリンを巡る謎は再びとりざたされて
	いるのである。




 

平成13年の調査で、上左の写真の、更に左の方向へ向けて第二のトンカラリンが発見された。
今は埋め戻されているが、この分だと第三、第四のトンカラリンが眠っている可能性もある。





 

上右がトンカラリン最上部。這って暗渠を登ってくるとここへ出てくる。



 


	トンカラリンの最上部のすぐ前にある「菅原神社(別名鶯原神社)」。この建物そのものは明治期に移築されたものだとい
	うが、ここに移築したのには何か訳がありそうである。もともとここが神聖な場所だったからここに持ってきたとしか思え
	ない。神社の中に入って鳥居から正面を見ると、真ん中に「禿(かむろ)山」が見える。この山は禿というだけあって附近
	の象徴のような山である。前渕さんは、「ここからこういう具合に見えるように鳥居を立てたのかもわかりませんね。」と
	言う。

 

 

菅原神社と言うだけに現在の祭神は菅原道真であり、梅も植えられているが、猿田彦の碑(下)があるのは一体どういう訳だろうか。



	この遺跡は4世紀頃築造されたものとも言われ、国指定遺跡「江田船山古墳」と同じ台地にある。ご存じのように、江田船
	山古墳は、出土品のほとんどが朝鮮半島の影響が強いといわれ、古代朝鮮との関係が取りざたされるのも無理からぬものが
	ある。
	いったい誰が、いつ、何のために作ったのか。これにまつわる民間伝承も一切無く、トンカラリンのような遺構は全国的に
	も類例が無いため、その解明には時間がかかりそうである。いずれにしても、大量の石と、多大の時間と労力を費やして構
	築されていることは間違いないので、先人たちが何らかの目的でこれを構築したのは明らかであるし、出口(私はこちらが
	入口と思うが)には移築されたものとは言え神社があるので、ここに何らかの「神」を意識した施設が在ったのだろうと思
	われる。だとすれば、トンカラリン自体が、大いなる祭祀施設であるという意見には十分うなずけるが、果たして卑弥呼の
	鬼道であったかどうかについては、まだまだ検証が必要であろう。




学者・識者の見解

	<松本清張(推理作家)「新考 邪馬台国」>

	「この遺跡がいつ頃できたのかが問題だが、切石積みの状態(切石がかみあわさっている)が横穴石室古墳の手法に近いと
	ころから、5世紀末から6世紀にかけてではないかと考える。あるいはもう少し時代が下がるかも知れない。」
	「ここで魏志倭人伝に見える「鬼神」の記事が思いあわされる。とくに、高句麗の条には、「その国の東に大穴ありて隧穴
	と名づく。十月に国中大いに会まり、隧神を迎え、国の東の上に還してこれを祭る。木隧を神座に置く」とある。」
	「さて、前文のようにみるならば、この隧道施設が朝鮮より来た鬼神信仰の祭祀遺構と考えることができる。このことは、
	菊池川を境界にして、装飾古墳が筑後・豊後の実写的な地下彩画と、肥後の幾何学文様の地下彫刻式とにわかれ、そうして
	この菊池川沿岸で両系統が相まじっていることを思い合わせて、興味深い。」
	「トンカラリンの隧道遺構は、5世紀末以降の構築ではあっても、もともとこの地域にはそれ以前から鬼神信仰があったと
	思われる。その伝統が長い隧道というプランとなった。すなわち、東の上の「隧穴」から隧道を通過してくる「隧神」を迎
	えて村落中が祭るという儀式になったのではあるまいか。」
	「このように考えれば、鬼神信仰地と、卑弥呼の「鬼道」とが、現在、鶯原神社のある台地上に結合できることも、それほ
	ど誤った憶測ではないであろう。古い祭祀跡に、後代になって神社が建つ事も珍しいことではない。この隧道施設のある附
	近を韓伝にある「蘇塗」に考えることができる。」
	「以上、倭人伝の記事から、卑弥呼の「鬼道」は従来云われてきたような北方シャーマニズムではなく、3世紀の朝鮮的な
	鬼神(地下の祖霊崇拝)であり、卑弥呼はその霊媒を北部九州の諸部族の首長達に伝えていたため、前述のように陳寿また
	は魚拳がこれを「女王」としたにすぎず、その「蘇塗」的な宗教地が「邪馬台」であろう、という私の考えを述べてきた。
	菊水町江田付近の隧道祭祀遺構をもって、私は直ちに邪馬台国に擬定するという短絡的な推測はしないが、一つの参考値と
	はいえる。考古学、歴史学、の専門学者・研究家の調査を望みたい。」



	<乙益重隆(國學院大學教授)「菊水町トンカラリンの遺構について」>

	トンカラリンについては諸説あるが、それぞれ以下のような理由で私は排水路施設説を採る。
	[軍事的・政治的意図による抜け穴説]
	第一に菊水町瀬川一帯は、特別な歴史的な軍事施設がありえたかということになる。もちろんなかったとは云えないが、隧
	道幅が極端に狭く、また隧道と露出溝の部分があらわになっていて、これでは秘密が保てそうにないこと、とくにこうした
	秘密の抜け穴の類例が見あたらないため、比較しようがないことなどが上げられる。
	[用水路説]
	この説は現地を歩いてみると全く意味をなさないことがわかった。この谷を水田化したとしても、台地の伏溜水のにじみ出
	た湧水だけでも十分まかなえる事。用水路であれば上部にダムが無ければならないが、もしあったとしても上段・下段の落
	差が大きく、途中で水路を突き破ってしまうおそれがある。特にこれだけの工事を施してまで、谷のわずかな水田を開いて
	も採算が取れない事などが、用水路説否定の主な点である。
	[信仰、または祭祀関係遺跡]
	このような祭祀遺構は他に類例がないこと。それに信仰・祭祀遺跡にしては、その信仰対象や祭祀形態が明らかでない事。
	また祭祀関係の遺物が出土していないこと。などの点からこの説は否定されるであろう。
	[排水路施設説]
	結論的に言って私はこの説を採る。まず、瀬川の台地の樹相をみると、この台地には、かって自然林が繁茂していたらしい。
	それがおそらく近世になってからと思うが、急速に開墾され、今のような畑作地帯となったらしい。その一部に杉を植え、
	竹林をつくったのは比較的近代のことと思われ、いずれも樹齢の若いものばかりであった。たまたま、瀬川の江田川に寄っ
	た北側の台地と鶯原側の南側台地が開墾されるや、雨期になると鉄砲水がでるようになったと考えられる。これは樹林のな
	い台地に共通した現象である。これの対策として施工されたのがトンカラリンの隧道ではないだろうか。

	この隧道の成立がいつ頃まで遡るかについては、最も関心の集まる所である。一部に古墳時代とか言う声も聞くが、私は存
	外新しい時代の所産と考える。その理由として、石垣の構築技法に古墳石室に見られるような古い要素もあるが、一面、近
	世になってあらわれる切石の組み方が各所に見られること。特にそれは石段隧道の下流付近に著しい。
	トンカラリンの隧道は現在もなお、吸水と排水の重要機能を果たしており、もしこの施設がなかったなら、瀬川部落谷口に
	分布する横穴古墳は完全に埋没してしまったに違いない。とくに横穴の埋没がそれほど進行していない点にも、隧道の成立
	があまり古くない事を物語るのではなかろうか。



	<米村竜治(筑紫女学園大學教授)「トンカラリンは龍神信仰の遺跡」>

	トンカラリンは龍神信仰の遺跡であるというのが私の仮説である。菊池川流域に特有の龍神信仰圏のなかでトンカラリンを
	とらえ直すとき、あの穴ぐらの持つ意味は新鮮に浮かび上がってくる。トンカラリンの上に立てられた菅原神社(別名鶯原
	神社)も重要なカギを持っている。
	龍のなかには地龍と呼ばれるものがいる。これは溝、穴、堀を造るとされている。江田の農民があの穴を「龍くえ」「龍落
	とし」と伝承してきたのもうなずける。さらに、龍には三つの災患がある。(1).熱風・熱砂に焼かれる。(2).悪風吹けば宝
	物、衣を失う。(3).金翅鳥に食われる。この三つの負い目は水の性質そのままを意味している。龍神という恐るべき水は、
	儀礼の仕方いかんでは逆に豊饒をもたらす神となる。龍神様が熱風熱砂や太陽(アマテラス)に殺されずに静かに里に降臨
	して貰うためにも蛇行した地下の通路が必要であった。それがトンカラリンではないか。



	<李進煕(明治大學講師)「菊池川流域を考える」>

	さてトンカラリンである。このトンネルの石組みは朝鮮式山城の石組み技術であり、横長の石を初めから準備して築造され
	ている。近世の石組みという説もあるようだが、日本の戦国時代や、近世の石垣の基本的な組み方は方形の石を菱形に組み
	上げていく方式で、横長の石を積み上げていく方式の例はほとんどなかろう。あるとすれば明治以降だ。トンカラリンが明
	治以降のものでないなら、やはり時代はずっと遡って考えねばなるまい。排水路説もうなずけないことが多い。水を通すよ
	り人間が通ることを意識したトンネルのようだ。私はトンネルにもぐりながら朝鮮の「壇君神話」にある、穴にこもって人間
	に生まれ変わるという伝説やそうしたことにかかわるシャーマン=呪師=などを思い出し、松本成清張氏のいうシャ−マニ
	ズム的なもの、つまり鬼道説に同感するものを覚えた。朝鮮の青銅器文化は農耕と結びついた文化でもあった。そうしたも
	のが菊池川流域にも入っていたと考えていいのではないか。



	<田淵実夫(関西民俗学研究会長)「トンカラリン考」>

	視察を終えての私の見解もまた宗教施設に違いないとの推断であった。
	死者の霊は地下に入る。地下の心霊に会い。その託言を聞こうとすれば、地下への通路を渡って、冥界(ネニクニ・ヨモツ
	クニ)の入り口に達し、そこに死霊を呼び戻さなければならない。冥界への入り口は里山の奥深いところにあるはずである。
	そこに至って死霊を迎え、託言を聞き得る者は巫女よりいない。トンカラリンは冥界への通路であり、巫女の渡り道であり、
	祖霊との交会場所ではなかったろうか。
	古来肥後の地は死霊信仰の濃厚な地帯だったことは、数多い古墳・横穴遺跡もそれを裏書きしている。「菊池」の古名クク
	チは潜霊(くくち)、地下霊魂の意味であったかもしれない。



	<重松明久(広島大学教授)「トンカラリン遺跡の性格」>

	諸説あるが、なかでも宗教施設説が有力らしいということは、現地に臨んだ直感であった。トンカラリンに民間伝承がない
	ということは古いということだろう。地元に伝承がないため他に類例を探せば、柳田国男が「隠れ里」の論文で触れた「椀
	貸(わんかん)伝説」が注目される。トンカラリンも一種の竜宮を表したものと考えれば、第一、第二、第四トンネルなど
	も納得できる。
	この遺跡のある玉名郡は、古来より龍神信仰のメッカでもある。トンカラリンの丘の上に古代この地方に勢力を持っていた
	日置氏の墓があり、日置氏は竜宮伝説の代表的な加担者でもあった。日置氏は、新羅系宗教文化、とりわけ神仙思想や竜宮
	伝説を核とし、竜宮そのものとして構作されたトンカラリン施設を舞台とし、海宮遊幸神話が構想されたと推察される。
	さてその構築年代であるが、おそらく3世紀かすくなくとも5世紀を下ることはなかろうと思う。仮に3世紀頃の推定が妥
	当であるなら、まさに邪馬台国時代であり、魏志倭人伝にはヒミコの主導した邪馬台国と激しく敵対していた狗奴国の王は
	ヒミココ、高官はククチヒコ(菊池彦)とある。私見によれば、狗奴国の主導した南九州諸国連合の最大の宗教的拠点がト
	ンカラリンではなかったかと推察される。
		





	菊水町では、昭和46年から「菊水古墳祭」という行事を行っている。江田船山古墳を初めとして多くの古墳があり、遠い
	祖先の霊を敬い祀る祭典として、「肥後民家村」の広場にで毎年8月1、2日、盛大に火の祭典が繰り広げられている。ミ
	ス卑弥呼も選出されており、民家村から江田船山古墳までパレードが行われる。前渕さんは本来この民家村が担当だそうで、
	菊水町の観光行政を担っているのだ。吉崎さんも玉名市民でありながら、この菊水の行事にもいろいろ参加しているようだ。

	吉崎さん、前渕さん、いろいろと大変お世話になりました。ありがとうございました。








邪馬台国大研究・ホームページ / 遺跡・旧跡めぐり / トンカラリン遺跡