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<500号墳> 500号墳は4世紀の終わり頃に造築された全長 42mの前方後円墳で、後円部・くびれ部・前方部のそれぞれに粘土槨からな る埋葬施設を備えている。特に、後円部には「八つ手葉形(やつでばがた)銅製品」と呼ばれる懸垂鏡や三角縁神獣鏡を含 む6面の鏡を始め、玉類や武器などの多くの副葬品が納められていた。
<139号墳> 139号墳は北群にあり、東西 23m、南北約20mの方形墳で、5世紀前半から中頃にかけて造築されたものと思われる。埋葬 の仕方は、木棺をそのまま地中に埋める木棺直葬と呼ばれる方法で、棺の大きさは、全長約 3.7m、幅70cm前後で、棺の中 からは頭部付近に櫛、中央に刀、足部側には肩・頸鎧、短甲が置かれていた。武具その他の多くの副葬品から、この古墳群 の盟主に当たる人物の墓ではないかとみられる。
<126号墳> 126号墳は、5世紀後半頃に築かれた東西 23m、南北16mの長方形墳である。この古墳は外見上なんら他の古墳と変わりは なかったが、その副葬品は驚くべきものであった。遠くペルシャで製造され、シルクロードを経て中国から我が国に運ばれ てきたと推測されるガラスの鉢・皿、竜文の透かしを持つ冠の金具や垂下式耳飾り・指輪等の装身具、我が国で始めて出土 した火熨斗(ひのし:古代のアイロン)など、いずれも現在重要文化財に指定されているすばらしい出土品である。これら は現在全て東京国立博物館に展示されており、この千塚資料館にはレプリカがある。初めてこのガラス器を「東京国立博物 館」で見たときは、そのすばらしさに声もでなかった。1500年も前にこんなものが中近東から、と思うと人間の営みの偉大 さに感動してしまう。特筆すべき出土品により、この126号墳は新沢千塚古墳群を代表する古墳となった。以下がその出土品。
(上左から) ★−ガラス碗(口径7.8a、高さ6.7a)、丸くカットした文様が底で2段、胴の部分で5段にめぐっているが一部は仕上げ られていない。口縁もギザギザで未完成品と考えられる。 ★−金属製の垂下式耳飾り。全長21aと長く、3本の鎖には細金細工の飾りが付けられている。 ★−ガラス皿。(口径14.5a、高さは3a)。もとは金箔の人物や馬の絵があったと見られる。 ★−上はガラス製小玉。下はガラス製雁木玉。 ★−金製指輪。下2つは全面に装飾を持ち、真ん中は金地を4〜5重に巻いて表面に刻みがある。 1963年当時発掘を担当していた同志社大学教授森浩一氏は言う、 「藤ノ木古墳の遺物はせいぜい中国止まり。新沢千塚古墳ははるかに飛び越えてヨーロッパの遺物が出ている。戦後の発掘 調査で遺物がヨーロッパまで及んでいたのはここだけです。」 「鮮卑など中国の北方系の人達と古代日本人との接触は『古事記』にも『日本書紀』にも出てこない。しかし出てこないか らといって、接触がなかったと考えるのは大間違いだ。これまで渡来系と言うと、大部分は朝鮮半島や中国大陸を指してい たが、126号墳はそれをもっと広げてくれた。しかも遺物の一部はヨーロッパまでつながっている。」 そして 126号墳とはるか西方の遺物を結ぶルートとして、おそらく百済が中心的に介在し、北方の遊牧民族との接触を通し て入手した、という図式を描いている。
火熨斗(ひのし : 上左) (直径15a、全長32.7a)。この古墳が発掘された当時は我が国唯一の出土だったが、その後大阪府柏原市の 高井戸古墳からも出土した。(日本での出土はこの2例だけ)。フライパンの底のような部分に火(おそらく 炭)を入れ、熱で衣服のしわを伸ばす古代のアイロンである。中国公州の武寧王の王妃の墓から青銅製火熨斗 が出土しており、おそらく126号墳の被埋葬者も盟主の妻かそれに匹敵する貴婦人の墓ではないかと推測できる。 また副葬品には大陸系の色合いが濃い事から、被埋葬者は渡来人もしくはその直系と思われる。 (これはこの古墳群の多くの被埋葬者について言える。) 金製方形板(上右) (8.4a x 8.3a)。龍の文様のすかしがあり、周囲に歩揺(ふよう)が取り付けられている。冠の金具と見られる。 橿原市立千塚資料館
所在地: 奈良県橿原市川西町858の1 TEL: 0744-27-9681 交通機関: 近鉄「橿原神宮前」駅より、奈良交通バス「御所」行きバス乗車 「川西」バス停下車すぐ。(バスの便は少ない。「橿原神宮前」駅より 歩いても15分ほどであり、途中「益田池堤」「宣化天皇陵」があるので 古代史ファンなら歩いていったほうがよい。)