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和歌山県・徳蔵遺跡 2002.2.23(土)− 和歌山県の複合遺跡 − 和歌山県南部町/南部川村


	和歌山県の徳蔵遺跡(とくぞういせき)講演会の案内を河原さんが持ってきた。新聞で見てこの遺跡のことは知っていたの
	で是非見に行きたかった。河原さんの友人、中村さんの経営する南部川村のペンションに1泊して、講演会と遺跡を見学す
	る企画がさっそく成立して、楽しみにしていたのだが、2,3日前から猛烈な風邪をひいて泣く泣く断念した。しかし、服
	部さんと河原さんが行ってくれて、写真を撮って、資料もどっさり貰ってきてくれたので、ここに紹介できるわけである。
	遺跡は高速道路の下で、埋め戻してからは存在しなくなると言うことで、返す返すも残念である。
		

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これが新聞で報道されていた謎の「大型石棒」(上左)。一体何に用いた物だろうか?



 

 

 

埋められていた縄文時代の磨製石器群(上左)、と、縄文時代中期の埋甕(上右)。



 

 




	河原さんの話では、
	「講師の渋谷せんせいの話し方は井上さんとよく似ていたよ。情熱的にしゃべっていた。」
	えぇっ、私はそんな情熱的にしゃべってますか。そうかなぁ〜。「顔が似てたんちゃいまっか。」

 


	徳蔵地区遺跡は、縄文時代のみならず、弥生時代、古墳時代と各時代の遺跡が次から次へと発掘され、考古学研究の宝庫と
	全国から注目されている。しかし中でも縄文遺跡は特筆で、近畿圏で初めて縄文時代中期前半期(5000〜4500年前)と確認で
	きた集落跡に、西日本最古の埋甕(うめがめ)が存在していた。また、各地の石器原石や土器の出土量が多い点、関東の土器
	が大量に出土し、幼児や胎児の墓・埋甕(うめがめ)が、起源地の東日本で本格化する時期に見つかることなどから、近畿
	中央部・瀬戸内・四国、さらには舟による太平洋ルートで東海・関東とも直結した交流・交易拠点・中継集落であった、と
	考えられる遺跡である。
	また、気候が寒冷化して、東日本で大集落が失われ、人々が関東以南に移動したと考えられている縄文時代後期前半期(4000
	〜3500年前)の墓域(埋甕と配石墓)と、円形竪穴住居で構成された集落も確認できている。つまり縄文徳蔵遺跡は、関東から
	舟で渡ってきた人々が、紀伊半島の突端から陸へ上がりここに住み着いた遺跡なのである。 








	高速道路の紀南延長に伴い、平成15年春に完成予定の南部インターチェンジ(仮称)が造られることになった。これらの開
	発が行われる地域は、南部川の旧河川が形成した自然堤防上やその後背湿地に位置し、数多くの埋蔵文化財が存在する。
	また、八丁田んぼと称される条里型地割が良好に残る水田の南端部分にも位置している。




	南部インターチェンジ建設用地内の埋蔵文化財発掘調査は、和歌山県教育委員会の指導を受けて、和歌山県文化財センター
	が平成9年度から実施し、各時代にわたる考古学的な成果を得てきた。遺跡の分布は、縄文時代を初めとして各時代におよ
	んでいるが、なかでも際だっているのは縄文時代の遺跡である。




	紀南地方初の縄文時代後期の集落跡が発見された。また近畿圏・四国・東海から、遠く関東地方の土器も出土し、この時代
	広く各地方との交流があったことも証明している。縄文晩期から弥生時代始めの頃(2300年前)の、円形竪穴住居と古墳時代
	前期の方形竪穴住居・溝・掘立柱建物で構成されていた集落もあった。




	東日本・東海・四国・紀北・河内などの地域で作られ運ばれてきた縄文時代晩期末(2300年前)の土器が、地元で作られた土
	器と一緒に出土し、南部郷が海のルートで各地と結ばれていることが判明した。この縄文土器の中に、弥生時代最古の壺が
	混入していることから、近畿地方で米作りが始まったほぼ同時期に、南部郷にも稲作文化が入ってきたと考えられる。
	和歌山県内では12点しか出土していない、祭祀用と思われる石棒がここでは6点も出土している。





 



 

	
	上下は、昨年(2001)年6月、南部川村に行った時の写真。当時のコメントは、
	
	どっかで発掘やってたで、と言う言葉だけを頼りに探し当てた発掘現場。しかし日曜で誰もいず、何の発掘なのか分からな
	かった。
	
	この時掘っていたのが徳蔵遺跡だったのだ。何の遺跡なのかもわからずに、既に遺跡(発掘現場)は見ていたのである。和
	歌山県文化財センターでは、平成13年6月から日本道路公団の委託を受けて南部インターチェンジ徳蔵地区遺跡発掘調査
	を実施した。

 

	
	下の調査地点は現在埋め戻されている。写真は平成10年調査時のもの。平成11年3月迄調査され、平成11年4月に埋
	め戻された。南部町と南部川村のちょうど境界付近である。 

 




	南部郷徳蔵遺跡 遺構に高い評価
	発掘現場を視察 文化庁の保護審議会
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	南部郷で進んでいる徳蔵地区遺跡発掘現場で三十日、文化庁の文化財保護審議会と県の関係者十人が現地を視察した。

	一行は、南部町役場で県文化財センターの渋谷高秀主任から概要説明を受けた後、現場に移動。縄文時代中期の集落跡をつ
	ぶさに見た。その後、近くの高田土居館(平城)も見学した。
	この日訪れた、文化庁記念物課の岡村道雄主任文化財調査官や明治大学文学部の小林三郎教授らは、縄文時代の遺構に極め
	て高い評価をつけていた。縄文時代の現場では、竪穴式住居跡や、埋かめの発掘場所を見て理解を深めていた。また同館の
	保存状態のよさも感心していた。一行は、県内各地の遺跡や名勝を視察して、これからの審議会の活動に役立てる。
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	読売新聞』大阪(2001/03/17)
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	和歌山・徳蔵地区遺跡で 縄文中期前半の集落跡…西日本の空白埋める:和歌山県南部町の徳蔵地区遺跡で、縄文時代中期
	前半(五千―四千五百年前)とみられる十数棟の竪穴住居跡や埋葬文化を示す西日本最古の埋甕(うめがめ)が見つかった
	と、同県文化財センターが十六日、発表した。(和歌山県・縄文) [01-03-22] 
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