2003年の暮、ネットで知り合って何度かお会いした東京の久保田さんから、来月1月10日に新年会をやるので来ませ んかとお誘いを受けていた。久保田さんは、「国分寺友の会」というのをやっていて、最初3人だった仲間が次第に増えて、 今度初顔合わせをやるのだそうだ。私は行けるかどうかわからなかったのだが、運良く東京へ行く用事が出来たので参加さ せて貰うことにした。新年会は夕方なので、その前に東京の遺跡を幾つか案内しましょうと仰って、最初に連れてきて貰っ たのがこの古墳だった。地元では、昔から大塚山の名で呼ばれていた古墳である。
久保田さんが30分100円の有料駐車場に車を入れる。玉川野毛町公園の看板を見て古墳を目指す。公園には野球グラウ ンド、プールやテニスコートなどもある。駐車場を出て、野球グラウンド脇の道を進むと左手にウサギやキジなどの飼育小 屋がある。その先に、小高い小山が現れる。これが帆立貝式の前方後円墳「野毛大塚古墳」だ。石柱が立っている。何枚か 写真を撮り、ボール投げをやっている親子づれの脇を古墳の円墳に沿って歩くと、復元埴輪を並べた「造り出し」と古墳の 「前方部」が見えてくる。最初、あまり前方部らしくないので、造り出しが二つもある珍しい古墳だなと思っていた。しか し考えてみれば、そんな古墳には今までお目に掛かった事はない。後円部の大きさに比べれば非常に小さい前方部だ。前方 部は前端の幅約28m、高さ約2mで、後円部に比べて極端に小さく、かつ低い。こんな前方後円墳は近畿にはないと思う。 前方部のすぐ脇には長さ、幅とも約10m、高さ約1mの「造り出し」があるが、前方部が小さいのでなにか奇異な感じが する。造り出しが二つあるという印象のほうが当たっているような気がする。
平成元年から、公園整備のための学術調査が始まり、多くの成果が得られた。墳丘は、築造当時の姿に復元され、平成5年 に公開された。大型の帆立貝式古墳の復元は、全国初の試みだったという。平成2年以来の発掘調査で、三段築成の帆立貝 式前方後円墳で、ふき石が施され、4つの埋葬施設を持つことが判明した。段築の各テラスには、朝顔形埴輪、円筒形埴輪 のほか、柵形埴輪や家、盾、鶏、壷の埴輪が出土している。 古墳の周囲は最大幅約13m、深さ約2mの空濠で馬蹄形に囲まれている。墳丘は平坦な地面に盛土をして築かれていて、 前方部は1段、後円部は3段である。その表面は全て多摩川の河原石を使った葺石で覆われていたそうだ。幅約3mのテラ ス部分と後円部、および前方部の頂点には、円筒形埴輪と朝顔型円筒埴輪による埴輪列が、造出部には柵形埴輪がそれぞれ 巡っていた。他にも、家、盾、鶏などの器物や動物などをかたどった形象埴輪が置かれていた。また濠の中からは、本来、 墳丘の上に立てられていたと思われる埴輪や、高坏などの土器が出土した。
この古墳は、多摩川支流の谷沢川が国分寺崖線に切れ込んで侵食した、等々力渓谷の脇に位置している。現在は公園の一部 として、前方部と作り出し部の葺石が復元され、複製の埴輪が並べてあり、付近には10基ほどの小円墳の他、御岳山古墳、 狐塚古墳、八幡塚古墳などの中型円墳が連なり、田園調布古墳群に連なる野毛古墳群の一つである。ここから丸子川に沿っ て大田区田園調布付近までは古墳が多く、この二つの古墳群を併せて「荏原台古墳群」とも呼ぶ。この後、多摩川台公園の 田園調布古墳群も久保田さんに案内して貰うのだが、その古墳群の中では、宝来山古墳や亀甲山古墳がもっとも古く、それ らは大和朝廷の影響が強く認められると資料にある。宝来山古墳は4世紀末、亀甲山古墳は5世紀前後、野毛大塚古墳は5 世紀始め、御岳山古墳は5世紀中頃となっていて、その頃の関東には、既に大和朝廷の力が及んでいたのかのような表現だ が、私は疑問に思う。私見では、関東平野の「古墳時代人」たちも大和朝廷と覇を争っていた渡来人の集団ではないだろう か。最終的には、大和の軍門に降ることは歴史が証明しているが、少なくともこの古墳に葬られた武人達の頃は、まだまだ 板東の大王として大和勢力と戦っていたのではないだろうか。だからこそ、ヤマトタケルは必死の覚悟で東国遠征に来る必 要があったのだろうと思う。
東京都指定史跡 野毛大塚古墳 所在地 世田谷区野毛一−三六 指 定 昭和五十年二月六日 野毛大塚古墳は全長八二メートル、後円部の高さ一〇メートルの帆立貝式の前方後円墳で、前方部に近接して小さな造出部 が付設されている。墳丘の周囲には馬蹄形の周濠が掘られており、周濠を含めた全長は一〇四メートルである。三段に構築 された墳丘は全体が河原石で覆われ、円筒埴輪がそれぞれの段にめぐらされている。 後円部頂上には四基の埋葬施設があり、中央に粘土に包まれた割竹形木棺、南東側に箱式石棺、北西側に二基の箱形木棺 が納められている。割竹形木棺からは甲冑、刀剣、鉄鏃などの武器・武具類、鉄鎌、銅鏡、銅釧、玉類、石製模造品、竪櫛 などが、箱式石棺からは刀剣、鉄鏃、玉類、石製模造品などが、二基の箱形木棺からは、刀剣、鉄鏃、鉄鎌、石製模造品、 玉類などがそれぞれ出土している。 野毛大塚古墳は関東地方の中期古墳文化を代表する五世紀前半に築造された古墳である。出土した多量の武器・武具類や 石製模造品は、この古墳が南武蔵の有力な首長墓であることを示している。 平成五年三月三十一日 建設 東京都教育委員会 文化財を大切にしましょう
東京都教育委員会が立てた説明板にあるように、野毛大塚古墳は全長82m、後円部の高さ10mの帆立貝式の前方後円墳 で、前方部に近接して小さな造出部が付設されている。墳丘の周囲には馬蹄形の周濠が掘られており、周濠を含めた全長は 104mである。三段に構築された墳丘は全体が河原石で覆われ、円筒埴輪がそれぞれの段にめぐらされていた。後円部頂 上には四基の埋葬施設があり、中央に粘土に包まれた割竹形木棺、南東側に箱式石棺、北西側に二基の箱形木棺が納められ ている。割竹形木棺からは甲冑、刀剣、鉄鏃などの武器・武具類、鉄鎌、銅鏡、銅釧、玉類、石製模造品、竪櫛などが、箱 式石棺からは刀剣、鉄鏃、玉類、石製模造品などが、二基の箱形木棺からは、刀剣、鉄鏃、鉄鎌、石製模造品、玉類などが それぞれ出土している。以下の資料で見て頂いておわかりのように、これらは近畿圏の古墳から出る副葬品と比較しても全 く引けを取らない。それどころか、主体部を4つも持つ古墳など近畿にもあまりないのではなかろうか。
第一主体部は、長さ約8mの割竹形木棺を包む粘土槨で、質量ともに豊富な副葬品が出土している。特に、三角板革綴衝角 (しょうかく)付胄と、長方板革綴短甲、頸甲、肩甲がセットで出土している事は驚きに値する。貴重なものというより、 何か特別な、大和朝廷にも匹敵するような集団の存在を暗示させる。あるいは大和朝廷そのものかとさえ思うような立派さ である。 又、剣とともに直刀(ちょくとう)が出土しているが、剣よりも直刀の数が多い事も注目される。埋葬者が武人として卓越 し、軍事力にも優れていたことは明白だ。第二、第三、第四と、主体部の副葬品は小規模になり、第四主体部に至っては、 槍、直刀それぞれ1本、石製丸玉2個という、第一主体部と比較するとみすぼらしい位の副葬品になる。これは何を現して いるのだろうか。世田谷区資料館と大田区の資料館で買ってきた資料によると、大和朝廷に取り込まれていく様が窺えると いう記述があり、毛野国、埼玉行田市の「さきたま古墳群」との関係も認められ、次第に武蔵の国(広義の関東平野)の勢 力が南から北へ移っていって、府中に国府が置かれることで、関東を大和の支配下に置く行程が終了した、という事になる ようだ。
資料によれば、武蔵の国南部(南関東)では最古の古墳は大田区の宝莱山古墳で、4世紀前半の築造という事のようだ。そ の次が、同じ大田区の亀甲山古墳でこれが4世紀末から5世紀前半とされる。野毛古墳群はその後の時期に作られ始めたら しく、多摩川上流へ移ってくる。野毛大塚古墳はその古墳群の中でも代表的なもので、形は帆立貝式の前方後円墳になって いる。時期は5世紀前半から中葉といわれる。野毛大塚古墳は、甲冑のセットや、鏡、直刀、玉類など、様々な副葬品が出 土していて、いかにも古代国家揺籃期である古墳時代を象徴している。第一主体部から出た甲冑が関東地方で一番古く、そ こから畿内との関連が言われているようだ。野毛大塚古墳調査会の報告書(第4〜6次調査概要1992)には、 「野毛大塚古墳はその卓越した規模と内容からみて、多摩川下流の大田区宝莱山古墳、亀甲山古墳、及び港区芝丸山古墳等 の前期の大型前方後円墳の系譜を継ぐ南武蔵の最高首長の墓と考えられる。その墳形がノーマルな前方後円墳から帆立貝式 前方後円墳に変わったのは畿内王権による規制によるものと見ることができよう。(略)この変化は南武蔵の首長の畿内王 権との関係がルーズな従属的同盟関係から、より緊密な臣従関係に変わったことの現れであろう。」 とある。
この古墳に関しては以下のような話も残っている。 明治30年(1897)に、この大塚から石棺が見つかりました。その時、下野毛の青年が奇妙な死に方をし、たたりにあったと 言う噂が広がりました。また、一人、青年が血を吐いて死に、もう一人は狂ってしまいました。死んだ青年の弔いに立ち会 った者までが、頭痛を訴え、寝込むありさまです。村の世話役で名主の新兵衛は、これはただごとではないぞと、二人の青 年について家族に心当たりを聞いてみましたが、これと言う答えがありません。次の朝、新兵衛は思い当たることがあって、 大塚へ行ってみると、狂った青年がそこで汚れた手を合わせて何かさかんに唱えていました。近づいてみると、塚から血の ような朱がべっとりににじんでいるではありませんか!「ばちあたりめ、塚を掘ったな!」と新兵衛が言うと、青年は正気 に戻って「おらだけでない、死んだ平吉も掘ったんだ」と答えました。「盗んだものをもとに戻したのに赤い血が吹き出て、 土をかけてもかけても、止まらない。だからお祈りしていたんだ」と。 新兵衛が塚の穴を土で固めると、赤い血は止りまし た。ふと見ると、今まで横にいた青年がいません。新兵衛が家に帰ると、青年の母親が来て、息子が血を吐いて死んだと知 らせました。騒ぎ収まった頃、村人たちは鎮魂のため古墳の頂に吾妻神社を祀りました。 この時の、明治30年出土の人骨・直刀・甲胃・勾玉や斧・坪などの石製模造品は、上野の国立博物館が所蔵していると言う。
世田谷区は、都内でも有数の遺跡密集地であり、その分布は、区内のほぼ全域に及んでいる。時代的には約3万年前の石器 製作跡から近世の大名陣屋にいたるまで、ほぼ全時代の遺跡・史蹟がある。特に水利に恵まれた多摩川沿いの国分寺崖線上 は、居住するのに適していたとみえ、多くの遺跡が確認されている。廻沢北遺跡・下山遺跡・嘉留多遺跡の石器製作跡(旧 石器時代)、稲荷丸北遺跡・瀬田遺跡の貝塚(縄文時代)、堂ヶ谷戸遺跡の環濠集落(弥生時代)、野毛大塚古墳・御岳山 古墳・喜多見稲荷塚古墳(古墳時代)、下山遺跡の横穴墓・火葬墓(奈良・平安時代)、世田谷城址、奥沢城址(室町時代)、 喜多見氏陣屋跡(江戸時代)などが主なものである。 こと古墳時代に限って見ていくと、板東平野(東京・埼玉)には多くの古墳が所在し、大きく二つの地域に分かれている。 まず4世紀から5世紀初め、武蔵の南、多摩川の中・下流域(南武蔵)に大型の前方後円墳がつくられ始め、それはその形 が畿内の古墳に似ていて、副葬品も畿内との関連を窺わせるものが出土している。そこから大和政権と何らかの形で交流を 持っていたのではないかと推測されている。 主要な古墳を築造年代(推定)順に並べると、 宝莱山古墳(4世紀後半 東京都大田区 前方後円墳) 砧中学校七号墳(4世紀末 世田谷区 前方後円墳) 亀甲山古墳(4世紀末〜5世紀前半 大田区 前方後円墳) 野毛大塚古墳(5世紀前半 世田谷区 帆立貝式前方後円墳) 御岳山古墳(5世紀中頃 世田谷区 円墳) 5世紀中ばには、古墳のなかった荒川流域の埼玉地域に古墳が出現する。金象嵌入りの鉄剣で有名な「さきたま古墳群」の 「稲荷山古墳」はこの時期の築造とされる。同時に南武蔵からは前方後円墳が消滅し始める。 <さきたま(埼玉)古墳群(埼玉県行田市)> 稲荷山古墳(5世紀末 前方後円墳) 丸墓山古墳(6世紀前半、円墳) 二子山古墳(6世紀第1四半期 前方後円墳) 鉄砲山古墳(6世紀第3四半期 前方後円墳) 将軍山古墳(6世紀第4四半期 前方後円墳)など。 7世紀に入ると全国的に大型古墳は減少し、各地で群集墳が増加し横穴墓が出現する。これは「大化の薄葬令」の影響もあ って大型古墳をつくる勢力が消滅し、大和政権の影響がようやく関東にも波及した証拠なのだろう。この頃、大和政権の地 方支配の役所である「国府」が、多摩川中流域の「多摩郡」(現在の府中市)に置かれた。
刀剣類230本が出土 世田谷の野毛大塚古墳 5世紀の東日本解明へ 日本経済新聞1992年9月22日 ==================================== 東京都世田谷区にある5世紀前半の野毛大塚古墳から約230本の鉄製の刀剣類が出土した、と21日同区教育委員会が 発表した。東日本では、これまでに数本の鉄製武具が出土した例はあるが、1カ所からこれほど大量に見つかったのは初め て。 発掘調査団長の甘粕健新潟大教授は「出土した攻撃兵器の保有量は当時としては群を抜いている。この古墳に埋葬された首 長集団の軍事力は東日本でトップクラスに位置付けられる」としており、ナゾに包まれた東日本の5世紀を解明する上で貴 重な手掛かりになりそうだ。 発表によると野毛大塚古墳は前方後円墳で、今回出土したのは後円の墳頂の地表から約40センチの場所。遺体埋葬用の木 棺が置かれていた「主体部」(長さ約4.2メートル、幅0.8メートル)から鉄製の鏃(やじり)約200本、短剣・直 刀約30本が発見された。直刀は長さ約90センチ、短剣は約45センチ。保存状態は比較的よく、直刀の中には刀身だけ でなく木製のさやの一部も残っているものもあった。甘粕教授は、これらの出土品から「被葬者は大豪族の側近で軍事を担 当者だったのではないか。親衛隊長のイメージだ」としている。
毛野(けぬ)と野毛(のげ) 南武蔵(東京の世田谷)に野毛(のげ)があり、かって群馬県は毛野(けぬ)の国と呼ばれていた。字をひっくり返しただ けのこの2つの地域は、その似たような字面から、何らかの関係があったのではないだろうかと誰でも考えるようだ。この HPをアップした後、国分寺友の会のBBSに、川崎さんから同様の質問が出ていたのでちょっと調べてみた。結論から言 えば、ハッキリと関係があったという結論は出ていないようである。しかし、何らかの関係がある」という意見は根強い。 それは、荏原古墳群の「宝莱山古墳、亀甲山古墳」「野毛大塚古墳」などから出土する兜や鎧、石刀やその他の出土物と類 似した副葬品を持つ古墳が、川筋も違う、遠く離れた群馬県太田市周辺にあるのだ。荏原古墳群の築造と同じ頃、群馬県太 田市に「太田天神山古墳」がつくられる。関東最大といわれる全長210mの前方後円墳である。この太田天神山古墳の主 が、「南武蔵の初期の宝莱山古墳や亀甲山古墳の勢力を倒し、自分たちの息のかかった進駐軍をおいたのが毛野の勢力では ないか」(宮川進「さいたま古墳めぐり」)という。そのため両者の副葬品は同一なのだ、と言うわけである。 両者には同盟関係があった、いや征服されたのだ、近畿の大和政権との関わりの深さが一段と強まった、などなど諸説紛々 であるが、勿論正確なところは不明である。専門家によれば、南武蔵の古墳は、その勢力が一時とぎれたように見えるらし く、その断絶は何かそこに異変があったと想像させるようだ。 野毛大塚古墳調査会の報告書にはこの点は、「(略)藤岡市白石稲荷古墳出土のそれとの類似が注目されているが、上記の ような毛野勢力の発展を考えると、武蔵を挟んだ畿内と毛野の両者の影響を併せて検討する必要があるだろう。」となって いる。しかしながら、名前の類似でそこまで想像するか、という気がしないでもない。
最初久保田さんから、東京の遺跡をご案内しましょうと言って来た時、正直なところ、「東京の遺跡?ふう〜ん。」という 感じで、どうせ大したことはあるまいと高をくくっていた。概して大阪の人間は、明治以降何もかも東京へ持っていかれた という思いが強く、特に近畿から出たことのない人ほど東京に対する反発心が強い。明治までミカドは京都におわし、天下 の台所は大阪にあった。それが明治維新とともになにもかも東京へ東京へとなびき、大阪及び近畿圏の凋落に対しては、全 て東京が悪いと言う思いを持った人は今でも多い。京都には「ミカドに京都へお帰り願う会」というのがあるし、大阪にも 「家康を呪う会」というのがあったほどである。阪神タイガースファンの、巨人戦における異常なまでの敵愾心は、殆ど東 京にたいするコンプレックスの裏替えしでもある。 そんな中にあって、近畿人が誇れるものは歴史である。古代における、奈良・京都を中心とした千年の歴史は東京にはない。 根っから大阪生まれの人間達が東京を田舎者と呼ぶのは、この千年という重みを背景にしての発言である。私は九州生まれ なので、大阪が長いとは言ってもそこまでの排他性はなく、タイガースファンでもない。しかし、古代史の分野においては、 正直関東平野に重きを置くと言うことはなかった。しかし今回、久保田さんに案内されて廻った古墳群と、その時集めた資 料とで、板東平野もすてたものではないという思いを強く持った。考えてみれば古代から人は住んでいたのだから、遺跡も あってしかるべきなのだが、近代都市としての東京を見続けていると、現代の谷間に遺跡が残っているとは考えもしなかっ た。また新たな歴史観が加わって、久保田さんには感謝感謝である。新たな出張の楽しみも増えた。
<謝辞> 当HPに掲載した発掘時の写真、出土物にかんする写真・資料は、「世田谷区教育委員会」編集、「世田谷区立資料館」発 行(2000年1月27日)の「特別展 野毛大塚古墳の時代 畿内王権と古代の東国」から転載させて頂いた。記して深 く感謝します。