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島の庄遺跡・現地説明会 (蘇我馬子邸宅跡)2 2005.3.12(土) ← 2004.3.13(土)






	
	上の新聞記事を見て、昨年の今頃行った「蘇我馬子の邸宅跡」の近くだなと思っていたら、なんと同じ場所だった。
	今回は、昨年の発掘場所の両側を掘っていたのだ。現地説明会も、前回の続編ということになる。明日香村教育委員
	会が発表したところによれば、蘇我馬子の墓とされる奈良県明日香村の石舞台古墳の西隣にある島庄(しまのしょう)
	遺跡で、7世紀前半から後半にかけての計7棟の建物跡が見つかった。昨年、飛鳥時代の大豪族、蘇我馬子(〜626年)
	の邸宅と天武天皇の皇太子・草壁皇子(662〜689年)の離宮「嶋宮(しまのみや)」の遺構ではないかと言わ
	れたその場所で、さらに新しい建物跡が発見された。



上の写真で、発掘場所の真ん中が埋められているが、ここが昨年掘った所である。今年はその両側を掘ったのだ。





 

嶋宮の一部とみられる建物跡が出土した島庄遺跡(手前、後方は石舞台古墳)

 

 





上をクリックして貰えば、昨年と今年の発掘地図が見れます。

 

	
	昨年3月、馬子の邸宅跡とみられる7世紀前半の大型建物跡が出土した場所で、626年に馬子が死んだ後、孫の入
	鹿が殺害された大化改新(645年)を経て大和朝廷がここを接収し、皇族たちの離宮「嶋宮(しまのみや)」とし
	てその後も栄えたことが日本書紀に記述されている。日本書紀は、馬子の死後も蘇我氏が邸宅周辺を所有したが、滅
	亡後、天皇家が没収して跡地に嶋宮が建てられたと記述しており、トータルでは、島大臣(蘇我氏)の家、中大兄皇
	子の宮殿、天武天皇の皇太子の草壁皇子らが住んだ島宮などが登場しており、島庄遺跡にはこうした有力者の住まい
	が集中していたとみられる。今回の調査で、これらの記述がほぼ実証された形になった。

 



 

 



 

色つきのテープが建物跡である。発掘した時、廻りの土の色と違う部分が柱の跡で、そこをテープでつないである。

 

	
	今回の調査は、昨年3月調査地の南北の隣接地計520平方メートルが調査された。今回新たに出土したのはいずれ
	掘っ立て柱建物跡で、7世紀前半に建てられたものが1棟、中ごろが4棟、後半が2棟。規模は最大で東西9b以上、
	南北6bだった。前半の1棟は昨年見つかった馬子邸跡の南約援b、中ごろの4棟は馬子邸跡の北側に隣接していた。
	前半の1棟は同じ時代の馬子邸の一部とみられ、中ごろの4棟は馬子の子の蝦夷(えみし)か入鹿が建て増ししたと
	の見方もある。



	
	後半の2棟のうち1棟は、中ごろの4棟が取り壊された後、同じ場所に建てられていた。これらは大化改新の後に造
	られた離宮の一部と見られる。大化改新後の蘇我氏滅亡で、馬子邸の広大な土地が天皇家に接収され、嶋宮に移り変
	わる経緯を示すとともに、皇位継承を約束されながら早世した「悲運の皇子」草壁皇子の権勢もうかがえる資料とな
	る。嶋宮の建物跡は最大で、南北3・2メートル、東西4・8メートル以上になり、前回の調査結果を含め、嶋宮は
	南北約100メートル、東西約10メートルの範囲に計5棟が確認されたことになる。ほかに、馬子邸跡1棟、7世
	紀中ごろの建物跡4棟も出土した。4棟の建物跡は、7世紀中ごろに中大兄皇子(天智天皇)の離宮が馬子邸に隣接
	していたとの日本書紀の記述もあり、関連が注目されるが、馬子邸とは向きが違う上、約1メートルしか離れておら
	ず、邸宅としては近接し過ぎとの異論もある。

 

 

 

 

 





	
	草壁皇子は「日並(ひなみし)皇子」と呼ばれ、天皇(太陽)に並ぶとされる一族の中心で、豪族の邸宅を建て替え
	ての離宮整備に権勢ぶりがうかがえる。異母弟の大津皇子というライバルもいたが、天武天皇の死後、大津皇子は謀
	反の疑いで死罪となる。これは、草壁皇子の母(持統天皇)が、我が息子を天皇にしたいが為に仕組んだ陰謀とも言
	われるが、しかし、その直後、草壁皇子も病没し、母が持統天皇、息子が文武天皇として即位した。その後、妻も元
	明天皇、娘も元正天皇へと、草壁皇子一族の皇位継承が続いた。「草壁皇子から始まる皇統は天武、持統天皇が血脈
	を重んじ、天皇中心の政治を進めた末の遺産であり、嶋宮は天皇家が飛鳥の地を完全に支配したことを示す痕跡だろ
	う。」という見方(門脇禎二・京都府立大名誉教授:古代史)はほぼ間違いないだろう。今回と昨年の調査とを合わ
	せて、出土した建物跡は合計15棟になった。



上は昨年と一昨年の発掘現場。また来年もこの近辺をどっか掘るのだろうか。





掘るのです。1年後・・・ 2006年03月08日


	石舞台古墳そばに建物跡 蘇我一族の宿泊施設か 奈良 2006年03月08日19時57分 asahi.com

	
	2棟分の建物跡が見つかった島庄遺跡の発掘現場(上部)と石舞台古墳(手前)。
	画面左が北=奈良県明日香村で、本社ヘリから
 
	 古代の権力者、蘇我馬子(そがのうまこ)(?〜626)の墓とされる奈良県明日香村の石舞台古墳(特別史跡、
	7世紀前半)の隣接地で、建物跡2棟分とみられる柱穴が見つかった。同県立橿原考古学研究所が8日、発表した。
	日本書紀は、馬子の墓を築く際に蘇我一族が現場に泊まっていたと伝えており、その宿泊施設の跡である可能性が
	高いという。一族の紛争の発端になった場所でもあり、飛鳥時代の古墳造営や権力闘争の実態解明につながる新材
	料になりそうだ。 

	 日本書紀には、古墳に関連する建物についての記述は馬子の墓以外にない。一般的に古墳の周辺を調査する例は
	少なく、今回のような遺構が見つかるのは異例という。 
	 県道工事に伴って石舞台古墳の周辺に広がる島庄(しまのしょう)遺跡内の棚田約280平方メートルを調査。
	古墳東側の外堤(推定)から約30メートルの所で計9本の柱穴(直径約20センチ)が見つかり、6本の列(約
	8メートル)と3本の列(約3メートル)に分かれていた。いずれも古墳石室と同じ北北東―南南西の向きに並び、
	7世紀前半の土器が出ており、古墳築造と同時期の2棟の建物跡と判断した。 
	 また、一辺と深さが2メートル近い四角い穴の一部が2カ所で見つかった。それぞれ直径約30センチ、高さ
	10メートル以上の柱が立っていたらしく、儀式や目印に使われたとの見方がある。直径約20センチの旗ざおを
	立てた可能性のある穴や、砂利敷きもあった。 

	 日本書紀は、628年に「蘇我一族が馬子の墓(桃原墓(ももはらのはか))を造るため墓の地に泊まっていた」
	と記述。推古天皇の後継問題を巡って馬子の子の蝦夷(えみし)(?〜645)と対立した境部摩理勢(さかいべ
	のまりせ)(?〜628)=馬子の弟=が「宿泊所をうちこわした」とし、後に蝦夷側に殺害されたと伝えている。 

	現地説明会は11日午前10時〜午後3時(雨天決行)。石舞台古墳西側の芝生広場で受け付け、その後に現場へ
	向かう。 



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