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蘇我馬子邸宅跡・現地説明会 2004.3.13(土)


	
		2004年3月9日付けの各社新聞に「飛鳥京跡で正殿跡見つかる!」という記事が載って、有志で見学に行くことにして
		いたら、見学会の前日、すなわち昨日(3.12)になって、今度は同じく飛鳥で、蘇我馬子の墓、石舞台古墳のすぐ側
		で、馬子の邸宅跡が見つかったと言う。飽くなき権勢欲にとりつかれ、自らの意向に沿わない者はたとえ天皇であろ
		うと暗殺した古代の巨大豪族。蘇我氏族の頂点を極めたが、倅とともにその余りの暴君ぶりに、ついに大化の改新で
		滅ぼされた。その後、その地は朝廷に没収され、天武天皇の一子、草壁皇子の居住地となった。飛鳥京正殿跡を見た
		後ここへ来た。近い。歩いて5,6分のところだが、ここは明日香村教委主催の説明会である。今回も、HPは各社
		新聞記事と説明会場現場写真で構成した。各社記事を読めば、これで貴方も現地説明会参加者だ。











 





 











 



 

 








		とは言っても、やはり現地に行かなければわからない雰囲気というものがある。廻りの地形、迫り来る山並み、その
		中に出現した蘇我馬子の住居跡。馬子の墓とされる石舞台古墳の脇を北東へ行けば、自分を滅ぼした中大兄皇子と中
		臣鎌足が、その策略を練ったと言う多武峰(とうのみね)である。ここで馬子と入鹿がどんな事を話し合っていたの
		か。自分の首を刎ねたいという天皇の言葉をこの屋敷で聞いたのだろうか。想像力は現場を目にすると、否応もない
		臨揚感につつまれて、遥か古代の世界を縦横無尽に飛び廻る。これがフィールド歴史学の醍醐味である。机の上では
		とてもこうは行かない。だからみんなこうやって出掛けてくるのだろう。いい天気で良かった。




















上記をクリックして頂ければ、当日の現地説明会資料−写真−が見れます。


現地説明会資料−本文−








 

 



 

 

ここの石は全くでかい。まさしく巨石である。今更ながらに「一体どうやって」と思ってしまう。

 


		古墳の編年研究によれば、日本で古墳が築造されたのは4世紀頃から7世紀頃までの300〜400年に及ぶ期間のよう
		である。これだけの期間があれば、古墳自体もその製造目的や築造方法、埋葬品など、初期と終末期とではずいぶ
		んと違ったものになっていった違いない。事実、木棺や石棺を直接地中に埋葬し盛り土するような方法から、縦穴
		式石棺墓、横穴式石室、横口式石槨という墓自体の形式の変移や、埋葬品の内容などが初期と終末期では異なって
		いる。一般に古墳時代と呼ばれる時代を、どう区分するかについては学者間で統一されていない。前期と後期、に
		分ける人もいれば、前期・中期・後期とする人、さらには発生期・前期・中期・後期・終末期というように分ける
		人など千差万別である。他にも7時期、8時期に分ける説もあり、こうなると単なるアマチュアである我々古代史
		ファンには、古墳の編年研究などあまり関わりたくない分野のようにも思えてくる。ともあれ、この石舞台古墳は、
		その使用されている巨石の大きさ、石室の大きさにおいて日本屈指の古墳である事は間違いない。大体6世紀頃の
		築造ではないかという意見が多く、一般には「蘇我馬子の墓」として流布されているようである。しかし既に副葬
		品もなく、表土も洗い流されて残っておらず、実の所誰の墓だったのかは永遠の謎である。

 


		上記石舞台散策の写真は、1999.9.26、歴史倶楽部第 24回例会で明日香を訪ねたときのものだが、この時は永遠の
		謎に終わるだろうと思っていたものが、今回の邸宅発見で、「蘇我馬子の墓」であった可能性は俄然高くなったと
		言えよう。






		が、しかし・・・・




		というような意見もあるなか、こんなものも見つかった。・・・・






さらに10年後は・・・・






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