SOUND :a hard day's night

多賀城跡 2005.7.17(日) 宮城県多賀城市







	7月、海の日をはさんでの3連休明けに東京本社に出張になった。3連休なにをしようか悩んでいたら、ふと、そうだ東北
	だ、と思い立った。遺跡めぐりにも博物館めぐりにも東北地方が欠けているし、今年は東北を回りたいなと思っていたので、
	東北をめぐって東京へ帰り、翌日本社に出向けばいいことに気づいた。前回会津福島へ行ったので、今回はそれより北だな
	と考えたら、昔から多賀城へ行きたかったのを思い出した。歴史倶楽部の例会でいずれ東北へ、という話は出ているが、そ
	れを待っていたらいつになるかわからないので、思い切って今回行ってみることにした。

	以下、多賀城に関する解説の多くは、多賀城市教育委員会編「多賀城市の文化財」より転載した。記して謝意を表す。  

 


	仙台で、仙台市立博物館、青葉城、陸奥国国分寺・国分尼寺、遠見塚古墳、地底の森ミュージアムを見た後、仙石線で多賀
	城へ来た。仙台から多賀城へはJR東北本線で国府多賀城駅へ行くほうが近いが、ホテルが多賀城駅近くだったので仙石線
	に乗った。関西にはない車両で、降りるときにはボタンを押さないとドアが開かないのだった。

 



多賀城廃寺

特別史跡多賀城跡附寺跡(とくべつしせきたがじょうあとつけたりてらあと)
	特別史跡多賀城跡附寺跡とは、多賀城跡、多賀城廃寺跡をはじめ、それに関連する遺跡の総称で、多賀城市内5カ所に分
	布しており、その面積は107万平方mに及んでいる。そのうち多賀城跡と多賀城廃寺跡は、大正11年に史跡に指定さ
	れ、昭和41年に特別史跡に指定された。その後も発掘調査により新たな事実が次々と発見され、これまで6回の追加指
	定が行われている。ちなみに分布している遺跡は以下のようなものである。

	<館前遺跡(たてまえいせき)>
	この遺跡からは、6棟の掘立柱建物跡などが発見されている。これらは、四面に廂(ひさし)をもつ建物跡を中心として
	整然と配置されており、規模や配置などから国府多賀城に赴任した国司などの上級役人の館であると考えられている。

	<柏木遺跡(かしわぎいせき)>
	多賀城跡の南東約4kmに位置する大代地区の丘陵上にある。この遺跡からは、製錬炉4基、木炭窯6基、鍛冶工房跡3
	棟などが発見された。これらの鉄生産に関する遺構は8世紀前半のものであり、多賀城直営の製鉄所であったと考えられ
	る。
	<山王遺跡・千刈田地区(さんのういせき・せんがりたちく)>
	山王遺跡は、山王、南宮を中心とする東西約2km、南北1kmの広範囲にわたる遺跡である。千刈田地区はこの遺跡の
	ほぼ中央に位置しており、ここから北東約1.2kmの丘陵上に多賀城跡がある。この遺跡からは、四面廂付(しめんび
	さしつき)建物跡、施釉(せゆう)陶器・中国産陶磁器、木簡など大変注目すべきものが発見された。昭和58年に「観
	音寺」と書かれた墨書土器が発見されたことから、多賀城廃寺の名前が観音寺という名称であった可能性が考えられてい
	る。さらに、出土した題籤軸(だいせんじく)と呼ばれる木簡から、ここが陸奥国の長官である国守の邸宅ではないかと
	も考えられる。「国守館」の発見は、全国でも初めてであり、大変貴重なものである。
	【多賀城市教育委員会編「多賀城市の文化財」より。】

 




	■ 多賀城廃寺跡  <国家鎮護を祈願した国府の附属寺院跡>

	多賀城廃寺跡は、国府多賀城の南東1kmの高崎地区の低丘陵上に立地している。この寺院は古代に建設されたものだが、
	当時の文献には何ら記録はなく、「廃寺」と呼ばれる多くの寺院跡がそうであるように、本来の名称は不明である。大正
	11年に多賀城跡が史跡指定されるにあたり、本寺院もその伽藍配置、出土遺物の特徴などから多賀城に付属するもので
	あるとされ、「多賀城跡附(つけたり)寺跡」という名称で史跡に指定された。

 


	多賀城廃寺の発掘調査は、昭和36年から37年、41年から43年及び49年から50年の3期にわたって実施された。
	その結果、建物の規模、配置などの主要伽藍の様子が明らかになった。東に塔、西に東を向いた金堂があり、両者の北に
	は講堂があり、南には中門がある。中門からは左右に築地が延び、塔と金堂を囲んで講堂の左右に取り付いている。講堂
	の北側には大房と小子房からなる僧房があり、僧房の東西には各々倉が設けられている。築地の北東及び北西角の北側に
	は経蔵、鐘楼が配置されていた。このような伽藍配置は、金堂が塔と向かい合うことなど九州大宰府の附属寺院である観
	世音寺と類似しており、観世音寺式と呼ばれている。なお、この時代の寺院の伽藍に不可欠な南大門等の遺構は未だ発見
	されていない。






	ところで塔は、寺院の象徴で元来は釈迦の遺骨である仏舎利を納める場所だが、もちろん実物は入手できないので、その
	寺院の宝物を容器に入れて納め、この場所が仏教の道場であることを示す建物である。金堂は本尊をまつる建物であり、
	講堂は僧侶が教典の講義、研究などを行う場所である。僧房は僧侶の日常生活の場で、鐘楼は時を告げる鐘を設置する建
	物、経蔵は仏典を納める倉である。






	発掘調査が行われる以前は、この寺院は比較的短命であり、陸奥国分寺が創建されるとそれ以後は廃れてしまったと考え
	られていたが、発掘調査の結果、そのような短命な寺院ではなく、各建物は何度かの修復を受けており、多賀城と同様に
	8世紀前半から10世紀半ば頃まで営まれ続けていたことが判明した。東北地方においては、7世紀半ば頃から小規模な
	寺院が営まれるが、七堂伽藍を備えて本格的な寺院は多賀城廃寺が最初であると考えられる。当時は、仏教が国の政治に
	きわめて大きな力をもっており律令政府は政治に仏教の力を借りて国家鎮護を祈願していた。多賀城廃寺もこのような律
	令政府の政治思想のもとで、東北地方の安穏や順調な経営を祈願したものと思われる。 






	多賀城廃寺の名称についてはまったく不明だが、意外なところから本寺院の名称を示すのではないかと思われる遺物が出
	土した。昭和58年、廃寺の西約2kmの山王遺跡(東町浦地区)の発掘調査で、国府多賀城に通じる東西道路の傍らの
	浅い穴から二百点以上の土器が出土し、それらの中から「観音寺」と墨で書かれた土器が発見された。いずれも10世紀
	前半頃の素焼きの杯(つき)で大半に油煙が付着していた。これは灯芯の痕跡と考えられ、これが灯明皿として用いられ
	ていたことを物語っている。このような出土状況から、これらの土器は「万燈会(まんとうえ)」に用いられたものと考
	えられる。








	古代には、国府下の主要道路などで「万燈会」と呼ばれる仏教行事を度々行ったことが記録に残っている。多賀城近辺で
	「万燈会」を実際に司るのは多賀城廃寺に他ならずその時に用いた土器の一点に「観音寺」と記されているということは、
	多賀城廃寺の名称が「観音寺」であったことを意味する可能性も十分にある。「観音寺」は「観世音寺」と同義であり、
	多賀城廃寺のモデルと考えられている九州大宰府の付属寺院「観世音寺」と、伽藍配置だけでなく寺名も共通していたの
	かもしれない。 	【多賀城市教育委員会編「多賀城市の文化財」参照。】



 





多賀城碑(壺の碑)





	■  多賀城碑	<多賀城の創建と修造を記す奈良時代の金石文(壺の碑とも呼ばれる。)>

	江戸初期に発見され、大昔からの歌枕として有名で、千年の記念碑との対面に芭蕉も涙したと言われる。碑文は、前半には
	京(平城京)、蝦夷国(えみしのくに)、常陸国(ひたちのくに)、下野国(しもつけのくに)、靺鞨国(まつかつのくに)
	から多賀城までの距離が記されている。後半には、多賀城が神亀元年(724)大野朝臣東人(おおののあそんあずまひと)に
	よって設置されたこと、天平宝字6年(762)藤原恵美朝臣朝狩(ふじわらのえみのあそんあさかり)によって改修されたこ
	とが記されている。また最後に、天平宝字6年12月1日と、碑の建立年月日が刻まれている。なお、「壺の碑」はもう一
	つあり、1949年に発見された青森県東北町の「日本中央」と彫りこまれた碑がそれだといい、坂上田村麻呂が刻んだと
	いう説があるが、稚拙な「日本中央」の文字といい、そこらに転がっているような岩石の選択といい、これは後世の捏造で
	ある可能性が高いと思う。(季刊邪馬台国の「東日流外三郡誌」糾弾キャンペーン等々による)




	多賀城碑は、多賀城跡の外郭南門から30mほど城内に入ったところにある。高さ196cm、最大幅92cm、最大厚さ
	70cmの花崗岩質砂岩で、古い覆屋の中にほぼ真西を向き垂直に立っている。碑面は加工されているが、背面は自然面で
	ある。碑面上部に大きく「西」の1字があり、その下の界線で囲んだ中に11行140字が、以下のような内容で彫り込ま
	れている。なお、「西」が何を意味するのかは不明だが、「西」を向いているからではないかという単純な理由が一番有力
	なようだ。

		多賀城 京を去ること一千五百里
		蝦夷国の界を去ること一百二十里
		常陸国の界を去ること四百十二里
		下野国の界を去ること二百七十四里
		靺鞨国の界を去ること三千里
		此の城は神亀元年(七二四年)歳は甲子に次る、
		按察使兼鎮守将軍・従四位上・勲四等・
		大野朝臣東人の置く所也。
		天平寶字六年(七六二年)歳は壬寅に次る、
		参議東海東山節度使・従四位上・仁部省卿・
		兼按察使鎮守将軍藤原恵美朝臣朝、修造する也。
		天平寶字六年十二月一日

	前半5行は箇条書き。京(平城京)、蝦夷国、常陸国、下野国、靺鞨国から多賀城までの距離を記す。当時の1里は約5
	35mである。後半6行が本文とみられ、前段に、神亀元年に大野朝臣東人が多賀城を設置したこと、後段には天平宝6
	年(762)に藤原恵美朝臣朝が多賀城を改修したことを記す。最後の行は、碑の建立年月日。






	碑文は本文の後段に力点が置かれ、「藤原恵美朝臣朝の多賀城修造」を記念した碑とみられている。この多賀城碑は土中
	から見つかったと伝えられ、江戸時代前期の寛文・延宝年間から、その所在が不明だった歌枕の「壺碑(つぼのいしぶみ)」
	とみなされ、全国にその名が知れ渡った。元禄2年(1689)には松尾芭蕉が訪れ、碑文を書き写し、さらに「行脚の一徳
	存命の悦び、羇旅の労をわすれて泪も落るばかり也」と、碑と対面した感動を『おくのほそ道』に書き残している。後に
	徳川光圀が注目し、仙台藩でも碑の調査が行われている。しかし一方では、碑文の内容などに対する疑問も出され、明治
	時代に入ると江戸時代の偽作とする説が出されて大正期まで論争が行われた。それから昭和40年代前半まで、碑は資料
	的に顧みられることはなかったが、多賀城跡の発掘調査が進むにつれてその創建と修造の時期などが碑文の内容と矛盾し
	ないことが判明し、碑の問題点について再検討が始まった。その結果、次のようなこと
	が明らかにされ、多賀城碑は近世の偽作ではないと認識されるに至っている。 
 
	1. 文字の彫刻方法はすべて同じで、同時に彫られたこと。 
	2. 書風、書体に関しては正倉院文書や木簡などにみられるものと一致し、当時の文字として不自然でないこと。 
	3. 里程については、偽作であればあえて誤りとわかる距離を記さないであろうこと。 
	4. 「靺鞨国」号については、渤海国に多く居住する靺鞨族あるいはその国家としての渤海国を指すと考えられること。 
	5. 大野東人の官位は多賀城で活動中のころのものとみられること。 
	6. 「朝」の位階は、修造を行った朝を顕彰する意味をもっていること。








	さらに平成9年には、覆堂の解体修理に際して碑の周囲の発掘調査が行われ、近世初期に碑が据え直された堀形と古代の
	据え付け穴の跡が確認されたことで、碑は建立当初からこの場所にあった可能性が強まった。こうして多賀城碑は、奈良
	時代の真作と考えられるようになり、多賀城と古代東北を解明する上で重要な史料として、また数少ない奈良時代の金石
	文としてその価値が認められ、平成10年6月に国の重要文化財に指定された。
	【多賀城市教育委員会編「多賀城市の文化財」参照】





 




	周知のように、古代東北人は当時の大和政権から「エミシ」と呼ばれていた。その呼称のいわれは定かでないが、古くは
	「愛瀰詩」等と漢字表記され、強い人、勇者といった意味で使われていた。それが、中華思想の影響からか、「蝦夷」や
	「毛人」という字があてられるようになる。野蛮人、毛むくじゃらといった蔑称だが、(大和の)自分たちとは違う文化
	レベルの低い部族の人たちという意味が込められている。また、『古事記』には「まつろわぬ人」とあり、それを「悪人
	ども」ときめつけている。つまり大和朝廷は、自分たちに従わない者を、悪人や野蛮人として征伐することを正当化して
	いたのである。
	こうした方針のもとに展開された律令国家による東北地方の植民地政策は、エミシ勢力にさまざまな対応をさせることに
	なる。城柵の造営と大規模な植民によって、在地民エミシはこれまでの社会構造が崩壊する危機にさらされたわけである
	から、その勢力は、律令国家の政策に同調して生き延びようとする勢力と、逆にあくまでも拒否して自己防衛する勢力と
	に大きく分かれた。これが同じ「蝦夷」を「俘囚」や「夷俘」、「田夷」や「山夷」と呼び分けることにつながっていく
	のだが、律令国家が、在地民エミシを順化の度合によってどう呼んだとしても、エミシ勢力の律令支配に対する抵抗の組
	織化と武力化を止めることはできなかった。
	藤原氏によって陸奥国に桃生城、出羽国に雄勝城が造営され、さらに藤原仲麻呂の乱から3年後の神護景雲元年(767)
	には伊治城(築館町)も完成し、大和政権の東北支配は順調に北へ拡大していたかにみえたが、これらの城柵は抵抗する
	エミシ勢力の攻撃目標となる。宝亀5年(774)、ついに桃生城がエミシによって攻撃される。そしてこれに誘発された
	かのように、陸奥と出羽の両国で次々と武力衝突が起こっていった。

	この時代のエミシ勢力の抵抗を象徴しているのが、宝亀11年(780)に起きた「伊治公呰麻呂の乱」である。先にみたよ
	うに、城柵の造営に積極的に加わって律令国家側に立つことでその存続を維持したエミシ勢力と、植民地化を拒否してそ
	の拠点となった城柵を攻 略することで、失った土地を回復しようとしたエミシ勢力があったわけだが、井治公呰麻呂は
	始めは前者であった。「陸奥国上治郡大領外従五位」というのが、彼の律令国家側の顔だった。それが後者の立場に寝返
	ったかたちでこの乱は起こったのであるから、事態は複雑である。宝亀11年2月、北からの相次ぐ争乱に対抗するため
	に、伊治城の北方に城を造営するという計画が持ち上がった。その造営にあたるため3月、按察使の紀広純は牡鹿郡大領
	道嶋大楯、上治郡大領伊治公呰麻呂らとともに伊治城に入った。この時、呰麻呂は俘軍を率いて反乱を起こしたのである。
	呰麻呂は、同じエミシ出身の郡司道嶋大楯と案察使紀広純を殺害した後、国府多賀城を攻め、府庫の物を奪って火を放っ
	た。藤原氏が修造した多賀城は、あっけなく灰と化した。 
 
	陸奥と出羽両国を統括する按察使が殺害され、国府が焼失するという大事件であったにもかかわらず、このあと呰麻呂が
	どうなったのかを知る記録は見当らない。おそらく呰麻呂は、律令支配を拒否するエミシ勢力のもとに、その身を投じた
	と考えられる。組織的な抵抗の本拠は、岩手県の胆沢地方にあった。しかし、桃生城と伊治城が造営されていた宮城県北
	部地域から多賀城までが、完全に律令支配に組み込まれ、胆沢地方のエミシ勢力とまったく関係が絶たれていたわけでは
	なかった。呰麻呂のように、表面では律令国家側に立ちながらも、律令支配に抵抗するエミシ勢力は根強く存在していた
	のである。強引な城柵の造営が、そうしたエミシ勢力の目を覚ましたのであった。以後長期 化していく争乱が,それをよ
	く物語っている。そしてエミシ勢力は、統一国家的なまとまりをみせていないにもかかわらず、宝亀5年(774)の桃生城
	攻略以降38年にもわたって、大和政権の侵略に対し抵抗を続け、一度も敗退することはなかった。



多賀城跡







	美しい自然にかこまれ、太古から人々が行き交い暮らしていた多賀城に、陸奥国府「多賀城」が置かれたのは、神亀元年、
	西暦724年の事である。多賀城は奈良・平安時代、「遠の朝廷(とおのみかど)」と呼ばれた東北の中心地で、「続日本
	紀」には「多賀城柵」という名で登場し、古代東北の政治的軍事的拠点として重要な位置にあった。多賀城は、宝亀11年
	(780)伊治公呰麻呂(これはりのきみあざまろ)の乱で焼失するが、間もなく再建されている。10世紀にかけて陸奥国
	府として、さらに陸奥・出羽(秋田・山形)両国を統轄する按察使(あぜち)が常駐し、奈良時代には鎮守府(ちんじゅふ)
	も併置されるなど、東北経営の中枢的な役割を果たした。鎮守府はその後、胆沢城(岩手県水沢市)に移されるが、北の拠
	点として、朝廷と蝦夷(エミシ)の人々との争いの場ともなり、その後は「歌枕」の地として王朝の人々が憧れたロマンあ
	ふれる土地となっていった。しかし、武士が闊歩する戦国の時代のうねりの中で、「多賀城」はしだいに歴史の彼方へと忘
	れられて行くのである。










	多賀城跡は、東の塩竈市から延びてくる低い丘陵上に立地し、多賀城市市川・浮島にかけて所在している。この地は、南西
	に広がる広大な仙台平野が一望でき、北には黒川・大崎平野を控えている。また、東には塩竈港があるなど、当時は山道・
	海道の交通の要衝の地であった。遺跡は、標高52mから4mの丘陵から低湿地をまたぐようなかたちで築かれている。全
	体の形はいびつな四角形で、規模は南辺約870m、北辺約780m、西辺約660m、東辺約1kmで、面積的には八町
	四方位の大きさがある。周囲には幅3m、高さ5mほどの築地が廻り、南辺中央に南門、東辺北寄りに東門、西辺南寄りに
	西門がそれぞれ位置している。南門から北に300mほど入ると、約100m四方の政庁跡がある。建物の配置は、中央に
	正殿を置き、左右前方に脇殿を配し、南正面には南門があり、門から築地が延びて四周を囲んでいる。これは、大宰府政庁
	や各国の国府の政庁に共通する形であり、多賀城政庁が国府に関わる大規模な官衙(かんが)の中枢であったことを示して
	いる。政庁以外にも城内の所々で役所の実務を司った建物跡群や竪穴住居跡が発見されている。  











 


	大和朝廷の侵攻をまたずとも、太古より蝦夷の大地には蝦夷人たちの自由に行動した生活はあったはずで、そこではそれな
	りの秩序に基づいた経済圏が確立されていたはずである。日本統一をめざす大和朝廷においては,自分たちに従わない,こ
	の蝦夷人集団の存在が不都合だった。筑紫の岩井の例やヤマトタケルの東征にもみるように、「まつろわぬ民」に対する大
	和朝廷の弾圧は容赦がない。記紀の描く征服譚は、大和のあくなき征服欲を描いているが、蝦夷人にしてみれば、岩井同様
	これもまた、大和朝廷こそ自分達の平安な生活圏を脅かす無法なる侵略者であった事は確かである。
	歴史の流れから言えば坂上田村麻呂とアテルイの激突は必然だったと言え、征服される側の運命はいつになっても悲惨であ
	る。十余万の大軍をもってしても、大和は長い間蝦夷地を平定できなかった。アテルイを討てなかった大和政権は、桓武天
	皇の勅命をもって征夷の発令を坂上田村麻呂へ伝え、関東以北の全権を天皇に代わって執行する征夷大将軍坂上田村麻呂と
	して全権をゆだねたが、それは実質的には蝦夷地支配というよりも「アテルイ討伐軍」であった。(後段の解説参照)





 




	政庁とは、大宰府や国府などの官衙に見られる中枢部分で、政務以外にも重要な儀式などが行われた場所である。陸奥国に
	は、守(かみ・長官で1名)・介(すけ・長官を補佐する次官で1名)・掾(じょう・一般事務で大掾1名、小掾1名)・
	目(さかん・書記官で大目1名、小目1名)の国司四等官と、史生(ししょう・定員5名)が中央から派遣されていた。
	陸奥守は、陸奥・出羽按察使も兼任し、より大きな権限をもって陸奥・出羽両国を統轄し、鎮守将軍をも兼任して軍事も掌
	握していた。このように国守の職掌は多岐にわたり、律令制に基づいて公民を支配するために広範な行政・人事・司法・軍
	事・警察権などをもっていた。この他に陸奥国守には、宴会や贈物を与えて蝦夷を支配下に入れる「饗給(きょうごう)」、
	軍事力によって蝦夷を支配下に入れる「征討(せいとう)」、蝦夷の動静を探る「斥候(せっこう)」という特別な役目が
	与えられていた。陸奥国府多賀城の政庁では、公文書の決裁や行政報告等の政務のほか、元日朝拝(がんじつちょうはい)、
	饗給などの儀式や宴会、吉祥天悔過(きっしょうてんけか)などの仏教行事などが行われていた。
	多賀城政庁は創建以来、基本的な建物の配置と構成は終始一貫しているが、すべてが一つの時期のものではなく、大きく4
	期に区分することができる。 

	第 I 期:創建期の政庁(8世紀前半〜8世紀中頃)

	養老・神亀(720年前後)に造営された創建の政庁。この期の建物や築地は全て掘立式で、主要な建物は瓦葺であったと考え
	られている。政庁の規模は、南北約116m、東西約103mである。中央やや北寄りに、南に廂(ひさし)のつく正殿が
	あり、正殿前方の東西に各々脇殿が配置されている。南正面には南門があり、門からは築地が延びて両脇殿・正殿を囲むよ
	うにして政庁全体を長方形に区画している。正殿・両脇殿・南門及びこれらで囲まれた広場は、政庁で儀式などが行われる
	際に最も中心となる部分であったと考えられる。また、南門の前方には、東西対称の位置に南門前殿がある。この建物の規
	模・配置などからみて、この時期には南門前殿もまた重要な役割を持っていたものとみられる。

	第II期:8世紀中頃の大改修(8世紀中頃から780年)

	8世紀中頃に改修された政庁。第I期の掘立式建物等を全面的に撤去し、建物や築地はすべて礎石式・瓦葺に改められた。
	正殿は第T期と同位置で、四面に廂の付く規模の大きな建物となっている。正殿前方の広場は、石を敷き詰め整えられてい
	る。脇殿は第T期とは位置を変え、それぞれ東辺・西辺築地の中央に建てられている。南門は位置・規模とも変わらないが、
	この期には、東西に翼廊が取り付いている。正殿の北には、はじめて後殿が置かれ、さらに北辺築地の中央部には北殿が配
	されている。ところで 第II 期の政庁は正殿を堂々とした建物に造り替えたのみならず、南門の左右には翼廊を、そして東
	西と北の築地線上にはそれぞれ脇殿と北殿を配すなど、全体を豪華に見せようとする意匠上の工夫がこらされている。なお、
	この第 II 期の政庁は、遺構の状況から火災によりほとんどが消失したものとみられる。これは『続日本紀』にみえる宝亀
	11年(780)伊治公呰麻呂の乱の火災によるものと思われる。 

	第 III 期:火災後の再建(780年〜869年)

	宝亀11年の火災後に再建された政庁。正殿、後殿、南門は第II 期と同位置にあり、脇殿は第I期とほぼ同じ場所に戻って
	いる。正殿は第 II 期と同規模だが、基壇は凝灰岩を用いた切石基壇となっている。また、正殿の東西には、新たに楼が配
	されている。しかし、第 U 期にみられた翼廊、北殿は再建されなかった。
 
	第 IV 期:終末期の様子(769年〜10世紀中頃)

	この期は3つの小期からなる。第 III 期の政庁は『日本三代実録』にみえる貞観11年(869)の陸奥国大地震により大き
	な被害を受けたとみられ、第1小期はその復興のための造営であった。後殿や築地が建て替えられたほかは、瓦の葺き替え
	などが行われただけと考えられる。第2小期以降の造営は、主に正殿より北の地域で行われ、正殿をはじめとする主要な建
	物などは、新たに建て替えられることなく終末期まで維持されていたようである。また第2小期までは、政庁の建物配置に
	左右対称性の配慮がみられたが、第3小期には北西部に立て替えが集中し、対称性が失われる。
	<多賀城市教育委員会編「多賀城市の文化財」より>
  


 


	多賀城の外周(外郭線)の区画施設は、大部分が土を突き固めて屋根をかけた築地で、東辺と西辺の沖積地では平安時代に
	は丸木材や角材を密接して立て並べた材木塀となっている。ただし、沖積地であっても南辺では大規模な盛土をして築地を
	構築している。築地と材木塀とは構造が全く異なるが、多賀城では一連の区画施設と考えられている。なお、平安時代には
	外郭の築地塀や材木塀に櫓(やぐら)状の建物が取り付けられている。
	ところで、多賀城の南辺築地付近からは、「大垣」と墨で書かれた土器が見つかっている。古代において築地は、宮殿や官
	衙、寺院などの区画施設であり、それらは「大垣」と呼ばれていたことが文献上明らかになっている。多賀城の築地もそれ
	らと同様に呼ばれていたのであろう。

 


	南門は多賀城の正門で、南辺の中央部やや東寄りの丘陵上に設けられている。ここでは、二時期の重複をもつ礎石式の門が
	発見されており、古い門は火災により消失している。この門は政庁中軸線の延長上に位置し、政庁と南門との間には両者を
	結ぶ道路が通じていた。南門の構造については、検討の結果、格式の高い二重門であったと考えられる。
	東門は東辺の北寄りに位置している。奈良時代の東門は築地線上に造られていたが、平安時代になると、築地が40mほど
	西に移動する。ここではさらに築地が44mほど内側に「コ」の字形に折れ曲がっており、その奥まった部分に八脚門が設
	けられている。東門は、当初は掘立式の門だったが、後に礎石式に改められた。
	西門は外郭西辺南西隅の低い丘陵上に設けられている。この門も八脚門で4回の変遷がある。当初は築地線上に掘立式で造
	られ、礎石式に造り替えられている。その後、平安時代の一時期に東門と同様に内側へ約35m入り込んだ位置に掘立式で
	造り替えられ、最後に再び築地線上に戻って礎石式で造り替えられている。 
	<多賀城市教育委員会編「多賀城市の文化財」より>
  






	多賀城駅の反対側に、有名な歌枕の名所が2カ所ある。私は知らなかったのだが、ホテルまで乗ったタクシーの運転手さ
	んが、「有名な遺跡ですから。」と立ち寄ってくれた。

	 


	<沖の石>

	我が袖は潮干に見えぬ
	沖の石の
	人こそ知らね乾く間も無し

	二条院讃岐

	





	<末の松山>

	古今集巻二〇東歌に

	君をおきて あだし心を
	我がもたば
	末の松山 波もこえなむ

	 
	 

	これを本歌とした

	ちぎりきな かたみに袖をしぼりつつ
	末の松山 浪こさじとは

	は、後拾遺集にとられた清原元輔の歌。元輔は清少納言の父である。

	 
	 




	■坂上田村麻呂と阿弖流為 (京都・清水寺境内)

	岩手山に端を発し三陸側の峰々の流れを集め列島の中央を南下し牡鹿半島の上で太平洋へと流れる川がある。この北上川の
	流域に平安時代の陸奥の英雄、阿弖流為(アテルイ)は誕生しているのではないかといわれる。

	桓武天皇の御世、既に大和朝廷は代々の天皇によって九州も四国もその支配下に治めていたが、関東から北へ続く蝦夷の地
	には未だその権力が及んでいなかった。桓武天皇は平城京を捨て、やがて京都の盆地に新しく都を築くのであるが、もう数
	年にわたって「蝦夷地の征服」を発令していたのである。幾人もの将軍が遠征するが、ことごとく蝦夷に敗れて逃げ帰る。
	そんな中、征夷軍大使である紀古佐美が自軍の軍将や軍兵ともども、陸奥の国から逃げ戻ってきた。そして、蝦夷の強さ、
	それを率いている「悪路王」のことが都に知れ渡ることとなった。悪路王、すなわち蝦夷の大酋長「阿弖流為(アテルイ)」
	である。東北地方にあって、大和朝廷に一人立ち向かう阿弖流為のことは、一躍都中の話題となった。
	桓武天皇は、最新の軍事知識に優れていた飛鳥の今漢人(いまあやひと)である坂上田村麻呂を遠征軍副将に命じ、蝦夷地
	征服の準備を始めさせた。田村麻呂はただちに兵士を動員し、近江の山奥を蝦夷地と見立てて兵士を訓練し、今漢人の郷に
	武具の製造を行わせ、道筋に調達した兵器・食料を配備し、三年の歳月をかけて再起を計った。



	794年正月、征東大将に大伴弟麻呂・副将軍に坂上田村麻呂を配した十万余の征東軍が都を出征した。馬上の田村麻呂は
	アテルイに会える歓喜の心を抑えるのに身が震えたと伝わる。同六月に多賀城に全軍が集結するやいなや、田村麻呂は近衛
	兵を先陣隊として蝦夷の奥地へ向けて進撃作戦を始めた。アテルイとの遭遇を胸に秘めて十月まで蝦夷の大地を駆け巡るが、
	とうとうアテルイ本隊に会えないまま、大将の大伴弟麻呂は無念の引き上げを行った。三年の月日と十余万の軍隊と多大な
	出費をして、蝦夷地で得た成果は、斬首約四百六十人・捕虜百五十人・獲馬九十頭であった。延暦15年(796)1月、坂上
	田村麻呂は、陸奥出羽按察使兼陸奥守に任命され、鎮守府将軍をも兼ねた。ここに、征夷大将軍坂上田村麻呂が誕生した。
	時に田村麻呂41歳であった。
 


	801年正月、4万余の軍隊を持って、坂上田村麻呂軍は蝦夷奥地へアテルイとの遭遇を目指して進軍を開始した。田村麻
	呂はもう戻る事は不可能な位置に追い込まれている。アテルイを倒さない限り都へ軍を引き返す事は出来ない。戦に負けれ
	ば全滅を覚悟のなか、胆沢から未知なる原野へ兵を進めた。北上川上流である志波地方を征圧した大和軍勢は、志波城柵を
	築き、胆沢城を頑強にし、ようやく北上川流域の肥大な土地を完全に手に入れた。田村麻呂は、蝦夷人の奴隷化を完全に禁
	止し、北上川流域の肥大なる土地を蝦夷人そのものに与え、大和国から来た移民を優遇はしなかった。更に、蝦夷人の女性
	を狩ったものは死刑に処した。
	それまで、多くの蝦夷人は奴隷として大和の国中へと送り込まれ、特に、蝦夷の女性子供は都近辺へと献上されていたので
	ある。漏れ伝わってくるアテルイの人となりは、田村麻呂をして、自然と蝦夷にたいする態度を変化させていたのである。
	翌802年4月15日、アテルイと盟友のモレは、500人の蝦夷人を従えて多賀城に投降した。北上川の原野で、田村麻
	呂はアテルイと会見し、その人物の大きさと聡明さに感動した。自分の身はどうなってもよいからと、ひたすら蝦夷人の安
	住を願うアテルイに、田村麻呂は全面的に安全を保証したのである。




	アテルイ軍降るの報は、ただちに都へ伝わった。大和政権下における「日本国統一」がようやく達成したのである。「この
	大地に住む者は全て天皇の民(公民)となす」という聖徳太子の悲願が、桓武の御世でようやく実現した。京に着いたアテル
	イとモレは罪人として引き回され、田村麻呂の必死の助命懇願にもかかわらず、貴族たちの要請を受けた天皇の命によって、
	河内国で処刑された。処刑された跡地には、以後数十年間に渡って、蝦夷地で狩られ大和人によって都へ売られた女たちか
	らの献花が絶えることはなかったと言う。



上5枚の写真は、京都清水寺の境内にある「アテルイ・モレの顕彰碑」である。関西の岩手県県人会が建立した。


	■ 平安時代の陸奥の英雄、阿弖流為

	日の国若き時、その東の夷(ひな)に蝦夷(えみし)あり。
	彼ら野に在りて、未だ王化に染(したが)はず。
	山を駆けること禽(とり)の如く、草を走ること獣の如し。
	かの長の名は阿弖流為(アテルイ)。
	帝、これを悪路王と呼び、
	邪しき神、姦(かだま)しき鬼と怖れたり。

	延暦20年(801)、坂上田村麻呂は阿弖流為率いる蝦夷軍との戦いに勝利するが、国府はそのまま多賀城にあった。多賀城
	に赴任した官人には、日本初の産金を進め聖武天皇に献上した百済王敬福(くだらのこにきしきょうふく/けいふく)、万
	葉歌人であり多賀城で没したとされる大伴家持(おおとものやかもち)、平安の宮廷文学に名を残す藤原実方(ふじわらの
	さねかた)、能の「融」で知られる源融(みなもとのとおる)など、そうそうたる名前が見られる。南北朝時代になると、
	多賀城は北畠顕家の奥州小幕府として名をとどめるのみとなり、徐々に荒廃して歴史の陰に埋もれていく。阿弖流為(アテ
	ルイ)没後1200年が過ぎ去った。


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