Music: All my loving
釈迦堂遺跡博物館
2000.6.4(日)山梨県勝沼町・一宮町


 


	博物館は、山梨県東山梨郡勝沼町藤井・同東八代郡一宮町千米寺地内にあって、甲府盆地を一望のもとに見下ろす、京戸川
	扇状地のほぼ真ん中に位置している。この扇状地上には既に約15000年前から先土器時代の人々が生活しており、縄文
	時代には数千年に渡って人々が集落を営んでいた事が明らかになっている。この博物館はまさしく遺跡博物館であって、釈
	迦堂遺跡からの出土品のみを展示している。屋外の「縄文の森公園」には遺構の復元模型も2,3展示されている。

	釈迦堂遺跡は、中央自動車道建設に先立ち、約22ケ月にわたって延べ2万人以上の参加者を得て発掘調査が行われた。発
	掘は昭和55年2月、一宮町千米寺塚越北A地区から開始され、続いて同B地区、勝沼町藤井三口神平(さんこうじんだい
	ら)地区、同釈迦堂地区、宮町野呂原(のろのはら)地区へと進められた。その結果、先土器時代から平安時代にいたる遺
	構や遺物が出土したが、なかでも縄文時代の遺構・遺物は極めて豊富で学術的価値が高く、この博物館を「縄文博物館」と
	して特徴づけている。

	釈迦堂遺跡群の縄文早期末から中期に至る住居跡や土抗などの遺構と、そこから出土した多量の土器などの遺物から、この
	時代の集落の構造やその変遷が明らかにされた事は特筆に値する。また、釈迦堂遺跡から出土した1,116個の土偶は、
	一括して国の重要文化財に指定されたが、我が国出土の土偶総数約15,000個と比べた時、一遺跡からこのような集中的な出
	土が見られたこと、しかもその全ての出土状況が明らかなことは、極めて大きな学術的意義を持っている。縄文土器も豊富
	に出土しており、復元された土器だけでも約1200点にのぼっている。


 






	釈迦堂では全体で1200個以上の土器が復元されており、縄文遺跡の中では全国でも有数の量と言える。古くは早期末
	(約6200年前)から、前期(6100〜4800年前)、中期(4800〜4050年前)後期初頭(約3800年前)
	のものまであり、特に中期のものは出土量が多く、また全形式が揃っている。
	これらの土器は内部にこげた跡があることや、外側が二次的に火を受けて焼けていることから、主として煮炊きに用いられ
	た消耗品であると思われる。中には大人一人でも持ち上がらないような大型の土器もあるが、これら大型の土器は、ドング
	リのアク抜きやイモ類の煮炊きを大量に行っていたのではないかと推測される。共同で作業を行っていた事の証明でもある。
	基本的に、狩猟採集民族であった縄文人の食糧の大部分は植物性の食べ物であった。これらは煮炊きしないと食べられない
	ようなものが多く、土器が使われるようになったことで食生活は豊かになり安定していったと考えられる。


 

 

 




	縄文土器には実に様々な紋様や装飾が施されていて、美術的にも目をみはるものがある。もともと煮炊きをする道具である
	土器に、ここまで装飾を施す事の意味は一体何であろうか。 紋様も多岐に渡り、人体やカエル、ヘビ、イノシシなどの具
	体的な紋様や、英語のアルファベットに似た抽象的な文様などが土器の表面を飾り、把手などに表現されている。それらの
	文様には縄文人が考える神話的な世界が表現されているのだろうか。だんだん装飾性が増してくるようにみえることから、
	装飾の一番優れた者は集落で尊敬を勝ち取っていたのか、とも思えるし、或いは誰の土器かがわかるように競って独特な文
	様を施したとも考えられる。




上記人型はカエルという見方もある。

 

 

 

 

 

 




	釈迦堂では1,116個もの土偶が出土している。全国で出土した土偶数の1割に当たる量であり、縄文前期のものが7体、
	後期のものが1体、後は全て中期という際だった特徴を見せている。そして量もさることながら各種形態の土偶があること
	も特色である。この遺跡は、その製作方法が分かること、1個の土偶がバラバラにされはるか離れた所で見つかるなど、土
	偶の研究上欠かせない遺跡となった。
	土偶とは、言ってしまえば縄文時代のひとがたの土製品である。早期(約9000年前)に関東地方に現れ、ついで近畿地
	方にも見られる。前期になると、東日本一帯でみられるようになる。中期になり、釈迦堂遺跡を初めとする中部地方でも盛
	んに土偶が作られる。後期になると各地でさまざまな土偶がみられ、九州でも東日本の影響を受けたような土偶が作られる。
	晩期に再び東日本で盛んに作られるようになり、東北地方「亀が岡遺跡」の「遮光式土偶」は世界的にも有名である。

 


	土偶は何のために作られたか?

		(1).子供のおもちゃ 
		(2).装飾品 
		(3).女神像(生殖、豊饒、繁栄を祈る。) 
		(4).病気・障害・傷害・災害等の依代(よりしろ:身代わり)
		(5).埋葬品 
		(6).宗教的儀式の祭具 
		(7).護符(ごふ:守り札) などの諸説があるが、

	場所・場面によりこれらの目的は全て正解なのかもしれない。乳房、臀部、妊娠線、などが協調されている土偶は安産のお
	守りとも考えられるし、バラバラにされた土偶(この遺跡では殆どがそうである。)は依代なのかもしれない。土偶を使用
	して様々な祭祀の進行が進められたとも考えられる。

	この遺跡の土偶は、わずかな例を除きバラバラな状態で出土した。どれをとってもくっつくものは殆ど無い。推測するに、
	むりやり解体され方々にバラまかれたもののようである。比較神話学者の「吉田敦彦」氏は、インドネシアに伝わる「ハイ
	ヌウェレ」女神神話との共通点を指摘する。この神話は、体から食物を吐き出してくれた女神が殺されて、バラバラにされ
	た体をあちこちに埋めたところ、そこからそれぞれ違った食物の芽が出てきたというものである。つまり、女神の像である
	土偶を壊し破片にして埋めるという祭祀が、今から4500年前の縄文時代中期に盛んに行われていたのではないかと考え
	られ、そうすると、縄文時代は狩猟と採集の時代ではなくて、ある程度農耕を行っていた精神的にも豊かな社会であったと
	も考えられる。

 




	土偶の顔だけ集めてみると、笑い顔、泣き顔、怒り顔、ビックリ顔、とぼけ顔、つり顔、たれ顔、ぎょろ目、おちょぼ口な
	ど色々な表情がある。顔にイレズミを施したものもあり、ヘアースタイルも様々で、耳にピアスをしているものもある。釈
	迦堂遺跡では約180点の顔の土偶が出土しているが、あどけない子供の顔と思えるものが多数あり、遥かな昔からの、子
	供にかける親の思いが伝わって来る。

 



 




	縄文人の服装・髪型・装身具などを復元するわずかな資料として土偶もある。土偶はディフォルメされている部分が多く、
	そのまま復元できるとは限らないが、多くの土偶に共通な部分を調べれば、おおまかな縄文時代の生活様式を復元できる。


 








	今から約4500年前の縄文時代中期は縄文文化の最盛期とも言える。特に甲府盆地を中心に中部地方でも、華麗で大型で
	豪快な土器が作られていた。このあたりは落葉広葉樹の森が広がっており、その森にも豊かな恵みがあった。縄文人が動物
	性食品ではなく、木の実などの植物性食品を主食としていた事は今や常識である。トチやドングリなどはアク抜きの技術も
	確立され、安定した食糧が確保できたのが縄文時代中期であった。

 

 


	イノシシは縄文人にとって特別な動物だったらしく、土器のモチーフにも多く用いられている。特に土器の把手(とって)
	などにその頭部が表現されている。そのモチーフは、縄文時代前期に突然現れ、いったん無くなり中期初頭から再び使われ
	るようになる。釈迦堂遺跡では中期のものが殆どである。イノシシは他の動物と比べると、食べておいしく、又なにより子
	供を沢山産むので、縄文人にとっては大切な動物であったと思われる。縄文時代の狩猟のもう一つの対象であったシカは、
	肉は勿論骨や角、皮などもよく利用されているが、何故か土器や土偶には殆ど使われていない。縄文人の価値観が推測でき
	てはなはだ興味深い。


 


	縄文人の主食は、クリ、クルミ、トチ、ナラ、ドングリ、シイなどの木の実やイモ類だった。発掘調査で、大量の木の実や
	食べかす、殻などが見つかっている。花粉から、当時この遺跡の廻りにどんな植物が生えていたのかも分かっている。ドン
	グリ類の他に、エゴマ、ニワトコ、サルナシ、ヤマブドウ、キイチゴ、ヤマグワ、ゴボウ類なども沢山見つかっている。
	クルミ、クリなどは生でも食べられるが、他の多くの木の実は水にさらしたり、煮沸などのアク抜きが必要である。アク抜
	きのために大量の土器が作られたと考えられる。エゴマはシソの一種で、油分が強くパン状の炭化物にも含まれていたので、
	食用にされたことは確実である。ニワトコ、ヤマブドウなどは酒作りとの関連も考えられる。

 

 


	打製石斧は、斧といっても現代で言う斧ではなく、上の写真に見られるように木の先に取り付けて、主に土掘りの刃先とし
	て使用され、特に消耗度の激しい道具であったと思われる。この遺跡では3000個以上が数えられるが、破損した石斧が
	1軒の竪穴住居跡にまとまって捨てられていた例もあり、縄文人達が日々石器作りに励んでいた事が窺える。石を打ち欠い
	て作られた打製石斧とそれを丁寧に磨いた磨製石斧とがある。この石器は縄文時代中期になると関東甲信越・中部地方で爆
	発的に作られ使われている。この事から、この時期にイモ類を大量に消費する生活が始まったのだろうとする意見もある。








中期の石匙は粘板岩などの比較的柔らかい石を用いた道具で、植物採集や粗い調理に用いられたものと思われる。




	幾つかの縄文遺跡で見られる事であるが、発見される石器や土器がえらく遠方の地方から運ばれてきた場合がある。我々の
	想像以上に、縄文人の行動範囲は広かったのである。徒歩しか移動手段の無い時代に、数百キロを移動していたというのは
	全く驚異である。


 



 

落とし穴は、弥生時代・古墳時代になっても各地で発見される。食文化ばかりでなく、生活様式もその源は縄文時代にある。









 



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