Music: I saw her there

横浜・三殿台遺跡 よこはま・さんとのだいいせき 2001.9.1




	横浜市営地下鉄を「蒔田」(まきた)駅で降りる。歩いて15分とパンフにはあったが15分では着かない。20分以上歩
	く。「岡村小学校」の上に遺跡はあるので、ここを訪ねて行けばいいだろう。廻りは商店・住宅が密集している。




	どんどん高台へ登っていき、丘の一番高いところに遺跡がある。近くに貝塚もあるので、おそらく「縄文海進」の時代には
	ここらまで海だったのだろう。その後、弥生、古墳時代となってからは、見晴らしのきく高台にそのまま住み続けたに違い
	ない。

 


	【史跡:三殿台遺跡について】(資料館パンフより転載)

	三殿台遺跡は、東京湾に面し東西に連なる標高50 m程の丘陵上の一つで約10,000uの独立丘ともいえる小高い平坦な部分
	に位置している。南は根岸湾に注ぐ裸馬川の谷筋で、北側は大岡川の河口部へ連なる谷頭に接している。かって、丘の周囲
	を取り囲む斜面には、広範囲に貝塚が点在しており、これら貝塚群の存在は、明治40年代に、縄文時代後期(約 3,500年
	前)の貝塚として。「屏風ケ浦村貝塚」の名称で紹介され、貴重な遺跡として研究者に注目されていた。
	その後、小規模な発掘調査が何度も行われたが、遺跡全体の調査に至らぬまま、周囲の宅地化により、次第に昔の姿を失っ
	ていった。
	昭和30年代に至って、横浜市史編纂のため、若い研究者グループが実施していた市内遺跡の分布調査によって、この遺跡が
	縄文時代の貝塚群だけでなく、貝塚を形成した人々の集落が台地上に構築されていることが予測されることになった。
	すなわち、弥生時代中期・後期(約2300年前〜約1900年前)や、古墳時代(約1700年前〜約1300年前)の遺物が採集され、
	今まで気づかなかった縄文・弥生・古墳の三時代に亘る集落跡の存在が推測され、従来にましてこの遺跡の重要性が立証さ
	れた。

	しかし、昭和36年度にこの台地は、東側に隣接する岡村小学校の校地拡張予定地として市有化され、整備工事計画が具体化
	される事になったため、それに先立ち故和島誠一氏(元:岡山大学教授)を調査団長とし、多数の専門学者が主体となって
	大規模な調査団が編成され、昭和36年の夏、三殿台遺跡の全面発掘調査が実施された。
	その結果、 250戸を超える竪穴住居跡や、膨大な出土遺物によって、特に弥生時代の集落跡としては、極めて価値高いもの
	であるという、学術的にも重要な成果が得られた。このため、これを知った各方面からの要望を受けて、昭和38年この遺跡
	を永久保存することが確定し、昭和41年4月2日、国の史跡に指定された。以来、その後台地の北側に建築された「横浜市三
	殿台考古館」(昭和42年1月31日開設・市営)とともに、一般に公開されて今日に至っている。








	遺跡の門を入って数段の石段を登ると、草原が広がっている。ここに、弥生時代には何十軒もの家が立ち込めていたのだ。



 

 


	復元住居は、一番手前が弥生時代、奥に縄文・古墳と復元してあったのだが、みんな同じ(時代の)ものと思って弥生時代
	のものしか覗かなかった。
















	四角く白い標識で囲ってある部分が古墳時代の住居跡。下右の写真の奥の方に、「よこはまみらい21」のビル群が小さく
	見える。

 

下左の小さな丸い円が縄文時代の建物跡である。標識の杭の頭が赤く塗ってある。

 

下右の奥にある白い建物が考古館(資料館)である。こじんまりした10畳くらいの部屋だった。

 

 








	管理棟のおじさんがやってきて解説してくれたところによると、こういう形で(覆い屋を造って)遺跡を保存した、日本で
	最初の遺跡だそうだ。

 



上手前の方が炉の跡だそうだが、ちょっとよく分からなかった。



遺跡の一番奥から入り口方面を見たところ。後ろは崖で下に小学校の施設があった。








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