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植山古墳(うえやまこふん)
推古天皇&竹田皇子墓か?
奈良県橿原市五条野町 2000.8.27(日) 現地説明会
下は朝日新聞がヘリから撮影した植山古墳の二つの墳丘墓。左が推古天皇、右が竹田皇子の墓(推定)。
(C)Copyright Asahi Shinbun Co., Ltd
一月前に太子町の推古天皇陵を見てきたところだったので、このNewsが飛び込んできた時は驚いた。「えぇ−、ほんまかい
な」と言う感じだった。掘っていたのも当然知らなかったし、確かに「古事記」にも最後の最後で(古事記は推古天皇の埋
葬記事で完結している。)、「墓は初め大野の岡の上にありましたが、後に科長の大陵にお移し申し上げました。」とある。
しかし、そんなことは忘れてしまっていて、「えぇ−、ここが最初の墓かい」とびっくりしてしまった。奈良はほんとに、
何が出てくるかわからない、面白くて怖い所である。
新聞によれば、橿原市教育委員会はここを「推古天皇とその息子竹田皇子(生没年不詳)の初期の墓と推定」していると伝
えている。その根拠は、古墳築造の時期、古墳の位置、そしてその規模である。
<時期> 竹田皇子は587年の蘇我氏・物部氏の争いに、聖徳太子らとともに蘇我氏側に立って戦った。推定没年は590年頃。
20才前後だったと推定される。2つの石室の築造時期は、土器などの出土物と石室の形態などから東側が6世紀末、西側が
7世紀前半と推定され、竹田皇子と推古天皇の没年(628年)に合致するという。学者(和田晴吾立命館大学教授(考古学)
等)によっては、西側の石室は推古天皇の没年より前に築造されている、という意見もあるそうだが、推古天皇が生前から
墓を作らせていたと考えれば問題ないという。
<位置> 「古事記」に言う「大野岡」という所は現在の橿原市には存在しない。「日本書紀」の、蘇我馬子が「塔を大野
岡の北に建てた」という記述と、「元興寺縁起」に馬子が塔を建てたのは「豊浦(とゆら)前」(奈良県明日香村)とある
事から、「大野岡」が現在の橿原市と明日香村の境界付近にあったものと類推され、植山古墳の位置に合致するという。
<規模> 天皇の墓は、6世紀までは大型の前方後円墳だったが、7世紀になると一辺が50mほどの大型方墳に変わる。植山
古墳は長辺が約40m、短辺が約30mの長方形墳だった。すこし小さいが、推古天皇が遺言で「竹田皇子の側に葬るべし」
と言い残したことと、「最初は皇子の墓だったためさほど大きくなかったが、自分も入るため少し広げて長方形になったの
ではないか」、と言う河上邦彦・奈良県立橿原考古学研究所調査研究部長の話を紹介している。
大勢としては、植山古墳を「推古天皇親子の墓」と推定するに大きな反論はないようである。もしこれが「初期推古天皇陵」
とすれば、これまで宮内庁が管理して開けさせないため全く分からなかった天皇陵の内部の一端が、これで少し明らかにな
るのではないかという期待が高まっている。又この古墳にはこれまで見られない、扉を取り付けるための「くぼみ」が掘ら
れた「敷居石」も見つかっており、新たな発見がまた論議を呼びそうである。
現地説明会
畝傍東(うねびひがし)小学校のグラウンドで説明を聞く参加者達。私は10時前に来たのだが、この一群はもう第三団くらいだった。
一通り説明が終わると数百人が一団となって墳丘へ向かう。次の一団は、次の説明会まで体育館で待機していた。
県道(市道?)を5,600mほど行くと、現代の墓地の入り口から階段を上っていく。
登り切った所に墓地があり、その向こうに植山古墳が見えている。
竹の切り株が多数あるところを見ると前は竹林だったと思われる丘陵が、全て掘り返されている。
下左の写真に見えているのが、この前会社員が撮影して内部の写真が公開された
「見瀬丸山古墳」。ここも天皇陵ではないかという声が強い。
西石室(推古天皇墓)
上は、推古天皇墓と推定されている西側石室。竹田皇子の石室と違ってここには石棺はなかった。太子町へ運ばれたのかな。
竹田皇子の石室にあった家型石棺は、遠く熊本県から運ばれた、いわゆる「阿蘇ピンク石」と呼ばれる溶結凝灰岩だという。
熊本から運べるだけの力をもっていたとすれば、これはもう当時の日本でも1,2を争う権力者だったことは想像に難くな
い。しかし、全体を通しての感想は、推古天皇の墓にしては一寸小さいのではないかという気がした。飛鳥の蘇我馬子の墓
と伝えられる石舞台が、ほんとに馬子の墓としたらあれよりも小さいのはおかしいのではないか。いくら皇子と一緒に葬ら
れたいと言っても、あれほどの墓を馬子が築造してそれを見たであろう推古天皇が、自分はもっと小さい墓に入るだろうか。
当時珍しく長期政権で権力も身につけていたと思われる推古天皇が、臣下である蘇我馬子よりも小さい墓に入りたいとは思
わないような気がする。親子の愛情はそんな体裁など気にしない程強かった、と見るべきか、それとも、蘇我馬子はやはり
実質「天皇」と同等の権力を保持していたと見るべきか。
東石室(竹田皇子墓)
以下は本日の説明会資料。(橿原市教育委員会提供)
以下は橿原市のホームページで見つけた、まだ今回発掘される前の「植山古墳」の紹介と写真です。石室の入り口まで竹が生えているのが分かります。
『植山古墳は史跡丸山古墳の東側、谷をひとつ隔てた北西に延びる屋根の南斜面に築かれた古墳です。この古墳の東に接してもう一基あり、両者が接するところでは周濠の一部が共有され、また、墳丘の北背面は大きく掘り込み地業がされるなど、二基でセットをなしていた様子がうかがわれます。
いずれも円墳で、横穴式石室を埋葬施設とするものであるが、明治から昭和のはじめにかけての橿原神宮整備にともなって石室石材の多くが持ち出されたため、東側の古墳石室はなくなってしまいました。幸いに東側の石室石材でほぼ用材の確保がなされたのか、植山古墳では天井が、観察結果から平面形態は両袖式の横穴式石室とみられます。規模については、その大半が埋っているため、確たる数値を求めることができません。現状では、玄室の長さ約3m、幅および高さは約2mはあります。石室の石材は花崗岩の巨石を横に積み上げたもので、壁面は平滑な面が用いられています。
古墳は6世紀後半から7世紀にかけて築かれたと考えられ、また、当市においては数少ない横穴式石室を埋葬施設とする古墳でもあり、将来、整備され、公開の期待がもたれます。』
植山古墳続報! Asahi.com奈良 2000.8.18
植山古墳の東石室にあった家形石棺=橿原市五条野町で
●橿原の植山古墳・研究者「全体保存望む」
まだ、こんなに巨大な石室を持つ古墳があったのか――。橿原市教委の調査で、同市五条野町の植山古墳の二つの巨大な横穴式石室に推古天皇とその息子である竹田皇子が葬られていた可能性が高まり、研究者は興奮している。市教委は同古墳を国の史跡にし、将来は史跡公園などとして活用したいと考えている。だが、史跡の範囲などはまだ決まっておらず、「墳丘だけではなく、周囲も保存して古墳の全容がわかるようにしてほしい」と注文する研究者もいる。
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市教委、整備活用めざす
橿原市川西町の市千塚資料館で開かれた会見には約四十人の記者が詰めかけた。同市の西谷道夫教育長ら五人が会見に臨み、発掘を担当した浜口和弘技師が調査の成果や被葬者像などについて説明した。
同古墳の存在は以前から知られていたが、大きな注目を集めることはなかった。一帯の丘陵を宅地や道路、農地として造成するため五月から発掘調査を始めた。
当初から墳丘は公園として整備される予定だったが、思わぬ「大発見」だけに、市教委文化財課の愛水正睦課長は「大切な古墳なので、当初の計画よりも広い範囲で保存したい」と話す。八日には文化庁を訪れ、国が史跡に指定するよう申し入れた。同市は今後、土地を管理する同市五条野土地区画整理組合と話し合いながら範囲を定め、整備のための検討委員会を発足させたいとしている。
白石太一郎・国立歴史民俗博物館副館長は「今回の発掘で、昔から飛鳥と一体の土地であることが改めて証明された。橿原市は開発が進んでいるため、遺跡が破壊されることが多い。墳丘だけを残すのではなく、古墳の立地もわかるような保存の方策をとってほしい」と話している。(8/18)
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邪馬台国大研究・ホームページ 古代遺跡めぐり /植山古墳