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芝丸山古墳
東京タワー直下の古墳
2004.3.6 東京都港区芝公園4丁目
東京都港区芝公園。東京タワーから見下ろせる芝公園の中に、5世紀後半築造と考えられている前方後円墳「丸山古墳」があ
る。明治時代の有名な人類学者で日本考古学会の草分け的な存在である、東京大学の「坪井正五郎」が発掘・調査したことで
知られている。この周辺にはかっては11基の円墳を従えていたとされ、昭和33年に周辺が大規模開発されるまで、まだ数
基が残存していたという。今はこの「芝丸山古墳」と、すぐ近くの港区三田にある「亀塚古墳」が残るのみである。ちなみに
「亀塚古墳」を調査したのも坪井である。
地下鉄千代田線の「芝公園」駅で降りて振り返ると目の前に東京タワーが見える。芝丸山古墳はそのすぐ下、芝公園の一角にある。
「B4」の出口から出ると芝公園の南口に出る。その西側に「芝丸山古墳」がある。古墳の麓には縄文後期の「丸山貝塚」が
あり、説明板が立っている。その説明板の脇から古墳へ登っていく。東京市街地では、登れる前方後円墳はここぐらいしかな
いそうである。
貝塚の脇を登ると平たい小さな広場にでる。ここも丸山古墳の一部だが、長い間に広場になってしまっている。右の方に「円
山随身稲荷大明神」があり(下右)。その脇に古墳の標柱と説明板が立っている。
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「芝丸山古墳」 港区芝公園4−8 前方後円墳 都指定史跡
全長106m、前方部幅40m高さ6m、後円部径64m高8m、くびれ部幅22m、
出土物: 埴輪(円筒・人物)片
古墳の状態: 半壊。後円部墳頂に埋葬施設があったと推定される。
築造時期: 5世紀後半
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武蔵国では、6世紀はじめに多摩川流域に古墳が造られなくなると、北武蔵の荒川流域に埼玉古墳群が出現する。「日本書紀」
安閑紀にいう「武蔵国造の乱」によって、武蔵国の主権は南武蔵の多摩川流域からの北武蔵の埼玉古墳群へ移ったといわれる
が、多摩川沿岸の田園調布の古墳群に先立って、芝丸山古墳が荒川水系の河口にあたる東京湾に面する台地上に作られている。
東京湾岸にいた南武蔵の豪族が、多摩川沿岸に移住した可能性もある。多摩川流域は、4世紀代後半の宝来山古墳を初めとし
て、武蔵国南部最大の古墳密集地帯となっているが、芝丸山古墳、上野公園内摺鉢山古墳、渋谷区などの古川流域、足立区内
の毛長川流域、葛飾区内の中川・江戸川流域などの、低地に面した武蔵野台地の縁辺部に、6世紀代の古墳が多く分布してい
る。都心部や東京低地部では、まだ未確認の古墳があると言われ、それらは主に丘陵上の、創建年代の古い神社の墳丘上に立
地しているのではないかと考えられているようである。
墳頂に登る。すっかり平らになっていて、古墳と言われなければ分からないかも知れない。
しかし前方後円墳と分かっていれば確かにそう見える。
前方部の端の方に虎の石像が鎮座している。何だ? と思って見てみると、「関ヶ原の策士」と異名を取った政治家「大野伴
睦」の句碑だった。何でこんなところに。「揮毫・文:鳩山薫」となっている。歌人でもないただの政治家の句碑がこんな所
にあってもいいのだろうか。なんか職権乱用のような。
前方部より後円部を望む。奥の方に少し見えているのが、有名な伊能忠敬測量偉功表の碑(下)である。ランニングのおっさ
んが、サーキット・トレーニングをやっていた。
後円部の伊能碑の脇から東京タワーを見ながら下へ降りてくる。下からみても小高い丘で、とても古墳には見えない。
芝丸山古墳を降りて地下鉄の駅へ向かうときの光景(下)。どこのビルかは知らないが、まるで青空にペタリと貼り付けたような図だ。
芝東照宮
古墳から地下鉄の駅へ向かう所にあるのが芝東照宮。梅が賑やかに咲き誇る。地下鉄「芝公園駅」の真上である。隣は芝ゴル
フ、増上寺、東京プリンスホテルと並んでいる。東照宮という名の通り、徳川家康を祀っている。四大東照宮と云われるのが、
日光・上野・久能山と、ここだそうだ。家康は死に臨んで、遺骸はふるさと駿河の久能山に葬る事、日光には小さな祠を建て
てそこに自分を祀る事、そこで関八州の鎮護府とならん、などと言い残して死ぬが、1年もたたないうちに遺骸は掘り起こさ
れて日光へ移される。移送の行列は3,000人に及び、2ケ月経って日光へ運ばれたそうである。この移転を巡っては、怪
僧「天海和尚」の策略との見方が強い。
寛永18年に3代将軍家光が植えたと伝えられる大銀杏の大樹。都の天然記念物に指定されている。周囲6.5m。300年
も経った銀杏には見えないような気もする。
摺鉢山古墳
上野公園内の古墳
2004.3.16
出張の帰り時間があったので上野に古墳を見に行った。10日前の出張時東京タワーに行って、この分だと他にも都心に遺跡
がありはしないかと探したら、上野公園に摺鉢山(すりばちやま)古墳というのがあると資料にあったので早速寄ってみた。
ポカポカ陽気に誘われて、まだ桜の季節でもないのに大勢の人で賑わっていた。この公園はいつも人が一杯だ。
言われなければここも古墳とは分からない。小高いタダの丘である。中央の木の後ろ、小高い丸山が前方後円墳らしい。
ホームレスのオジサンに付いて石段を昇っていくと、平らな後円部の墳頂に幾つかベンチが置いてある。
墳頂から反対側へ降りてくると、上野公園の管理事務所があって、その脇に台東区教育委員会が立てた摺鉢山古墳の説明板がある。
説明板と、管理事務所で貰ったB4・1枚のコピーによれば、「芝増上寺の裏手にある円山古墳と同じ系統のもので前方後円
墳である。」とある。同じ系統というのはどういう意味なのかよく分からないが、相当古い資料のようで、ここにいう芝増上
寺の裏手にある円山古墳、というのが10日前に見た「芝丸山古墳」だろう。
「上野公園は、東京の数条の丘脈のうち一番突端にあたり、海抜17mの台地である。先史時代には海水がその裾を洗ってい
たらしく、貝塚も残り、その分布が当時の海岸線を示している。「東京人類学雑誌」にはその貝塚の分布図が掲載されていて、
上野の台地の崖際には貝塚遺跡が続いている事が記されている。未発見のものや、既に消滅し記録されないものも在ったこと
を考えると相当数の貝塚が在ったことが想像できる。海産の貝があるので、その昔ここまで海水が浸食していた事、つまり崖
際が海岸線であった事の証拠となる。」と資料は記述している。
一体いつ頃の古墳なのかは資料にないが、前方後円墳と言うことが確認されていれば、少なくとも初期の古墳ではなさそうで
ある。上野公園内には他にも幾つかの古墳があったようである。摺鉢山、三宜亭横の小さな丘、美術館脇の小丘、国立博物館
内の丘、表慶館の場所などが古墳として挙げられているが、これらの古墳はもうその原型はとどめていない。その中でも摺鉢
山古墳は都内屈指の古墳だったようで、発掘当時、直刀やその他多くの副葬品が出土したと記録されている。それらは今どこ
にあるのだろうか。管理事務所のおじさんは、台東区教育委員会に行けば何か詳しいことが分かるかも知れないと、わざわざ
地図をくれて場所まで教えてくれたが、そこへ寄っている時間は無かった。
後代になって古墳の上には五条天神が建てられたが、それは寛永寺創建の時、上野の山から外へ移され、その後に清水観音堂
が建てられた。摺鉢山は今はもう形も崩れ、墳頂に登っても古墳の面影はないが、ここを天神山と呼ぶ所に、五条天神が在っ
たことの証拠が残っているし、古墳の側面に残る石垣の残骸は、これらの建物があった時代の遺物なのだろう。
下は西郷さんの銅像を背にした位置から見た摺鉢山古墳の全景。これを見て前方後円墳という人はいないかもしれない。この
古墳や芝の丸山古墳を築いた人々は、多摩川流域の古墳時代人とはどういう関係にあったのだろうか。時代的には古墳時代中
期から後期にかけての時期ではないかと考えられるが、その当時の東京には、あちこちに、起源を西に持つ古墳を築く集団が
いて、各部族間での闘いが日夜繰り広げられていたのかもしれない。
新幹線の時間を待つ間、ぶらっと東京駅の八重洲側を歩いてみたら、こんな看板が立っていた。
鍛冶屋があったなどとはとても信じられない。
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