内部は当然撮影禁止だったが、禁止でなくともあまり写らなかったかもしれない。それほど暗く壁画も色あせていた。発見 当時の色合いはもう実物ではお目にかかれないそうだ。 ボランティアのおじさんが説明してくれなければ文様もそれとわからないし、保存のための柱や照明器具等がじゃまして、 あまりよく見えなかった。保存の為には仕方ないのかもしれない。その為資料館を建てレプリカで再現しているのだろう。
発見当時の色合いのままを再現した古墳内部のレプリカ。デジカメでもフラッシュをたかないと暗かったので、禁を破って ここではフラッシュの力を借りた。それにしてもあざやかな文様である。現代のデザインとしても十分通用しそうな感じだ。 全くすばらしい。
出土品及び石室の形状等から見て、王塚古墳の築造は6世紀初期〜中頃だろうと推定されている。この時代、近畿地方では 蘇我氏や物部氏など豪族間抗争のただ中であり、北九州においては筑紫の国造磐井が反乱を起こしたり(527年)していた。 墳丘は全長68mと推定され、後円部の高さは約 9.5mあり、遠賀川流域では最大規模の古墳である。この古墳を一躍有名に したのは何と言っても石室内の壁画である。見ていただいたようにその装飾のきらびやかさは見る者を驚かす。
各地の壁画に用いたと思われる顔料が展示してある。全国の古墳で用いられている色は 現在確認されているもので、赤・黄・白・緑・青・黒の6色であるが、この王塚古墳で は、青を除くすべてが使用されており、各地の装飾古墳の中でも最も多くの色を用いて いる。ベンガラ、黄土、海緑石、マンガン系石などがその材料であるがどうやって文様 を描いたのか、又何を使用して壁に粘着させたかなどについてはまだ判明していない。 おそらく植物或いは動物の脂を顔料に混ぜて膠着させていたものと思われる。 又、緑の海緑石は、通常石炭の地層に多く含まれている事から、炭田地方であるこの流 域ではこの岩床が地表に露出していたのではないかとも考えられている。 またこの古墳文様の多種でも有名である。今の所日本一の文様の多さを誇っている。騎 馬像や鞍、盾、弓、刀など意味のはっきりしたものも多いが幾何学的・抽象的な文様も 実に多い。同心円紋や三角紋、わらび手紋、円紋、双脚輪状紋(わっか状の模様に二本 の足のような模様が出ている。全国的にもきわめて珍しく、現在の所4基の古墳が確認 されている。)これらの文様は石室内の至る所に施されており、前室、後室(玄室)の 前後左右の壁(石積みの部分も含む)にこれでもかと思うほど描かれているが、その並 び方に規則性や対称性などはないようである。つまり悪く言えば書きなぐっているのだ。 しかし全体的に眺めると、死後の世界でも寂しくないように死者の魂を慰める為ハデハ デに飾り立てたような気がして、そこに古代人の優しさが感じられるような気もするの だ。
王塚古墳は昭和9年に発見されるまで未盗掘だったため豊富な副葬品が出土した。その数は100点を超えている。出土品 はすべて重要文化財に指定され、実物は京都国立博物館に保管されている。この装飾古墳館に展示されている約20点の出 土品はすべてレプリカである。出土品で一番多かったのが馬具類で、鞍、輪鐙(わあぶみ)、轡(くつわ)、杏葉(ぎょう よう)などがあり、その造りの精密さ、豪華さは日本でも有数のものとされている。武具以外にも、鏡(変形神獣鏡)、土 器、武具・武器類も多く、又鏡とともに菅玉、棗玉、切子玉、丸玉、耳輪、銀鈴などの装飾品も数多く出土している。土器 はその多くが須恵器であった。
一昔前の多くの遺跡がそうだが、私財をなげうって文化財の保存につとめた人たちがたくさんいる。この遺跡もそうである。 炭鉱会社の執拗な圧力にも屈せず、文化財の価値を守り通した人たちの勇気と不屈の精神にはほんとに頭が下がる。下右写 真の右端が西村氏。