Music: Beachboy
住吉大社・帝塚山古墳を行く
−郷土の文化財を見学する会 NO.5 −
歴史倶楽部 第37会例会 2000.9.10 −大阪市住吉区−
今回の「郷土の文化財を訪ねる会」例会は、大阪市住吉区の「住吉大社」と「帝塚山古墳」を訪ねる旅である。大阪に長い
こと住みながら「住吉さん」に行ったことが無かったので、東江さんを誘ったら河内さんもついてきた。河内さんも歴史倶
楽部に加入するとの事。よしよし。
大阪難波駅から南海電車で、和歌山市駅行き普通に乗って10分足らずで住吉大社駅に着く。大阪の人には昔から「すみよ
っさん」と呼ばれて親しまれている。戎などは大勢の人で賑わうし、正月三が日の初詣客数は、関西では「伏見稲荷」と毎
年NO.1を競っている。入り口の鳥居付近に集合し、宮司さんの話を聞く。すぐ側をチンチン電車が走っていて、話は殆
ど聞き取れなかった。
一般には神功皇后を祀っていると思われているが、ここの祭神は、第一本宮、底筒男命(そこつつのをのみこと)、第二本
宮、中筒男命(なかつつのをのみこと)、第三本宮、表筒男命(うわつつのをのみこと)である。そして第四本宮が神功皇
后(息長足姫命:おきながたらしひめのみこと)なのだ。
第一、第二、第三の三神を総称して「住吉大神」と呼び、この三神は、いざなぎの尊が黄泉の国の穢れを清めるために、筑
紫の日向の橘の小戸の阿波技原(あわぎはら)で禊祓(みそぎはらい)を行った時に、海の中から生まれ出た神々という事
になっている。住吉大社の縁起によれば、神功皇后が新羅征伐に際して住吉大神をこの地に奉って、自らも第四宮として奉
られた由来が記録されている。
古来より「海神」として崇められ、現代でも日本郵船/大阪商船・三井船舶などの船会社や造船会社からの石灯籠の奉納・
献石などが続いている。
海・船の神様らしく、大阪市平野区長吉長原2丁目の高廻り(たかまわり)2号墳から出土した舟形埴輪が飾ってある。古
代船「なみはや」だ。
反橋。(下右)太鼓橋とも呼ばれる。長さ約30m、幅約5.5m、高さ約3.6mで、現在の石の橋脚は慶長年間に淀君
が奉納したと伝えられる。
五月殿。御田植神事の斎場となる建物で、棟木(下右)は紀伊国屋文左右衛門が渡海した蜜柑船の帆柱と伝えられる。
五月殿のすぐ前にある御撰田。
下は船玉神社。住吉大社が海運保安の神であるのに対して、船玉神社は船舶そのものの霊を祭る神である。造船・海運業者
の崇敬厚く、多くの奉納品がこの神社に納められて居たが、最近不況でそれも少ないと言う。祭神は「猿田彦神」と「天鳥
船神」。
上下が本殿。本殿は第一宮から第四宮まであり、いずれも「住吉造」と呼ばれる様式の建物である。本殿内部は前半を外陣、
後半を内陣として、屋根は檜皮葺の、直線で構成した切り妻。屋根には置千木、と五本の堅魚木を備えている。
下右は住吉御文庫。享保八年(1723)に京都、大阪、江戸の書店主二十名の発起で奉納建てられた蔵書館。大阪最古の図書
館として知られる。
大海神社。「オオワタツミ」とか「タイカイ」と呼んでいる書物が残っている。祭神は「豊玉彦命」「豊玉姫命」。
下左は、かっての「神宮寺」の土塀の跡だという。西の「神宮寺」は徳島県へ移転されたが、東の「神宮寺」は廃屋となっ
てやがて土塀の跡だけが残った。
★ 帝塚山古墳 ★
大阪市住吉区帝塚山西3丁目に所在しているが、現在この古墳は財団法人による所有となっている。
財団法人住吉村常磐会というのがその所有者である。普段は古墳には錠がかかっていて、内部には立ち入れないようになっ
ているが、今日は特別に錠前を借りてきてくれて、内部をじっくり見学する事ができた。
古墳は上町台地の西の端に位置しており、主軸を台地の西側崖の方向にほぼ合致して築造されている。
墳丘規模は、昭和初年の梅原末治氏の調査によって墳丘長約91m、前方部の高さ約8m、後円部の高さ約10m、前方部
が約2mと推測されるが、諸説あり確定していない。周濠は一部分溜め池として残っていたと伝えられる。
発掘調査によって部分的に幅20〜30mの周濠跡が発見されているが、場所によっては周濠跡が発見されない事から、築
造当初から濠は未完成であったとの見方もある。前方部から円筒形埴輪列が検出されている。昭和56年の調査でも埴輪片
が発見されている。
前方部で部分的に葺き石が見られるそうだが、全体を覆ってはいないようである。石室や、石棺などの内部施設、出土遺物
については不明である。また前方部は既にいくらか削り取られているような形状にも見える。
頂上には、明治天皇が大阪演習に来た際ここへ登ったというので、その記念石碑が建っていた。
邪馬台国大研究・ホームページ 古代遺跡めぐり / 住吉大社