MUSIC: And I love her











	「国分寺友の会」の久保田さんの案内で、野毛大塚古墳を見てここへ来た。古代の東京人は、この多摩川沿いに多くの古墳を
	築造している。住宅街の中を抜けて坂道を登った所に「多摩川台公園」がある。ここにずらりと古墳が並ぶ。公園の入り口右
	側に「古墳展示館」があって、「多摩川古墳9号墳」とその石室が復元されていて、若干の出土物が展示されていた。
	駐車場がないので、久保田さんは坂道に車を止める。航空写真で見てもわかるように、昔からここは緑に覆われていたのだろ
	う、近在では唯一の緑地帯で、公園内を歩いていると野鳥のさえずりも多く気分も落ち着く。木々の間からは雄大な多摩川の
	流れが見える。水量は少ないが川幅は驚くほど広い。これだけの川幅が豊かな水であふれていた時代には、ここを船が遡って
	いたのだ。ずっと上流にまで船が来ていた事実は近世まで知られている。ここから、晴れていれば富士山も望めると
	言う。



上の図をクリックしてもらえば大きな案内図を見れますが、容量は1.1MBあります。





	東京都大田区田園調布。都内でも有数の高級住宅地として有名な多摩川流域に、「田園調布古墳群」と呼ばれる古墳群があ
	る。現在は多摩川台公園として整備されているが、高級住宅街の背後、多摩川北岸の丘陵地帯に、全長100米級の前方後
	円墳、亀甲山古墳と宝来山古墳を中心にした2kmほどの間に、大小の古墳が連なる。公園の一部には古墳展示室もあるが、
	出土した遺物等の展示は少ない。入場無料で、多摩川台古墳群より出土した人や動物の埴輪、刀剣、ガラス小玉などのレプ
	リカが展示されている。どういうわけかは知らないが、出土品の多くは両国にある「東京都江戸東京博物館」にあるようだ。
	古墳群の列はここからさらに世田谷区野毛にまで延び、「野毛古墳群」と合わせて全長5kmにわたって50基ほどの古墳群
	を形成し、両方併せて「荏原(えばら)台古墳群」と呼ばれている。この古墳群の特徴は、宝来山古墳を初めとして前方後
	円墳が多く作られ、多摩川台1号墳のような横穴式石室を持つ後期古墳も多い事である。

	亀甲山古墳     前方後円墳 4C末−5C初 後円部が一部削られているが全体に良好な残存度。
	多摩川台1,2号墳 前方後円墳 6C中 かっては2基の円墳と思われていたが発掘の結果前方後円墳と判明。更に7C
			  前半に改造され円墳の1号が造られた。
	多摩川台3号墳   円墳 1,2号と併せて前方後円墳という説もあったが、両者の間に周溝が確認された。
	多摩川台4号墳   円墳 7C初 1−8号全て横穴石室を持っている。
	多摩川台5号墳   円墳
	多摩川台6号墳   円墳
	多摩川台7号墳   円墳
	多摩川台8号墳(旧9号)円墳 これだけやや離れて立地。奥に宝来山古墳がある。
	多摩川台旧8号墳  発掘の結果ただの盛り土と判明。7,8号の間にあり古墳と間違われた。
	宝来山古墳     前方後円墳 4C末 後円部消滅。かっては個人邸宅内にあり前方部には住宅があったが、都が買収、
			  現在史跡公園となっている。






	<亀甲山古墳>(かめのこやまこふん) 国指定史蹟 東京都大田区田園調布1-63 

	多摩川台公園にある亀甲山古墳は、大田区から世田谷区にかけて多摩川左岸に集中する荏原台古墳群中最大の前方後円墳で、
	昭和3年(1928)に国史跡に指定されている。発掘調査が行われていないので詳細は不明らしいが、4世紀終末から5世紀
	前半頃の築造と考えられている。4C初めか中頃とされる宝来山古墳より、前方部がやや開いた新しい形式と見られる事か
	ら、宝来山古墳に続いて築造されたと考えられる。保存状態は良好。破壊も盗掘も受けておらず、内部の副葬品は恐らく手
	つかずのままと思われるので、調査されれば意外なものが出現するかもしれない。


































上左の道、谷に掛けられた橋を渡って進むと8(旧、9)号墳を経て宝来山古墳へ至る。


	<宝莱山古墳> (ほうらいさん古墳) 東京都大田区田園調布4-4 

	多摩川台公園の西北端にある宝莱山古墳は、4世紀初−中頃の築造と推定され、荏原台古墳群中最古と考えられている。 昭
	和9年に工事のため「前方部」が削られて現在は「後円」の部分しか残っていない。公園内には国史蹟の亀甲山古墳や、1
	号墳から8(9)号墳まで小さな古墳が並んだ多摩川台古墳群があり、近くにある浅間神社古墳の上に建っている。この古
	墳は都内でも最古のもので、全長約100mの前方後円墳だ。現在、周囲は宝来公園となっている。














	宝来山古墳、8号墳を巡らず、ぐるりと引き返して多摩川側を7,6,5号墳から、1、2号墳へ戻っていく。こっち側が
	正式な(?)散策路のようだ。尾根に沿って歩いていくと8個の古墳がほぼ一直線に並んでいる。



















		
	4,5世紀代に、多摩川流域に形成された古墳は、左岸の亀甲山・宝莱山という2つの大型前方後円墳、そして右岸の同じ
	く観音松・白山前方後円墳を最古とし、次いでそれらの上流に左岸の野毛大塚古墳、そして砧中学校第7号および亀塚の2
	前方後円墳が築造される。6,7世紀には,かって古墳が築造されたこの地域に、円墳で構成される群集墳が形成されるよ
	うになる。下流域においては,右岸に加瀬台古墳群(川崎市幸区加瀬)・日吉矢上古墳(横浜市港北区日吉)、左岸に多摩
	川台古墳群が現れ、さらに、7世紀終りには横穴墓群が出現し始める。この地域に新たに出現した横穴墓の分布は、右岸の
	津田山横穴墓群(川崎市高津区津田山)と左岸の久ケ原台地横穴墓(大田区久ケ原・千鳥)、そして等々力渓谷横穴墓(世
	田谷区等々力)等々である。このように見てくると、多摩川流域に栄えた古墳時代とその文化は4世紀から7世紀に及び、
	その成立は、弥生時代から発展成長してきた土地の豪族の勢力を背景にしたものというより、近畿圏や西日本地区と同様、
	渡来人たちの具体的な勢力拡大の痕跡と見た方が良さそうである。それは、これらの古墳群とそこからの出土品が雄弁に語
	っている。

 

	
	多摩川下流域に古墳が作られなくなると、中流域と上流域に集落が増え、古墳の築造が行われるようになる。狛江市、調布
	市、あきる野市などで、これは多摩川下流域から、北武蔵に古墳築造の勢力の一部(或いは大部)が移っていったように見
	える。下流から見ていくと、

	狛江市、狛江古墳群(直径10〜40メートル前後の円墳 5世紀〜7世紀)
	調布市、下布田古墳群(直径10〜30メートルの円墳群 5〜7世紀)
	あきる野市 飛田給古墳群(直径10メートル前後の円墳 6世紀〜7世紀)

	などの古墳群が続く。古墳自体は小規模になるが、南関東から北関東への集団移住が類推される。古墳時代が終焉を迎える
	と古代寺院の建設が始まる。関東が完全に大和政権支配下に入り、「薄葬令」「仏教」が浸透してきて、葬送の様式も変化
	したものと思われる。そして、新たな渡来人たちの活躍も始まる。宝莱山・亀甲山古墳を築いたのが第一次の渡来人達だと
	すれば、関東は第二次の渡来人達を受け入れる準備を整えたのだ。



木々の間から見た多摩川の流れ。


	<謝辞>
	当HPに掲載した発掘時の写真・出土物等に関する資料は、古墳展示室で販売されている、以下の「大田区古墳ガイドブッ
	ク」(平成4年11月3日、大田区郷土博物館編集:大田区土木部公園課発行)と、「大昔の大田区」(平成9年3月21
	日、大田区郷土博物館編集・発行)から転載させて頂いた。記して深く感謝します。
	「大田区古墳ガイドブック」は、72ページ、200円、「大昔の大田区」は128ページ300円という驚くべき安さで
	ある。しかもどちらにも「荏原台古墳群」の詳細な地図まで付いている。なんという良心的な施策だろう。他の自治体も大
	いに見習ってほしいものだ。




大田区内の古代遺跡(上記ガイドブックより)







同上、「大昔の大田区」より。



邪馬台国大研究・ホームページ /古墳時代/ 多摩川台古墳群