Music: a girl
常呂遺跡【ところ遺跡の森・ところ遺跡の館】
2000.11.5 北海道常呂郡常呂町
2500か所にも及ぶ竪穴住居跡遺跡
常呂遺跡は、オホーツク海岸に沿って、常呂川河口からサロマ湖東部に至る、湖岸砂丘上に営まれた約1800年前(本土
では弥生時代末期)の集落跡に対して付けられた総称である。現在、「常呂遺跡」という表示のある遺跡は近辺に数カ所あ
るが、常呂町が「栄浦(さかえうら)」に整備した、「ところ遺跡の森・ところ遺跡の館」が、見学するには一番充実して
いる。この遺跡では、昭和32年の発掘調査以来、すでに2500軒にも及ぶ膨大な竪穴式住居跡が確認されており、現在
も常呂川水系を中心に調査は続行している。これらの竪穴式住居には、擦文(さつもん)文化やオホーツク文化に属するも
のもあり、これらの文化相互の関係を解明する上でも貴重な遺跡とされている。
ここに見ていただいた遺跡は下図の「史跡常呂遺跡(常呂竪穴群)。
「ところ遺跡の森」は、カシワ、ナラを中心にした落葉広葉樹の森林で、森の中には擦文文化(約1000年前)、続縄文
文化(約1800年前)縄文文化(約4000年前)の竪穴式住居跡が138軒あり、擦文4棟、続縄文1棟、縄文1文の
復元住居がある。各文化により、住居の立地や形や内部構造が変化しているのを実見でき興味深い。森の一隅にある「遺跡
の館」は、縄文時代の円形竪穴住居をモチーフにした外観で、館内は視覚的に古代のロマンを体感できる構成になっている。
付近には東京大学常呂研究所があり、この遺跡からの出土物は、展示室で誰でも無料で見ることが出来るし、常呂町の埋蔵
文化センターも森の中にある。勿論ここも無料で見学できる。
縄文文化
本州では大陸から稲作、金属器が伝わり弥生時代が始まるが、北海道では縄文時代と同じ狩猟、漁労、植物採取が続いてい
た。この時代を縄文時代からの続きという意味で続縄文時代と呼んでいる。およそ2,000年前から1,300年前まで続いたとさ
れている。石器と鉄器の併用の時代である。常呂町内でも、この続縄文時代の遺跡は、擦文時代に次いで多い。
擦文文化
この時代は本州の奈良・平安時代とほぼ同じ頃にあたり、住居の形、構造などに影響を受けている。土器は表面を木のヘラ
で擦(こす)った跡があることから擦文土器といい、この時代を「擦文時代」という。石器は殆ど使用されず、鉄器が本州
方面から入っていた。また畑作(アワ、ヒエ、ソバ等)も行われるようになった。8世紀から13世紀にかけてである。
常呂町内ではこの時代の遺跡が最も多く、常呂遺跡の住居跡群の約半分はこの時代のものである。
オホーツク文化
この文化は7世紀から13世紀にかけて北海道北部・東部のオホーツク海沿岸、千島列島、樺太に発展した文化である。
人々の生活は、アザラシ、オットセイなどの海獣狩猟、漁労を中心としており、ブタや犬も飼っていた。住居や墓は独特な
ものであり、遺物の中にもシベリアなど大陸方面からもたらされた青銅製品、鉄器などがあり、同時に本州製の鉄器も持っ
ている。この文化の起源、社会生活、民族については不明な点が多く、謎の民族とされている。この常呂遺跡では、この文
化の住居跡47軒が確認されている。
アイヌとは「人」を意味する言葉である。考古学上のアイヌは擦文文化の後14〜15世紀頃に成立したと考えられている。彼
らは動植物が豊富に獲れる川・湖の周辺に集落(コタン)を作り、畑作を中心とする小規模な農耕を行っていた。また、壕
を堀り柵を巡らした砦(チャシ)も築かれた。チャシは祭り場、談合の場、見張り台としても利用されたと考えられている。
アイヌ文化は時代を経るごとに本州からの和人の支配を受けて大きく変容していった。常呂町内のアイヌ文化の遺跡は、ラ
イトコロ川河口遺跡。トコロチャシ跡遺跡などで様々な遺物が発見されている。
ところ遺跡の森
常呂遺跡【ところ遺跡の森・ところ遺跡の館】
〒093-02 北海道常呂郡常呂町字栄浦371番地 TEL0152-54-3393 FAX0152-54-3532
【JR網走駅からサロマ湖行きのバスで1時間10分、サロマ湖栄浦下車徒歩2分。】
【車:網走市内から国道238号線を紋別方面へ45km。】
●開館時間:午前9時から午後5時(7・8月は午後6時まで)
●休館日: 月曜日・祝日の翌日(7・8月は無休)、12月29日から1月5日まで
●入館料: 大人200円(団体150円)、中・高生100円(団体80円)、小学生50円(団体30円)
邪馬台国大研究 / 遺跡・旧蹟案内 / 常呂遺跡