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忍路環状列石/音江環状列石  2000年 11月2日/11月3日 


岬の石を組んだ 忍路(オショロ)環状列石 北海道小樽市 11月2日


	小樽・余市の間はストーン・サークルの密集地帯である。中でも忍路(オショロ)環状列石は江戸時代から知られている。
	文久元年(1861)に初見の記録がある。動物学者の渡瀬荘三郎が、明治19年(1886)に「人類学会報告」(第1巻1号)に
	発表して有名になった。渡瀬は、石を環状に並べた遺構をイギリスのサークル・オブ・ストーン(現ストーンヘンジ)に類
	似するものと考え、「環状石籬」(かんじょうせきり)とよんだ。籬(り)とは垣根の意味である。以後しばらく、ストー
	ンサークルの和訳は「環状石籬」が使われることになる。今回訪問は出来なかったがすぐ近くの縄文後期の忍路土場遺跡か
	らは、膨大な遺物が出土しており、このストーン・サークルと関連のある集落だろうとされている。石材はその一部を、余
	市町のシリバ岬一帯の柱状節理の輝石安山岩に求めており、縄文人達もその岩を柱と見なしていたらしい。

 




	忍路環状列石遺跡は、国道5号線を、小樽市街を抜けて西へ10kmほど行ったところにある。タクシーの運ちゃんが、「確
	かこの辺りだったけどなぁ」と入り込んだ集落をうろうろする。「忍路環状列石」という張り紙が目についたので近寄って
	みると、「資料が要る方は中村さん宅にあります。」と書いてあったが、中村と書かれた家は誰もいないようであった。板
	戸が打ち付けられており、もうここには誰も住んでいない。(後で資料を見ると、遺跡の保護と顕彰に努力され多大の功績
	があった中村子之吉氏のお宅だったようである。)

	大きな標識が目に入ったので、それにそって進むと農道から20mほど入ったところに遺跡があった。ストーン・サークル
	がむき出しである。結構広い。資料では、南北33m、東西22mの楕円形である。環状列石はその用途をめぐって、発見以来さ
	まざまな説が飛び交ったが、現時点では古代の共同墓地という事に落ち着いているようだ。

 


	小樽市の資料では大規模な墓の一種と記載されている。縄文後期(約 3,500年前)の区画墓とある。縄文中期頃から、生活
	の場とは区別するため、東北や北海道では墓の上に大きな石をのせたりしているが、このストーンサークルもそういった墓
	の一種と推定されているのだろう。古くから知られているため多くの人の手が入っており、はっきり墓と断定できる材料は
	残っていなかったようである。昭和36年国指定史跡となっている。
	近くでは、地鎮山のストーン・サークル、余市町西崎山のストーン・サークルが有名で、地鎮山のストーン・サークルはあ
	きらかに墓の様相を呈しているようなのでここも墓で間違いないのかもしれないが、この大きさは、私には墓以外の何か他
	の目的があったのではないかという気がするのである。

 



●問い合わせ先 小樽市教育委員会社会教育課文化財係(0134-32-4111)


	北海道は何処でもそうだが、交通路に苦労する。バス便はあるようだが便数が少ないし、JRの列車数も東京大阪に比べた
	らまるで過疎地である。人口から言えば仕方がないのだろうと思う。私がバス会社の経営者でも、この地では利益を挙げら
	れる自信はない。従って移動には勢いタクシーとなる。小樽から乗って、手宮洞窟−忍路環状列石−フゴッペ洞窟と廻って
	貰ったタクシーの運ちゃんは、私が小樽のいわゆる観光地を全然指定しないので不思議に思ったのか、伊藤整の文学碑に寄
	ってくれた。伊藤整は知っていたが小樽の人とは知らなかった。小学校(中学校だったかな?)の同級生達が建てたという
	碑が小樽湾を見下ろす丘の上に立っていた。

 







北斗七星をかたどる 音江(オトエ)環状列石 北海道深川市 11月3日


	昨夜小樽で、フェリーで車を運んできたWIFEと落ち合って今日は足が出来た。(私は遺跡を見るため1日早く小樽に着いて
	いたのだ。と言ってもフェリーは舞鶴から小樽まで30時間もかかるので、家を出発したのはWIFEの方が先だったのだが。)
	今日は富良野までの予定だが、途中深川市の「音江環状列石」に寄った。
	国道から少し入ったところに「史跡音江環状列石」の碑があるが、注意していないと見落としてしまう。狭い路地を入ると
	「碑」と教育委員会が作った図入りの解説板が立っている。その前に小道が坂の上へ続いている。車はここまで。整備され
	た坂道を500mほど上っていく。

 



   

丘の上にたどり着き振り返ると深川町の原野を見下ろす。北海道はほんとに広い。

 


	オキリカップ河流域を望む稲見山という丘陵地にこの環状列石はある。かってこの遺構はチャシ(砦)と考えられていたが、
	調査の結果縄文末期の墓である事が判明した。丘陵の北側と南側に墓域があり、北側の11基の環状列石はあたかも北斗七
	星のように並んでいると資料にあったが、現地を見てもよく分からなかった。南側には方形の土塁で囲まれた3基の墓壙が
	確認されている。墓壙からは、ヒスイ玉、黒曜石の鏃(やじり)、朱塗りの弓などが出土している。昭和26年から31年
	に渡って発掘調査が行われ、昭和31年に国指定史跡としての指定を受けた。

 

開けた林の入り口から10mも進むと、地元新聞社の建てた「碑」と再び教育委員会の説明板が見えてくる。

 






	この遺跡は、東京大学文学部駒井和愛博士(常呂遺跡の項、参照)によって、昭和27年(1952)から4回に渡って発掘調
	査が行われた。その結果、それぞれの列石の下に墓溝を持つ、縄文時代後期中頃(約 3,500年前)の墓であることがわかっ
	た。この発掘で11号と名づけられた墓穴の北東隅からは、ヒスイの飾り玉17個、その脇から石鏃(せきぞく)と朱塗りの
	弓が出土した。詳細な報告書は、駒井博士により1959年「音江」と題して東京大学文学部より刊行されている。









 

●問い合わせ先 深川市教育委員会(0164-26-2343)



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