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出雲・玉作り遺跡資料館 2000.5.13(土) 島根県玉湯町

	玉作遺跡公園の中心施設である「玉作資料館」は、全国でも唯一の「玉作り」資料館である。館内には「古代出雲の玉作り」
	を中心テーマにした常設展示や、近世・近代の玉作りの伝統工芸、大正・昭和期まで行われていた玉作りの工具や製品など
	が展示されている。








	玉造は宍道湖の南岸、緑の山々に囲まれた谷あいに位置する温泉郷。古くから開けていた地域で、古代から現代までのさま
	ざまな遺跡が沢山残っている。中でも古代玉作りの跡は温泉街の周辺に多数見られ、我が国有数の一大生産地だった。
	「玉造」の地名もそのことに由来している。そのほか、中世に要害山城(ようがいざんじょう)に居住した土豪湯(ゆ)氏
	の遺跡もある。湯氏というのはその名前からしておもしろい。風土記の時代から人々に親しまれた温泉にまつわる遺跡もた
	くさんある。




























	出雲における古代の玉作り遺跡の存在は、「古語捨遺」(807年)や「延喜式」(927年)などの文献からも推定されていたが、
	考古学上の発見は明治時代になってからの事である。松江市の西隣の玉湯町は、宍道湖の南岸東寄りに位置している。この
	地で玉作りが盛んに行われたのは、玉材料の原石を算出する「花仙山」(かせんざん)があったからであり、宍道湖にそそ
	ぐ玉湯川の周囲を中心に、多数の玉作り遺跡が点在している。























	<湯氏と湯庄>
	
	中世、玉造は湯庄と呼ばれ、代々の湯氏は玉造要害山に居住した。
	古代「忌部神部」(いんべかんべ)と呼ばれたこの地方は中世になると「湯庄」(ゆのしょう)と呼ばれた。ここに本拠を
	置いた土豪は「湯氏」(ゆし)を名乗った。湯氏を始めて名乗ったのは、佐々木頼清という。13世紀の終わり頃、西意宇群
	(にしおうぐん)の総地頭を務めた。その後、14世紀の中頃に出雲国守護代になった佐々木伊予守秀貞一門も湯庄を本拠
	とし、湯氏を称した。
	さらに、天文11年(1542年)大内・毛利の連合軍が出雲に侵入した際、大内軍を玉造から新宮湯峠を越えて忌部まで案内し
	た出雲勢の中に湯佐渡守がいた。この佐渡守は玉作湯神社文書に「湯佐渡守家綱」とあり、天文20年(1551年)に死没し、
	墓を玉造要害山城に設けた。今もその墓が城中に残っている。後に亀井慈矩(これのり)となり、津和野藩の祖となった湯
	(ゆ)新十郎もこの一族である。



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