平城宮跡の第367次発掘調査で、称徳天皇の大嘗祭に使われた大嘗宮と見られる建物跡が発見された。367次という発掘 回数にも驚嘆するが、今頃になってそんなものが出てくるというのも驚きである。古代の文献は、ほんとに事実を忠実に記録 している点にも大いに驚かされる。
大嘗祭(だいじょうさい)は、即位式(践祚)と並ぶ天皇の皇位継承儀礼で、原型は、古代に民間でも行われていた農耕儀礼、 新嘗の祭りと言われている。それが一世一代の公式皇位継承儀礼となるのは、天武・持統朝だったというのが最近の学説であ る。天子が年毎の稲の初穂を皇祖神に供えて共食する祭りを新嘗祭(にいなめさい)といい、それとほぼ同じ内容を、天子一 代に一度の大祭として行うのが大嘗祭である。古くはこの祭りによって新に天皇の資格が完成するとされていたようで、「新 嘗」と区別した語としての「大嘗」は、日本書紀、天武2年(673)の条にみられる。 大嘗祭は次第に荘厳化されていき、貞観儀式(じようがんぎしき)、延喜式(えんぎしき)、江家次第(ごうけしだい)など によると、 (1).即位年の4月,悠紀(ゆき)国・主基(すき)国(悠紀・主基)の卜定。(稲穂耕作の田を選定) (2).大嘗祭の年8月,大祓(おおはらえ)。(おはらい) (3).9月,悠紀・主基両国の神田からの抜穂。(稲刈り) (4).10月,天子の御禊(みそぎ)。(みそぎ) (5).11月上旬,大嘗宮の設営。(共食のための館建立:今回の発掘で見つかったのはこの建物跡と考えられる。) (6).11月の中の寅の日,鎮魂祭(ちんこんさい)。(地鎮祭) (7).同卯の日の夜半より翌朝まで,大嘗宮の儀。(共食の夜明かし) (8).同辰の日,辰日の節会(せちえ)。 (9).同巳の日,巳日の節会。 (10).同午の日,豊明(とよのあかり)節会。 と数ヶ月にわたって行われるが、この祭りの核心をなすのは(7)大嘗宮の儀である。天子はそこに来臨している皇祖神、天 照大神(あまてらすおおかみ)と初穂を共食し、かつ祖霊と合体して再生する所作を行う。聖別された稲を食することで天子 は国土に豊饒を保証する穀霊と化し、さらに天照大神の子としての誕生によって天皇の新たな資格を身につけたものと考えら れる。この儀式は天皇家に伝わる「秘儀」とされ、一般にはその詳細は知りがたいが、学者達はその内容について、ほぼ上記 のような推測を立てている訳である。昭和天皇が逝去したあとを受けた平成天皇もこの儀式を行った。僅かに公式に撮影を許 された数枚の写真から、様々な推測が立てられていた事は記憶に新しい。また、一天皇家に伝わる儀式なのに、国家予算を使 ってそれを行うのは「信教の自由」を保証した憲法の精神に違反すると、当時、キリスト教を初めとする宗教団体からの抗議 も相次いだ。
大嘗宮は、黒木(皮つきの丸木)で新造された悠紀・主基の両殿から成り、それぞれに同じく「神座(かみくら)」「御衾(おぶす ま)」「坂枕(さかまくら)」などが設けられて、悠紀殿、主基殿の順で天子による深更・徹宵の秘儀が行われた。また大嘗祭の 施行は、新天子の即位が7月以前ならばその年に、8月以降ならば翌年に行うことを例とするが、これはこの祭りが稲の生育 ・収穫に時を合わせているからで、ここにこの祭りの農業祭的性格の一端がある。つまり記紀神話にいう「豊葦原瑞穂国(と よあしはらのみずほのくに)」の豊饒霊たるべく天子みずからの行う死と復活の儀式が大嘗祭であり、それは村落レベルでの 稲の収穫祭を、宮廷も採用した政治的セレモニーでもあったのである。8世紀以後の大嘗祭は、次第にその儀礼性を高めてゆ くが、王権の衰退とかかわりつつ、16世紀初頭の後柏原天皇のときに中絶、17世紀末の東山天皇の際に復活、更にその後 の中絶をへて、18世紀中葉の桜町天皇のときに再興され、明治、大正、昭和、平成の現代に至っている。
平成天皇の即位の礼・大嘗祭をめぐる儀式は平成2年1月23日午前、皇居内での宮中三段での「期日奉告の儀」に始まっ た。 ここでの写真・文章(黒字体)は全て、1990年12月1日毎日新聞社発行、毎日グラフ緊急増刊「平成即位の礼」(上写真)か らの転載である事をお断りしておく。 天皇陛下が即位の礼と大嘗祭の期日を神前に報告するこの儀式を皮切りに、12月まで計28の即位関連行事が続く。その多 くの儀式は事実上の神事であり、政教分離の原則から、即位の礼を除く大嘗祭はじめ諸儀式は全て皇室行事となったが、平成 元年12月に公表された政府見解では、「宗教上の儀式としての性格を有すると見られることは否定できない」としながらも、 「皇位の世襲制をとる憲法下では国も深い関心を持たざるを得ない」と公的性格を認めて、その費用を公金(皇室の内廷費で はなく宮廷費)から支出することを決定。象徴天皇の即位の式典ながら、基本的に明治時代の登極令に沿うことを前提にして いるため、賛否の議論を根強く残したまま日程は進行した。平成2年12月22日から23日にかけて大嘗祭は挙行された。 尚この大嘗祭の模様は取材も含めて報道を差し止められている。