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新井三嶋谷遺跡 −鳥取・岩美町−
1999・8・29(日)
前夜、淀江町の民宿「真名井」でTVを見ていると、「妻木晩田遺跡」の説明会のニュースに続けてこの遺跡のニュースを流していた。
「にいみしまだに? 知らんなぁ。」「この近くみたいやなぁ。」「岩美町ゆうたら帰り道でっせ。」「ほな、寄ってこか。」
朝食を取りながら民宿の旦那に聞くとまさしく通り道だったので寄ることにした。新聞に載っていた住所を頼りに行くと、道路から見える所に
この遺跡はあった。何でも小学校の造成工事中に発見されたもののようであった。山の入り口にあったらしく背後の山はあらかた削り取られてしまっているが、
遺跡の部分だけは小高い丘として残っている。近辺には似たような丘がいくつもあったので、「掘ったらあの辺りにもあるんとちゃうか?」とか「あすこも
絶対古墳やで。」と時ならぬ古墳探しまで始まった。
昨日の説明会とはうってかわって遺跡には誰もいなかったが、それでも古代史ファンとおぼしき人達が2,3組訪れて来た。四隅の石は大分紛失していたが明らかに
四隅突出型古墳である。新聞記事には「最古の」とあるが、「妻木晩田」の説明会でも、あそこの四隅突出型古墳が「最古の」原型というような話だった。
いずれ決着が付くのだろうか。
行く手左に見えている小高い丘全体が「四隅突出型古墳」。確かにでかい。
すぐ下から見ると崖の上に古墳がある。
造成は大分進んでいるが、この古墳は小学校内に整備されて残るのだろう。これからここで学ぶ子供達にとっては、まさし
く身近な歴史だ。
頂上にはシートが架けられていてトレンチなどは見えなかったが、埋蔵者や副葬品は出たのだろうか。おそらくその後の調
査結果が大阪の新聞に載ることはあるまい。現に大阪に戻ったらこの遺跡どころか「妻木晩田」の記事も無かった。
四隅突出型古墳が広く山陰地方に広まっていることを考えても、同族かそれに近い集団が環日本海地方に居住していた可能
性がある。
羽合町の「民俗資料館」を見て「ハワイ風土記館」を見た後、「新井三嶋谷遺跡」に来るまで途中、白兎神社、鳥取砂丘を
見物した。砂丘は初めて見たがさすがにでかかった。古代には相当広い砂丘だったのだろう。
白兎神社は兎を奉っているが、奉られるような逸話が古代、大国主の尊との間にあったのではないだろうか。「因幡の白ウ
サギ」の話は、先住渡来民の大国主が後から渡来してきた集団を助けた話のような気がしてしようがない。
白兎海岸
白兎神社
ウサギが体を洗ったという池。側にはご丁寧に「がまの穂」まで植えてある。はじめて見た。
鳥取砂丘
河原さんはほぼ30年ぶりの砂丘を見てしきりに「砂の女」を思い出していた。東江さんと私は砂丘は初めての体験。服部さ
んは、「もう数えきれん」位砂丘には来ているらしい。
出石(いずし)町
「新井三嶋谷遺跡」を見た後、城ノ崎温泉で一風呂浴びて行くか、それとも出石(いずし)へ寄って蕎麦を食ってくかを検
討した。ルートが離れているため両方を充たして大阪へ帰るのは無理なのだ。意外にも4人ともすんなりと「そば!」でま
とまってしまった。
邪馬台国大研究・ホームページ 古代遺跡めぐり / 新井三嶋谷古墳