Music: Across the Universe
高倉塚古墳
東京都府中市分梅町1-11 2004.1.10(土)
久保田さんに案内頂いた「東京史蹟の旅、第一弾」もいよいよ終わりである。世田谷区立郷土資料館、野毛大塚
古墳、大田区多摩川台古墳群と資料館、東京都立埋蔵文化財センターと多摩ニュータウン遺跡、と巡ってきて、
いよいよ久保田さん達の「国分寺友の会」の新年会に参加する為、久保田さん家に寄って車を置き、分倍河原駅
から電車で新宿へ向かうことになった。その前に久保田さんが、我が家の近くにも古墳があるから寄って行きま
しょうと言う。住宅街の真ん中にその古墳はあった。

小さな古墳だが、この周囲には高倉古墳群というのがあって、その中でも代表的な古墳だと書いてある。しかし、
土止めのためか、或いは不心得者が掘らないようにか、全面砂詰めのビニール袋で覆われていて、古墳の姿をと
どめていない。工事現場のようで、なにか痛々しくさえある。もっと整備すればいいのにと思うが、墳丘の頂点
にはでかい木が生えていて、なにか小さな神社でもあったような感じだ。説明板によれば、高倉古墳群には27
基の古墳があるそうで、だとすればこの周辺も古代人達の神聖な奥津城だったのだ。府中に古墳が築かれるとい
うのはいつ頃なのだろうか。今日見てきた荏原古墳群の後、府中市あたりにも小古墳が築かれたとあるので、だ
とすれば、6世紀終わりか7世紀頃だろうか。銀象嵌の太刀も出土したとあるので、それなりの豪族がいたのだ
ろう。大阪へ戻ってこの古墳のことを調べてみたが、私の持っている資料には出てなかった。




国分寺友の会・2004年新年会

私と久保田さんの付き合いは、かれこれ足かけ3年くらいになる。最初、私の「邪馬台国大研究」HPをご覧頂
いて久保田さんからメイルを頂いたのが始まりだった。何度かメイルのやりとりをし、当時お勤めになっていた
会社は京都が本社で、その東京支店に勤務されていたが、出張で関西におこしの際、2、3度大阪でお会いした。
久保田さんはインターネット上で、「国分寺友の会」というのをやっていて、コマツさん、芭裳裟(ばもさ)さ
んという方と三人の会という事だった。国分寺を訪ねて歩いてる人がいるというのも始めて知ったが、私も天皇
陵めぐりを始めて、御陵巡りをしている団体があるのを初めて知ったので、まぁおなじようなもんかもしれない。
それに芭裳裟(ばもさ)というハンドルネームにも驚いた。なにか、どっかの偉い坊さんの名前かなと思ったが、
バッハ・モーツァルト・さだまさし、の略だった。本名は日本で一番ありふれた名前、鈴木さんだった。だから
ややこしいハンドル名にしたのかな。音楽の先生で、校長先生だった。コマツさんは、某自動車会社の、関係会
社の社長で、HPを覗くと豊田章一郎氏と一緒に映っている写真があって驚いてしまった。



そうこうしているうちに、しばらく見なかった「国分寺友の会」の掲示板に、新顔が何人か投稿されていた。
あ、会員増えたんだ、と思っていたら、2003年末に久保田さんからメイルが来て、年明けに友の会の初会合
を、新年会を兼ねて新宿でやりますので来ませんかとお誘いを受けた。当初の3人は何度か会っていたらしいが、
ニューフェィスを入れての初会合らしい。私は年明けだし、ちょっと出張できるかどうか分からなかったのだが、
年末に社長が大阪へ来て、年明けに東京へ来てくれというので、これ幸いとその日にセッテイングした。
当然ながら、新年会はみなさん国分寺の話で盛り上がった。わたしは特に国分寺そのものにはあまり興味は無い
のだが、聖武天皇とその彷徨、大仏建立の発想などには心惹かれる。分野は違うとは言え、同じ歴史を学ぶ集ま
りとして、また機会が在ればお会いしたいものである。

また、久保田さんにご案内頂いた東京の遺跡巡りをして、東京にも古代の息吹は結構あるのだという事を知った。
私は平成元年から3年間東京に勤務したが、大阪へ戻ってからはもう二度と東京にはいかんぞ、と思っていた。
あのすさまじいラッシュはもう体験したくないし、何よりも東京には歴史がないと思っていた。しかし、今回、
東京の古墳を訪れて、こりゃ東京も案外捨てたもんじゃないなと思ったし、東京転勤になったらなったで、結構
エンジョイ出来るかも、という気になっている。

左から、久保田さん、小松さん、鈴木さんのホームページと、友の会掲示板

会場へ向かう前に寄った新宿の、通称「しょんべん横丁」(上左)。東京時代も行ったこと無かった。上右は帰り
のANA機。今回は帰りが昼間だったので、航空写真を山ほど撮った。いつか日本沿岸航空写真のHPを作ろうか
なと思っているが、はてさて。
その後、kubotaさんが送ってきてくれた、新装なった「高倉塚古墳」




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