Music: Here comes sun
金沢市・チカモリ遺跡
1998.11.22(日)
第14回歴史倶楽部例会
チカモリ遺跡
国指定史跡 昭和62年2月23日指定
縄文時代後期〜晩期(3,000年〜2,300年前)
金沢市新保5-47(金沢市管理)
指定面積 4456.17平方メートル
遺跡面積約7,000平方m
公園面積4,456平方m
調査面積3,450平方m
今回の我が歴史倶楽部の例会、「北陸縄文の旅シリーズ」もいよいよこの遺跡で完結。チカモリ遺跡は、金沢市の西南郊外
JR西金沢駅の近くにある。ここは古くから遺物が出土する事で知られ、昭和29年(1954)の小規模な発掘で縄文晩期初
頭の土器が出土していた。75年にも範囲確定の発掘が金沢市教育委員会の手で行われ、縄文後期後葉から晩期後葉にかけ
ての遺跡が約 7,000平方メートルに渡って広がっている事が判明していた。しかしこの遺跡がほんとに学会の注目を浴びたのは
1980年(昭和55年)の発掘調査においてであった。膨大な量の石器や土器に混ざって、多数の木材根が発見されたのだ。
木材根とは、穴を掘って立てた木の柱の地中部分だけが残ったものだが、ここから大小 350点あまりの木材根が発見された
のである。しかしこの遺跡が注目を浴びたのはその量のためではない。直径80cmを越える(最大88cm)巨木を半栽(縦に二
つに割ったカマボコ型)した柱が、直径6mから8mの円上に8〜10本並べられた遺構が8基発見された。環状列石ならぬ環状列
木である。巨木柱の根本部分の溝に曳行用のフジ蔓が巻き付けられたものもあったし、直径4,5センチの穴が貫通しているもの
もあった。木柱の下に沈下を防ぐための礎板が置かれているものもあった。材質は全てクリである。
このような木材は、奈良時代になって寺院建築などでようやく出現すると考えられていただけに、縄文時代に石器のみで巨
木を使いこなしていたとは誰もが考えもしていなかったのである。しかも、これだけの作業と曳行に費やす労働力を組織化
できる社会が、縄文時代既に成立していた事も大きな驚きであった。三内丸山遺跡に収束する、縄文文化の見直しを迫るき
っかけにもなった遺跡である。
土地区画整理事業に先だって行われた昭和55年(1980)の調査で、集落内を蛇行しながら流れる大溝とその付近から、多数
の木柱が検出された。木柱をともなう遺溝に、径80センチ前後の半割りしたクリ材を、切断面を外側に向けて並べた、直径
7メートルばかりの円形巨大木柱列遺溝が発見され、普通の巨大家屋跡とも異なることから、その用途・機能をめぐって、
さまざまな論議がなされ、注目されている。 遺跡の中心部は史跡公園に整備され、収蔵展示庫がそばに建設されている。
この遺跡を最も良く特徴づけるのは、300 本以上も出土した「木柱」だ。表面の皮をはいだだけの丸い柱の他に、縦に割っ
たカマボコのような形をした「半さい材」とが見つかっている。材質は、そのほとんどが栗材で、柱の太さは60センチ〜90
センチもある。こんな巨木を、どこからどうやって運んできたのか、またどうやって立てたのかも未だはっきりしていない。
木柱列は全国幾つかの縄文遺跡で見られるが、能登半島の能都町・真脇(まわき)遺跡では26本、新潟県寺地遺跡では5
本、青森県三内丸山(さんないまるやま)遺跡では6本、などと比較しても、ここでの出土数が群を抜いて多い。チカモリ
遺跡からは木柱以外にも、土器や石器類が多数出土している。土器は遺跡の年代を特定する手がかりとなり、石器類は、当
時のく生活や食物を知る手がかりとなる。
金沢市新保本町は、旧の石川郡押野村字八日市新保であり、「チカモリ」は町並北側の小字名である。遺跡は手取扇状地の
扇端にあたる 7.5メートル等高線の東辺の一角を占め、昭和29年(1952)の発見・発掘以来、縄文時代の後期中頃から晩期
の終わり頃まで続いた大集落跡として、また、晩期前葉の「八日市新保式土器」標式遺跡として知られている。チカモリ遺
跡周辺には、以下のような多種多様な遺跡が数多く点在しており、遺跡めぐりにはことかかない。
新保本町チカモリ遺跡(縄文後〜晩期) 高畠遺跡(古墳時代)
古府クルビ遺跡(古墳時代) 北塚遺跡(縄文中〜後期、平安)
安原工業団地遺跡(奈良・平安) 緑団地下水処理場遺跡(弥生中期〜)
上安原緑団地遺跡(弥生中期〜) 南塚遺跡
黒田遺跡(平安時代) 矢木ジワリ遺跡(弥生中期)
上安原陸橋遺跡(弥生中期) 中屋遺跡(縄文晩期)
矢木マツノキダ遺跡(弥生中期〜) 新保本町西遺跡(弥生時代)
新保本町東遺跡 御経塚遺跡(縄文後〜晩期)
御経塚ツカダ遺跡(弥生後期〜終末) 八日市B遺跡
八日市ヤスマル遺跡 押野タチナカ遺跡(弥生後期〜終末)
発掘当時の現場。半円形の柱跡が埋まっているのが見える。
【金沢市埋蔵文化財収蔵庫】
遺跡保存のため一帯は児童公園になっており、その片隅に埋蔵文化財の収蔵庫が立てられている。チカモリ遺跡から出土し
た遺物の大半はここに保管・保存されている。無料でチカモリ遺跡の本物の木柱痕や、金沢市内出土の考古遺物が見学でき
る。圧巻は8×6メートルほどの水槽に保存されている、本物の木柱痕である。是非一度訪れて御覧頂きたい。縄文人達の
精神構造に深く思いを馳せるいい機会である。
この施設は、国指定史跡・チカモリ遺跡から出土した古代木柱根を中心に、市内の出土遺物を収蔵展示し、文化財の保護・
活用をはかるという目的で、昭和61年に設置された。
[収蔵品]
縄文式土器の完形品 120点 奈良・平安時代の須恵器 40点
縄文式土器の完形品 120点 樹脂加工した木製品 25点
古墳時代の土師器 40点 チカモリ遺跡出土木柱根 78点
古墳時代の須恵器 20点 他に土器、石器をパンケースに 約400箱
[住所] 〒921-8062 金沢市新保本町5丁目48番地(チカモリ遺跡公園隣接地)
[TEL]076-240-2371
[入場料] 無料
[開館時間] 午前9時30分〜午後4時30分まで
[休館日] 火曜日(祝日の場合翌日)。年末年始(12月29日〜1月3日)(展示資料整理のための臨時休館有り。)
[駐車場] 6台
[交通]香林坊から北鉄バス『上荒屋ゆき』新保本下車、徒歩10分。JR金沢駅から車で15分。
出土した木柱根の一部が水槽の中で保存展示されている。半截形木柱根250点、丸太の木柱根45点。樹脂加工処理した
ものは収蔵室に保存・展示してあり、乾燥保存された巨大樹根には目途穴が残る。巨大木柱根とともに、出土した石器、木
器なども多数展示され、壁面ケースには、勾玉、磨製石斧、ランプ形土器もある。2階には、市内各遺跡で出土した弥生時
代の土器のほか、古墳時代〜平安時代の須恵器、木製の農具などが展示されている。
−新保チカモリ遺跡− 環状柱列のなぞ
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橋本 澄夫(石川県埋蔵文化財センター顧問)
信仰の象徴、どんな構造物が... 【年代基準表す「標識」】
国史跡チカモリ遺跡は金沢市西郊の沖積地にあり、国道8号線御経塚交差点の東約500mほどに広がった縄文時代後・
晩期の遺跡で、その規模は大きく中核的縄文集落の跡であった。今は住宅や企業の社屋が数多く建てられ、市街地化が著し
いが、昭和50年代においては、その一帯に水田風景が広がっていた。
昭和55年(1980)、目前に迫っていた市街地化に備えて、遺跡を含む周辺一帯で、区画整理事業の工事が行われる
ことになった。すでに当所には、縄文遺跡(八日市新保遺跡跡)の所在することが判明し、採集されていた土器の特徴から、
後期後葉ごろ(約3000年前)を示すものとして「八日市新保式土器」と命名され、年代の古さを表す尺度として用いら
れていた。つまりチカモリ遺跡は、年代の基準を表す標識(標準)遺跡として重視されていたのである。
発掘調査は金沢市教育委員会が行うことになり、南久和主事が担当することになった。遺跡地は手取川扇状地の扇端部に
当たる沖積低地であり、4、50cmも掘り進むと、地下水が湧(わ)き出し、無数の柱穴(ピット)を中心とする遺構の
検出も、排水作業と並行しての難作業となっている。ところが、全国的にも例をみない新しい事実がつぎつぎに掘り出され
て、南主事を驚かせ、また困惑させることになった。約350本もの柱の根元が、立てられたままの状態で、発見されたの
である。木柱は住居や倉庫などの柱材で、地中に埋め立てた掘立柱(ほったてばしら)であり、定温の地下水に浸され、厚
い表土で密封された状態だから、約3000年もの年月を腐らずに残されたのである。
【直径85cmの巨大柱も】 遺跡は現在、公園として保存され市民から愛されている
柱根の数も多かったが、その大きさや形に、類例のない特殊のものが含まれていた。総数約350本のうち、約250本
の柱がクリの木を半分に割り、断面をカマボコ形に加工していた。これまでに知られない縄文柱である。そして南氏を最も
驚かせたのが、直径50cmを超える巨大な柱根約40本であり、中には径85cmに達するものも含まれていた。巨大柱
根の多くは、年輪の中心部(芯・しん)を取り去っており(芯去り材)、柱の割れを防いでいる。つまり魚調理に例えれば、
3枚おろしの形となる。そして、このような大柱を10本ほど、直径6〜8mほどの円形プラン上に、ほぼ等間隔に立て並
べた遺構、つまり環状木柱列と呼ばれるものである。カマボコ形の柱は、弧の面を環の内側に、平らな面を外側に向けて埋
め込んでおり、環の一隅には、ハの字形に外側に開いた出入り口(門扉状)も備わっている。そして、発見された八基ばか
りの環状柱列は、奇妙なことに、環の中心をずらしながら、重なり合っていたのである。
柱材の加工も精巧で、平滑に整えているし、柱の底面も平らに削っていた。縄文時代のことであるから、これらの加工は
磨製(ませい)石斧(せきふ)を使ってのことで、石斧の威力を生々しく示すものであった。柱の基部には、溝や目途(め
ど)穴が彫られており、藤蔓(ふじづる)を固くまき締めて、遠くから牽引(けんいん)したことを物語っていた。これま
での考古学界には、全く知られていなかった遺構だったのである。だから環状柱列発見のニュースは、学界で大きな反響を
呼び、関東や近畿地方からも多数の考古学研究者が現地を訪れ、驚嘆の声をあげている。中には「本当に縄文時代の柱なの
か?」といった感想も飛び出した。
【壮大な縄文イベント】
不可思議な環状木柱列の性格をめぐって、以後、様々な意見が交わされた。いずれも通常の家屋などではなく、特殊な性
格を帯びた「縄文モニュメント」であり、雪深い北国の地で出現した呪術(じゅじゅつ)的な精神活動(原始信仰)を象徴
するもの、と意見は集約されている。クリ巨木の伐採から加工・牽引・樹立に至る作業のすべてを含め、祭祀(さいし)活
動の一環だとされ、その労働量からみて、周辺集落の村人をも巻き込んだ壮大な「縄文イベント」だと考えられたのであり、
長野県諏訪地方に残る「御柱(おんばしら)祭事」の祖形をなすものとも評された。
しかし、往時の環状木柱列が、どのような構造物だったのかという点になると、意見は分かれている。一つは、ヨーロッ
パなどで見られるストン・サークルのように、大柱を円形に配して、神の宿る聖域を示したものとするもので、ウッド・サ
ークルともいうべきだという見解で、いま一つは、屋根や床・壁を備えた建造物であり、縄文社会の「祭りの館」ともいえ
るものだとの説である。筆者は後者の説に魅力を感じており、積雪の多い北国の縄文人が創(つく)り出した殿堂であり、
祭りと祈り、そして村人たちが共同体としての結束を高めるための集会の場であったと推定している。縄文時代後・晩期は、
冷涼化の進んだ時期であり、積雪も著しく、屋外での集会・祭事は困難だったと思われる。そして環状木柱列が重複して幾
重にも作られたのは、伊勢神社の「遷宮」にみられるような、信仰活動の繰り返しが行われたためであり、北国独自の慣習
となっていたであろう。
北日本の縄文人は、クリの巨木に格別の想(おも)いを寄せていたらしい。青森県三内丸山遺跡や新潟県寺地遺跡などで
も、クリの巨柱を立てている。おそらく老木に対する尊崇の気持ちが、根底にあったように感じている。チカモリ遺跡には、
環状木柱列の実大模型が作られており、隣接する市立埋蔵文化財収蔵施設には、出土した土器や石器などとともに、巨大柱
の実物多数が展示されている。現地に立って、不思議な柱と向き合うことで、縄文人の精神世界を考えてみてはいかがだろ
うか。
読売新聞北陸版 北陸文化考(1999/11/01掲載)
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邪馬台国大研究・ホームページ/ INOUES.NET/ 金沢市・チカモリ遺跡