遺跡・資料館のすぐ前を道路が通っており、それを横切ると堤防がある。ここに登れば目の前が猪名川である。対岸に「園 田競馬場」があり、その先に阪急電車「園田駅」、右側にJR「猪名川駅」がある。
遺跡内資料館の前に立っている遺跡の顕彰碑の表裏。ちなみにこの顕彰碑に記名されている尼崎市長は、我々夫婦が結婚当 時尼崎に住んでいた時の市長である。
遺跡の発掘は昭和40年の工業用水道の配水建設現場から、大量の弥生式土器が発見された事にはじまる。その後約1年間に わたる調査の結果、弥生時代前期から古墳時代中期にわたる大集落跡であることが確認された。この遺跡でもっとも注目さ れる遺構は、墓と、それに伴う埋葬の状況であった。それまで近畿地方では、弥生時代の墓の発見例は少なく、その実体は ほとんど不明のままであった。 ここでは、木棺墓8、土こう墓5,壺棺墓3,甕棺墓1の計17基の墓が発見された。うち15基は1つのグループに、残 り2基はそれらとは離れた場所に埋葬されていた。 調査の結果、壺・甕を棺に利用した壺棺・甕棺墓、遺骸の埋葬可能な程度に掘り窪めた土こう墓、厚い板を組み合わせた木 棺墓の3種類の埋葬方法が明らかになった。残存した人骨によって、壺・甕が子供や乳幼児の埋葬に用いられたこと、土こ う墓には木の蓋が存在していたこと、木棺には高野槇か中国産の木が使用されていたことなどが確認されている。
木棺墓に埋葬されていた男性のうち2体には、 623個以上の碧玉製管玉を装着した遺体と、左腕に白銅製釧(くしろ:腕) をした遺体も発見された。上半身には朱が施されており、この2基だけが明らかに特別扱いされている。ムラの首長クラ スだった事をうかがわせる。 これらの埋葬方法は、北九州の埋葬方法に似たものがある。特に壺棺・甕棺などは当時北九州で盛んに用いられた埋葬方 式であって、九州の弥生人と同じ種族が尼崎にも居た、あるいは九州から近畿地方へ移ってきたという想像を駆り立てる。
田能の人々は、河川と湿地帯との間のやや高い大地に集落を作り、幅約4m、深さ2mの環壕を巡らせていたと思われる。 水田で、種籾を直播きする方法で米を作り、収穫には石包丁を使用した。遺跡からは多量の炭化した米や、土器が出土し ている。また狩猟や漁労も活発で、石鏃、石槍、石錘や軽石、イイダコ壺などの道具類や、シカ、イノシシの骨、エイの 歯、ハマグリやシジミなどの貝殻も多い。出土した銅剣の鋳型は、近畿地方では初出であり、この鋳型から復元される銅 剣は、長さ40cmを越える大型剣である。これらの状況も北九州とよく似た環境である思いを抱かせる。あるいは、弥生文 化というものは、短い時間の間に、すくなくとも西日本各地に同じような生活様式が伝播していった文化ととらえるべき であろうか? 検証には、近畿地方でのもっと多くの弥生遺跡の出現を待たねばならないのかもしれない。
この遺跡からの出土品は同じ公園内の資料館に収蔵されており、ほとんど大部分が公開されている。又、一部の墓の発掘 時の状況も復元されている。