横穴は岩盤に掘削された洞窟を墓として用いたもので、古墳時代に入って北部九州で発生し(5世紀頃)、中部九州から瀬 戸内海を東進し近畿地方に至った(6世紀頃)ものと考えられている。このHPでも紹介している、熊本県菊水の石貫横穴 古墳も同じ形態の墓制である。高井田に横穴古墳が存在する事は古くから知られており、明治時代に近代考古学が息吹きを 見せた頃には著名な学者もたびたび訪れたりしていたようである。しかし、この古墳を有名にしたのは1920年の線刻画発見 である。 横穴は中世あたりに、倉庫や堆肥小屋として用いられていたような形跡もあり、ずいぶんといたずら書きも残されているの であるが、船に乗った人物画は確かに古墳時代のものと認定されるに至って、ぞくぞく古墳時代の線刻画が発見され、1922 年には横穴の一部が国の史跡に指定された。これまでの調査により、全部で 162基の横穴が発見されており、全国でも有数 の規模をもつ横穴群である。未発見を含めると 200位はあるのではないかと推定されている。大阪府下では、安福寺横穴群 とともに、柏原市域にのみ見られる墓制である。
普段は上の写真のように、入り口が柵でふさがれ中に入る事はできないが、5月16日は柏原市教育委員会により一般公開さ れるとの事で、さっそく歴史倶楽部の面々を誘い見学に訪れた。現在古墳群は史跡公園として整備されており、当日は主要 な横穴には学芸員が張り付いて、見学者に詳しい説明をしてくれていた。
線刻画は先の鋭い釘やナイフのようなもので壁に絵や記号を描いたものである。人物や船、家、木、鳥、武器等の他、円や 方形などの図形も見られる。これまで26基の横穴で線刻画が確認されている。
この横穴群を一躍有名にした船・人物の線刻画。下はその実物。この線刻画は大正6年(1917)に発見され、「ゴンドラ形 の船に乗る人物」とか「人物の窟」とか呼ばれている。船の中央の人物は堂々としたポーズを取っており、お付きと思われ る二人の人物は小さく描かれている。描かれた服装は、当時の衣装を記録したものとして貴重な資料とされている。
下右は造り付け石棺。高井田横穴群では19基確認されている。石棺は普通よそで作ったものを古墳に入れるが、ここでは床 や壁と一体である。現代のユニットバスのようなものだ。
整備事業の作業中に高井田山の頂上で古墳が発見された。これは横穴ではなく墳丘の石室をもった円墳である。豊富な副葬 品(画像鏡、熨斗(うっと:ひのしとも言う。古代のアイロン:全国でも数例しか出土していない。)鎧・甲、須恵器等) が出土したため、横穴に埋葬されていた人々の首長クラスが葬られていたのではないかと考えられている。古墳は現在透明 な強化ガラスで保護され、石室内に出土品のレプリカを並べて見学できるようになっている。副葬品の実物は、史跡公園内 にある柏原市立歴史資料館で見る事ができる。
ここを調査した柏原市立歴史資料館の桑野一幸さんの話によれば、「ここで見つかった横穴式石室は、出土した須恵器から 判断すると、5世紀末のもの。しかも、百済の影響を直接受けている。つまり、最古級の畿内型横穴式石室なんです。」と 言う。桑野さんによれば、畿内の横穴式石室には2種類あって、朝鮮半島からいったん九州を経て伝わったもの(5世紀半 ばころから)と、直接畿内へ来たもの(6世紀頃から)とに分けられると言う。百済との関係を裏付けるのは、石室の形態 と副葬品である。石室を上から見た形は九州のものと違って「韓国のソウルに、可楽洞、芳夷洞という百済の古墳がありま すが、ここの横穴式石室と似ています。」という事になる。 また、資料館に行けば見れる古代のアイロン、火熨斗(ひのし)の出土は、国内では2例目であるが、中国・朝鮮では多く 出土している。百済の武寧王陵では、王妃(526年没)の副葬品として出土している。高井田山古墳でも、玄室には副葬品か ら見て二人埋葬されていた可能性が高く、火熨斗が出た方の棺からは中国産の鏡も見つかっている事から、こちらも女性の 可能性が高い。 王に殉死する王妃という風習も、そのまま百済から移ってきたのかもしれない。火熨斗のもう一つの出土地である奈良県橿 原市の新沢千塚126号墳は、こちらも渡来系の墓ではないかと言われている。