SOUND:Imagine
お越しいただいて、
ありがとうございます。
印鑑は一辺 2.3cmの四角形、台部分の厚さ約 9o。
総高約 22o。重さ 108.7gの純金製(22金)。
福岡市内から来ると、志賀島と福岡市をつなぐ「海の中道」といわれる「砂嘴(さし)」を渡る。もともとは志賀島
は文字通り「島」であったが、長い年月の間に砂の架け橋が掛かってしまったのである。金印の持ち主(?)「奴国
王」の時代には九州とはつながっていなかったのだ。この事は「奴国」と「金印」を考える上で、結構重要なポイン
トのような気がする。
志賀島は周囲11キロ,車で一周約15分ほどの小さいな島で、まだ車の普及していない30〜40年ほど前までは、
もっぱら渡し船が福岡市と志賀島をむすぶ重要な交通路だった。私のwifeは博多の高校に通ったが、志賀島の友人は
船で通学していたそうである。また、昔は近い島の意味で「ちかじま」と言っていたらしいが、次第に音便化して志
賀島(しかのしま)というようになったらしい。全戸数770戸、人口約3000人余りの島である。
志賀島へ渡るとすぐ左右に道が分かれているが、夏の間は海水浴客で混雑するため右廻りの一方通行である。もっと
も、一周する間何台かすれ違ったので、この規制は解除されたか、不埒な奴らが増えたかのどちらかだ。西海岸沿い
に行くと、ほどなく金印公園が見えてくる。右手に車数台が停まれる駐車場があり、海岸の山肌にへばりつくように
作られた公園である。
金印は田畑から発見されたとの事だが、ここが畑とはちょっと信じがたいくらい急斜面だ。石段を上っていくと金印
のレプリカを埋め込んだ記念碑が中央にあり、福岡の地と関係の深かった中国の古代史家で文学者でもあった郭沫若
の詩碑もある。さらに数段上ると、地面に当時の東アジアの国々を示した世界地図があり(方位広場と呼ぶらしい)、
真ん中に金印模型が立っている。
私はこの「邪馬台国大研究」の「研究史邪馬台国(2)」の中で、以前以下の文章を書いた。
天明四年(1784)二月二十三日,筑前の国那珂郡志賀島の或農民から黒田藩に届け出があった。この農民の名は甚兵
衛といい,耕していた田畑から金の印章を発見した,というものであった。
その時の届け書も現存しており,甚兵衛の口上書とそれが間違いないと併記した庄屋武蔵,組頭吉三,勘蔵の名があ
る。この金印発見のいきさつについても諸説あり,甚兵衛の作人であった秀治,喜平の二人が発見したという説もあ
る。印には『漢委奴国王』と刻文があった。発見当時,黒田藩ではこれを儒学者達に鑑定させている。藩校修猷館の
館長・教授達が,数人がかりで出した結論は,漢の光武帝から垂仁天皇に送られた印であり,安徳天皇が壇ノ浦に沈
んだとき海中に没したが,志賀島へ流れ着いたものであろうというものだった。地図を見れば一目瞭然だが,壇ノ浦
から博多湾へ物が流れ着くには相当な無理がある。対馬海流は日本海へ流れているはずであるが,よしんば流れ着い
たとしても,海岸から上陸して畑へ入り,自ら石の下へ潜り込んだとすれば,さすが光武帝の印章だわいという事に
なる。珍説とはこういうのを言うのだろう。金印発見のニュースは,当時としては異例の早さで中央に伝わったらし
い。掘られた刻文の読み方について多くの学者が書き記している。
京都の国学者藤貞幹(とうていかん)は,発見から一月あまりで,委奴は倭奴(いと)であるとしてこれを伊都國
(今の福岡県糸島郡)王が光武帝から授かった金印である,という説を発表した。大阪の上田秋成もこれを支持して
いる。その後も様々な説が現れたが,落合直澄(1840〜91)が明治二十年代に「漢(かん)の委(わ)の奴(な)の
国王」という読み方をあみ出し,三宅米吉がこれを発表してからは,それがほぼ定説となり,現在では金印は,後漢
書・光武帝本紀に書かれている,「光武賜うに印綬を以てす」の一文にあるとおり,漢の光武帝が奴国の王に与えた
印そのものである,という事になっている。発見当時から金印贋作説もあったが,金印論議の中次第に鳴りを潜め今
日に至っている。
その後の研究によれば、最初の金印発見は、甚兵衛の作人であった秀治,喜平の二人という説の方が有力なようだ。
志賀島の「吉祥寺」という寺の古記録によれば、天明四年の項に「二月二三日小路町秀治田を耕し大石の下より金印
を掘出す」とある。また、金印公園の北東に当たる「勝馬」という所の某氏蔵書に、金印が押されて「右之印蓋漢之
光武之時自此方窃到彼所賜之物乎倭奴者非和国之謂而」云々との記述があり、末尾に「志賀島農民秀治・喜平・・自
叶崎掘出」とあるそうだ。
これらから、甚兵衛はその田の持ち主であり、秀治・喜平の2人は小作人かあるいは臨時にその田を耕していた者で、
発見した2人が百姓「甚兵衛」のところへこれを持っていったものと言うことのようである。当時の志賀島村庄屋武
蔵は「志賀島村百姓甚兵衛申上る口上之覚」という甚兵衛の口上書一札とともに郡役所に届け出ている。
金印は、奉行の津田源次郎を通して黒田藩漢学者の亀井南冥に鑑定が依頼される。南冥は後漢書の中元2年(AD57)
1月の記事として光武帝が倭国から来た使者に金印を授けたという記事があることから、
(「建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使人自称大夫倭国之極南界也光武賜以印綬」)その印であろうと鑑定する。
亀井は金印を家宝にしたいと考え、郡役所に15両で買いとりたい旨申し出るが許可されなかった。では100両出
そうと言ったため、郡役所はそんなに貴重なモノなのかと、さきの甚兵衛口上書を添えて黒田の藩庁に届け出た。
藩庁では直ちに亀井南冥ほか修猷館教授ら数名に金印の考証をさせるとともに、甚兵衛には白銀五枚を与えて金印を
黒田家所有とした。以来、黒田家の家宝として庫裡深く所蔵されて、明治になって国宝に指定され昭和29年の再指
定で改めて第1級の国宝となり東京の国立博物館に保管されていた。その後昭和54年、黒田家から福岡市に寄贈さ
れ、市博物館の開館とともに一般公開されている。実物は、「あっ、こんなに小せぇのか!」と驚く。
目の前に能古の島(のこのしま)が見える。変な呼び名の故に、神話に言う「おのころ島」だという人がいる。入
道雲が湧いてまさしく日本の夏である。
昭和48年に九州大学が、平成元年と5年に福岡市教育委員会が出土地付近の調査を行ったが、金印に関係する新
たな遺構は何ら発見されなかった。また古記録の再調査でも、出土地や発見者について再び疑義が提議され、金印
を巡る謎は今日でも解決されていない。
一番の疑問は何故ここ(志賀島)にあったのか?という疑問である。「後漢書」「魏志倭人伝」が伝えるところの
「奴国」は、今日では現在の博多湾岸を中心とする福岡市北部であろうという事に落ち着いているが、当時島だっ
た志賀島でなぜ発見されたのか?
この疑問についてはいくつかの説がある。
(1).「隠匿説」− 倭国大乱のあおりで、金印は隠されたと言う説。
(2).「遺棄説」− 同様に、何らかの原因で棄てられたとする説。
(3).「墳墓説」− 奴国王の墳墓ではないかとの説。
(4).「王宮説」− 奴国王の王宮が近くにあったのではないかとする説。
(5).「金印偽作説」 − 金印そのものが、後世の偽物であるとする説。
(3).(4)については、今のところ周辺で何ら遺構らしきものが発見されていないから可能性は低い。島に王
宮はないだろうし、墳墓にしても船で行くようなところには葬らないだろうと思われる。(5)は可能性が残るも
のの、新たな文献でも発見されない限り論評は進まない。やはり一般に言われるように、可能性が一番高いのは、
(1) か(2)だろうと思われる。後に続く「倭国大乱」を考えると (1)の可能性が高い。
方位広場
Wifeの妹の娘(義理の姪)が付いてくるというので一緒に来たが、暑くてげんなりしていた。
幾つか海水浴場を通り過ぎたので「泳ぐか?」と聞いたら「灼けるから嫌!」だって。
金印公園から車でちょっと行くと、元寇ゆかりの蒙古塚がある。駐車場らしき空き地の端に石碑がいくつかならん
でいる。その脇から上へ上っていくのだが、同行したwifeと姪がグズるので階段を上るのはやめにした。ここは、
1274年「文永の役」の時、捕虜となった蒙古兵(半分は都(京都)へ護送され、残りはここで処刑された。)、流
れ着いた蒙古兵の供養のために建てられたものである。
「蒙古」で思い出したので以下の小文を掲載する。これは私が時たま投稿している郷里のBBSで、教科書問題を
議論した時のものである。「もう、中国・韓国に対して謝るな!」「すべて忘れて新しい関係を築こう」という若
い世代(おそらく10/20代?)にたいして返答したものである。
歴史教科書問題2 投稿者:井上筑前の守 投稿日: 7月15日(日)15時32分05秒
3年2組さん、こんにちは。
あなたの意見はよく分かります。こういう立場の人は最近増えていますよね。私自身、そう思う箇所も幾つかあり
ます。
しかし問題は、「同時代」という事だろうと思います。日本人による戦争犯罪は確かにありましたし、私の生まれ
た長谷山でも、中国人の首をはねたのを自慢していたおじさんが、私が子供の頃までいました。被害者、或いは被
害者の家族がまだ生きている、という事は大きな問題じゃないでしょうか?
元寇の時、中国人モンゴル人達が対馬や壱岐の人々に対してした事は、日本軍が中国大陸でしたことと変わりませ
ん。目玉をえぐり、生きたまま手の甲や腕に釘を打ち付け、船縁にズラリとぶら下げて博多湾にやってきた事は書
物に書かれています。しかしそれはもう歴史上の出来事です。元寇を盾に、モンゴルに対して「謝れ、賠償しろ」
という人はいないでしょう。しかし中国大陸では、目玉をえぐられた人が、つい最近まで生きていたし、その家族
はまだ生きています。アメリカ兵が、あなたのお母さん妹を犯し、爺さん婆さんを撃ち殺してアメリカへ帰ったと
したら、あなたはアメリカへ飛んでいってもそいつを殺したいと思いませんか?
確かに政府間交渉では、問題はもう解決したかに見えます。これ以上、どうやって謝れと言うんじゃ! という気
持ちも分かります。しかし、殴った事は忘れ、「水に流して仲良くしよう」と言っても、殴られた方はニコニコ笑
って「わかった、そうしよう」と言うでしょうか。
>>中国・韓国にいつまで詫びつづければ良いのでしょうか?
この質問については、私は「関係者が死に絶えるまで」、と思っています。つまり歴史上の出来事としてほんとに
忘れ去られるまでの期間、我々は我々のしたことを忘れてはいけないし、忘れるべきではありません。あと100
年くらいはかかるでしょう。
立場を変えて、一度じっくり考えてみてください。
http://inoues.net/
島の先端部近くのカフェでアイスコーヒーを飲んだ。テラスから夏の能古島が見える。ほんとに今年は暑い夏だった。
金印・資料編
2005.March
贋作説は、発見当時は盛んだったが一時なりを潜めていた。しかし次第に、同様の印鋳の出土例が無いことから、
再び贋作の可能性がささやかれていた。しかし、昭和31年(1956)、中国雲南省の石塞(せきさい)山で発見
された前漢時代の「■(てん)王之印」が、蛇鈕金印であったことから疑義は四散し、さらに昭和56年(1981)、
江蘇省の甘泉2号墓で発見された「廣陵王璽(こうりょうおうじ)」は、亀鈕金印であったが文献により西暦58
年に廣陵王に下賜されたものであることが判っており、これは奴国王に金印が下賜された翌年で見て頂いてわか
るように、規格、字体、印文、装飾と、何から何までそっくりだった。大きさは0.47mm奴国王のほうが大きいだ
けであるが、ほとんど一緒である。ここへきて贋作説は消滅し、この印がまさしく漢の光武帝からの下賜品だっ
たことが明らかとなった。
上記「口上書」で見たとおり、黒田藩の公式書類に書き留められた金印の発見者は「百姓甚兵衛」である。しか
し不思議なことに、甚兵衛がほんとに実在していた人物なのかは怪しい。第一に、当時の志賀島村の寺の過去帳
には甚兵衛の名前が無いのである。また当時の田畑の所有者を記した「田畑名寄帳」にも甚兵衛の名はない。
第二に、代々志賀海神社の宮司であった阿曇家の古文書には、金印は農民秀治が掘り出した旨の一文があり、更
に当時の博多聖福寺(日本で最初の禅寺とされる。)の住職で、洒脱な禅画で知られる仙崖和尚の書幅にも、「
志賀島の農民、秀治、嘉平、叶崎より掘り出す。」とある(上図)のである。1970年代、二松学舎大学の大
谷光男氏が現地調査でつかんだこれらの事実は、各方面にショックを与えた。
平成6年春から秋にかけて、福岡市教育委員会は志賀島の全島調査を行った。それまでの調査による遺跡分布地
図をもとに、遺物の表面採集と散布範囲の確認、周辺海域の海底地形と地層の探査も行った。島内4ケ所の金印
出土推定地に何本もトレンチ(試掘溝)が入れられたが、これまで行われた最大規模の調査だったにもかかわら
ず、結果として、金印出土に関する遺跡・遺物の発見は何ら得られなかった。
多くの関係者の期待を集めたにもかかわらず、叶崎でも叶ノ浜においても、まったく人為的な遺構は出なかった。
今回の調査での新しい発見は、勝馬地区から出た、上記の中津宮古墳の発見だった。以前から弥生土器・土師器
などが出土する事が知られていたが、今回島で始めて古墳が発見された。
積石塚古墳という、四国の瀬戸内海沿岸、玄界灘一帯に広く分布する特徴的な古墳で、竪穴式石室を持つ。
この石室からは、須恵器などの杯、耳環(大小9点)、ガラス製の菅玉やビーズ玉などが出土し、豪華な埋葬だ
った。もともと志賀島の中心はこの勝馬地区であり、志賀海神社も3世紀頃はここにあったとされている。
甚兵衛の口述書では、その発見の状況は積石塚古墳からではないかとも取れ、新たにさまざまな推測も生んでい
る。しかし、九州大学の西谷正教授が言うように、「遺跡は既に海に洗われて消滅した」可能性もある。
何故志賀島から?という大きな命題とともに、その出土状況、発見人物、刻印字の読み方等々、まだまだ謎ばか
りの金印ミステリーと言える。金印は謎をいっぱい残しているのである。
ご覧いただいて、
ありがとうございました。
邪馬台国大研究・ホームページ / 遺跡巡り / 金印公園