昭和39年、神戸市灘区桜ヶ丘町の山中で、土砂を採集中に14個の銅鐸と7本の銅戈が発見された。銅鐸とは鐘に似た構 造で、最初は内部につり下げた舌によって単音を出す楽器であったと考えられるが、次第に大型化し、祭祀用として用いら れるようになった。紀元前3世紀ごろから400〜500年にわたって製造され、近畿圏からの出土が多い。かっては九州からは 出土しなかったため、銅矛文化圏、銅鐸文化圏などと区分されたが、近年九州からも出土例が増え、鋳型も発見されだした ことから、銅鐸の起源も九州ではないかと論議を醸している。 銅鐸は、ムラごとに1個ずつを持ち、収穫祭でその年の豊作に感謝し、翌年の豊作と大猟を祈願して打ち鳴らされたと考え られている。桜ヶ丘から出土した銅鐸のうち2個には、カメやクモといった小動物のほか、狩猟する人や杵をついている人 などの図柄が描かれている。これらは伝香川出土とされる、東京国立博物館蔵の銅鐸とともに、現存する日本最古の絵画と いわれ、出土から40年経過した今もわが国の考古学を語る上で重要な役割を果たしている。
処女塚古墳等を見た後、再び阪神電車の石屋川駅へ戻り、ここから石屋川を遡って「桜ヶ丘遺跡」のモニュメントを見に行 くことにする。
こんな都会でもイノシシが出没するとは! 歩き出してすぐ、団地の角に「徳川道起点」という説明板があった。
この角が起点だ。「徳川道」の存在など初めて知った。さすが「幻の道」である。よほどの歴史通でなければ知るまい。
石屋川沿いは公園になっており、連休で何組かバーベキューをやっていた。その側には「バーベキュー禁止」と書いてあっ たが。その途中にあった「石屋川隧道」の記念碑。日本で初めての鉄道トンネルだと言う。今は鉄道も全て高架になってい る。
「高羽」の交差点。この角に遺跡のモニュメントがある。実際に銅鐸が発見されたのはここからさらに1.5kmほど行っ た山中だったが今は団地の下になったので、ここに記念碑を建てている。
Dotaku(Bronz Bell) No.4 Excavated from Sakuragaoka,Kobe 総高42.2cm、重量3.27kg 身の両面の四区画内に絵画文をもつ。魚をくわえた水鳥、三匹の動物とアメンボウ、I(アイ)字状金具をもつ人物、弓を持 ち鹿を捕らえている人物などが突線で鋳出されているほか、すそ部に親子の鹿の列が見える。よく似た 絵画文をもつ下の 5号銅鐸とともに国宝に指定されている。
現在の神戸市東部概ね東灘区、灘区の地域は、六甲山の南麓にあって南に大阪湾を控え、気候温暖で、古代人も早くから住 み着いたものと思われる。縄文時代の石匙が山麓の井戸田遺跡で、楕円形押型文土器片や早期の住居跡も発見されている。 東の芦屋市には朝日ケ丘遺跡、山芦屋遺跡など住居跡があり、石鏃類が出土している。また灘区都賀川合流点近くに縄文時 代工房跡が発見されており、これらは縄文時代からの人の住んだ痕跡である。
弥生時代になると遺跡は一層濃密に分布していて、高地性遺跡と目される芦屋市会下山遺跡、灘区の伯母野山遺跡のほか、 東灘区では保久良神社遺跡、金鳥山遺跡、荒神山遺跡など多くの遺跡が知られる。山麓部にも住居跡が少なくなく、農耕生 活も営まれていた。青銅器の出土も多く、桜ヶ丘遺跡のほか、東灘区では渦ケ森(ウズガモリ)、本山町森、同町中野、本 山南町から計4個の銅鐸などが出土している。芦屋市打出でも銅鐸が、保久良神社では銅戈がみつかっている。兵庫県は全 国でも最も銅鐸の出土数が多い県で、このうち旧摂津国にあたる阪神地域では26個も発見されていて、青銅器の宝庫とも いえるが、まだまだ多くの青銅器がねむっている可能性もある。
古墳時代に入ると集落も増え、古墳も多く築かれた。御影町の処女塚古墳、岡本のヘボソ塚古墳、住吉宮町の東求女塚古墳 などの前期古墳、後期には住吉宮町遺跡に住吉東古墳(帆立貝式古墳)をはじめ40基以上の方墳、さらに横穴式石室を持 つ群集墳が多数築造されている。