Music: Lion King



沖縄県・西表島 「仲間第一貝塚」 2002.9.16(月)


	2002年の我が家の夏休みは西表島(いりおもてじま)になった。セガレは大学4年、娘も大学3年で、もう家族で旅行
	に行く事などないかもしれないと思って企画したのだが、実に楽しい旅行だった。家族全員はじめての、カヌーとスキュー
	バ・ダイビングを体験した。私もWIFEも50歳を超したし、果たして体力的に持つだろうかと心配だったが案ずることはな
	かった。こんなに楽しいならもっと若い内から Challengeしておけばよかったと後悔した。3泊4日と短い旅なので、今回
	は私の好きな遺跡巡りはパスする計画だったのだが、車を走らせている時この遺跡が目に入った。早速車を止め石碑を読ん
	だ。



海から見た大原港・仲間川河口。満潮時の河口は実に広い。



仲間橋からみた仲間川の上流(上)と下流(下)。上流写真の右端の方にある船着き場からカヌーで上流を目指した。(井上家のHP「Shuichi」)



 

 



上の写真の右方に仲間橋が掛かっている。橋の欄干には、国記念物の「イリオモテヤマネコ」の
石像がそれぞれ1匹ずつ、計4体鎮座している。



 

石碑の前には雑草が生い茂っていて碑文もよく見えなかったので、足でなぎ倒して撮影した。
うっかりすると石柱も見逃がしそうな位繁っていた。






	それまで全く沖縄の古代については無知だったので、この碑文を読んで理解できない点がいくつかあった。まず1,000年〜
	1,200年前の貝塚という表現だ。今から 1,000年〜1,200年前と言えば平安時代じゃないか。貝塚と言えば縄文時代と相場が
	決まっている。弥生時代にもそれ以降にもあるにはあるが、しかし遺跡として残っている著名な貝塚は、本土ではまず縄文
	時代である。次ぎに「鉄製の釘」「開元通宝」である。なんだこれは、鉄製の釘? 開元通宝? 貝塚から? 
	三番目の疑問が「新石器時代の無土器遺跡」という表現だ。石器だけを道具として使っていた旧石器時代に対比して、石器
	と土器を用いる事から新石器とされた時代に、その肝心の土器がない?「全国的にもまれな」とあるから珍しいのには違い
	ないが、新石器時代と言えば普通縄文時代のことを言うはずだ。なんだろう、この遺跡は。

	最初私が考えた結論は「碑文の間違い」だった。1,000年〜 1,200年前というのは誤りで、0(ゼロ)が一つ足りないに違い
	ない。そうすれば新石器時代という表現とも合致する。そうだ碑文を刻むときゼロを忘れたのだ。しかし待て、そうなると
	「鉄製の釘」「開元通宝」はどうなる? こんなものが縄文時代にあるはずがない。うぅ〜む。思いあまって、携帯から竹
	富町の教育委員会に電話してみた。応対した人はあまり歴史に詳しくないようで、県の資料をぴっぱりだして見てくれたが、
	「ここにも1,000年前となってますね。」と言うだけであった。

	モヤモヤした疑問を残したまま現地を離れたが、「1000年前の貝塚」と「新石器時代」というのがどうしても理解できなか
	ったので、大阪へ帰ってきて早速文献を買いあさって調べてみた。そして疑問は解けた。

	そうか、そういう事だったのか。




	九州の南から台湾へ、点々とつながる飛び石のような島々は一般に「琉球弧」(りゅうきゅうこ)と呼ばれる。与論島以北
	は鹿児島県に属する薩南諸島で、南半分が沖縄県に属する琉球諸島である。沖縄県は大小146の島々からなる。琉球諸島
	はさらに、北から沖縄本島を主島とした沖縄諸島と宮古諸島、八重山諸島に分かれ、宮古・八重山諸島は一つにして先島
	(さきしま)諸島と呼ばれることもある。沖縄県と、中国大陸との間には東シナ海が広がっている。

	地質学の成果によれば、約2億5000万年前から約1億3000万年前にかけての琉球列島は、まだ海底にあった。約
	1500万年から1000万年前ごろに陸地化して中国大陸や九州とつながり、ゾウやヤマネコ、シカなどが移ってきた。
	それは「生きた化石」とよばれるイリオモテヤマネコの生息や、アジア大陸や日本列島にすむ動物の化石が琉球列島から数
	多く発見されていることから証明できる。約1000万〜200万年前頃、琉球列島は再び切り離され、約150万年前に
	再度中国大陸とつながるが、約2万年前には3つの島嶼(とうしょう:島々)に別れ、氷河期の終了で海水面が約100m
	ほど上昇したあと、現在のような姿になったとされている。つまり、琉球列島が地核変動や海水面変動などを繰り返し、現
	在のように島々からなる「琉球弧」を形成したのは、最終的にはわずか2万年前のことだという事になる。




	琉球弧の島々をおおざっぱに見ると、山地のある「高島」と、台地状の低平な「低島」の二つに大別されるようである。古
	生代から新生代古第三紀にかけての古い地層で高島が形成され、一方の低島は新第三紀から第四紀の珊瑚礁堆積物から形成
	されている。沖縄本島の北部や石垣島の中・北部、西表島などが前者に属し、沖縄本島の中・南部や宮古島、石垣島南部な
	どが後者と言える。太古、沖縄が大陸と地つづきであり、さまざまな生物の往来があったことは、それらの化石の発掘によ
	り証明されているが、沖縄の島々にいつごろから人類が住みつくようになったのかは定かではない。しかし、那覇市で出土
	した化石人骨(山下洞人)は今から約3万2000年前、具志頭村(ぐしかみそん)の港川(みなとがわ)で出土した化石
	人骨(港川人)は約1万7000年前のものであることが確認されている。これと同時にシカやイノシシの化石も出土して
	いる。港川人は日本人の祖先の人骨としては非常に貴重な存在であるが、人工遺物はまったく発見されていない。これら旧
	石器人も、他の多くの動物たちと同様に、或いはこれらの動物たちを追って、中国大陸から陸地を渡って琉球列島にやって
	きたと推測されるが、詳細は不明である。

 


	旧石器時代の遺跡は全国でも多数発見されているが、化石人骨の発掘例はきわめて少なく、港川人の化石人骨は、頭や手足
	のそろった完全なもので、この発見によって日本の旧石器人の容姿が具体的に復元でき、旧石器人の研究を飛躍的に発展さ
	せた。沖縄ではこのほかにも、下地原人(久米島)・ピンザアブ人(宮古島)などの旧石器時代の化石人骨が発見されてい
	る。 
	港川人の時代区分は、考古学上は「後期旧石器時代」と呼ばれる。旧石器時代そのものは、今からおよそ230万年前から
	1万年前頃の時期を言い、おもに石器の製作技法の特徴から、前期、中期、後期の三つの時期に区分される。前期は猿人、
	原人が活躍していた時代で、おもに自然礫の一部を加工した礫器などが使用された。中期になるとネアンデルタール人など
	の旧人が出現する。かれらは洞窟で生活し、死んだ人の埋葬を行い、花や石器などの品々を副葬することもあり、人類の精
	神性が窺える注目すべき特徴を持っている。後期は港川人などの新人がいた最後の氷河時代で極寒の時代であり、この時代
	になると人類の生活領域はさらに拡大し、一部は新大陸への移動を開始して、各地でさまざまな石器が作られ使用された。
	日本最古の石器は、ここ20年ほど「前期旧石器時代」のものとされていたが、2000年にその多くが、「東北旧石器文化研
	究所」の副理事長だった藤村新一による捏造である事が発覚し、その研究活動のあゆみは再び、「後期旧石器時代」へと逆
	戻りする事になった。かえすがえすも罪作りな男である。


	港川人の時代から約1万数千年の長い空白期間をへて登場するのが、約7000年前からはじまる新石器時代で、この時代
	は、本土では一般的に「縄文早期、−前期、−中期、−後期、−晩期、弥生時代」に分けられる。しかし沖縄では、以下の
	表のように縄文時代からほぼ平安時代までを「新石器時代」と呼ぶ。

	本土と沖縄の歴史の対比で見ると、すでに島国となっていた沖縄にも、九州縄文人の渡来により、縄文文化が定着するよう
	になる。
	その一方で、沖縄独特の地域性の強い文化も育っていった。縄文早期と縄文前期は九州との交流が深かった時代、縄文中期
	は奄美諸島や沖縄諸島の独自の文化が発生した時代、縄文後期は再び九州との交流が盛んになり、中国とも関わるようにな
	った時代、縄文晩期は集落が形成され、九州との活発な交流があった時代といえる。概観すると、後述する文化圏のうち鹿
	児島から近い方の二つ、つまり「北部文化圏」と「中部文化圏(沖縄本島)」までは、九州の縄文・弥生文化の影響が及ん
	でいる。勿論琉球独自の文化も芽生えていたのではあるが、基本的には縄文時代・弥生時代が沖縄でも見られる。しかし
	「南部文化圏」即ち宮古・八重山諸島では、その影響が全く及んでいない、と思われるのである。つまり宮古・八重山諸島
	においては完璧に日本本土とは別種の文化が根付き、そしてそれは南太平洋の島々やフィリピンなどの南洋文化の影響を色
	濃く反映している、というのが今日の定説である。宮古・八重山諸島も含めて、沖縄全島が日本で言う「集落」生活を開始
	するのは13世紀頃の事だと言われている。




	琉球列島の先史時代は、南島先史文化の3つの文化圏が設定されている。種子島・屋久島などの薩南諸島の北部文化圏、奄
	美諸島および琉球諸島からなる中部文化圏、宮古・八重山諸島の南部文化圏である。北部文化圏は本土文化の影響下にある。
	中部文化圏は九州の縄文文化が縄文前期ごろに北部文化圏を南下して定着し、独自の発展をした。ここでは弥生式土器も発
	見されているが弥生文化は定着せず、水稲農作は12世紀ごろに始まっている。水稲農作が始まるまでの紀元前4600年頃
	から紀元後1100年頃までは貝塚時代であった。南部文化圏はフィリピンやインドネシアなどの南方系の文化の影響を受
	けた宮古・八重山などの先島諸島である。

 


	沖縄や奄美をふくむ南西諸島は美しい珊瑚礁で形成されており、豊かな海産物に恵まれていることから、斧やナイフ、首飾
	りなどの貝製品が多く用いられていた。沖縄産の貝や貝製品は黒潮に乗って北上し、今から2000年前の弥生時代の日本本土
	にもたらされた。
	ゴホウラやイモガイを加工した腕輪が権威のシンボルとして流行し、それはやがて遠く北海道まで達する。それが「貝の道」
	といわれるもので、そのルートは、南西諸島から北上して北部九州から瀬戸内海をぬけて近畿地方にいたる道と、玄界灘
	(げんかいなだ)を経由して日本海沿岸にいたる道があった。その道のりは2000kmにもおよんでいたことが分かっている。
	北部九州へはおもにゴホウラ貝・イモ貝がもたらされ、そこで装飾品に加工されて全国に広められた。九州の弥生人は、貝
	の産地である奄美・沖縄諸島の人々との間で「貝の道」と称される海路を行き来する交易を展開し、沖縄に弥生土器や金属
	製品・ガラス玉などの多くの品々をもたらした。「貝の道」は、弥生時代から古墳時代へと引きつがれ、約800年にもおよん
	だ。古墳時代には日本本土へもたらされた貝の種類も増え、沖縄の人々はそれと引きかえに穀物や金属器・布などを手に入
	れていたようである。しかし、沖縄には弥生文化の特徴である稲作農耕は受け入れられず、縄文文化の要素を色濃く残す時
	代が続くことになる。そして貝塚も、紀元後約1,000年の長きに渡って各地に築かれ、本土で言う平安時代の頃まで漁獲採集
	の時代は続いているのである。


	現在沖縄諸島で確認されている最古の土器は、今から約7000年前の爪形文土器で、その源流は九州縄文文化である。この爪
	形文土器に伴う石器は、大型の打製または局部磨製の特徴的な石斧であり、貝製鏃なども見られる。爪形文土器は藪地(や
	ぶち:沖縄本島南部藪地島)洞窟遺跡で最初に出土、渡具知東原(とぐちあがりばる:沖縄本島読谷村)遺跡でその古さ、
	時期が初めて確認されたものである。




	前述したように、南部文化圏とされる先島諸島(宮古および八重山諸島)の文化圏は、やや異質である。沖縄諸島まで南下
	してきた縄文・弥生文化は、何故か先島諸島には達していない。北海道と同じく、本土の時代編年は当てはまらないのであ
	る。先島諸島には本土で言う縄文・弥生時代の痕跡がないし、琉球列島全体では古墳時代も平安時代もない。先島諸島は、
	日本本土や奄美・沖縄諸島との関わりはほとんどなく、台湾やフィリピンなどの南方諸島との関わりが深いことから、南方
	一帯にそのルーツがあると考えられている。おそらくは、沖縄と宮古島間の広大な海が日本文化の流入を阻む壁になってい
	たのだろうと推測できる。先島諸島の弥生時代に相当する遺跡は海岸砂丘地に多く、出土品から九州や中国と交易していた
	(鉄製の釘、開元通宝など)ことが分かっているが、その文化の影響下にはなかったようだ。

	西表島の属する八重山諸島は、琉球諸島のうちで最も南に位置し、その西端の島である与那国(よなくに)島からは台湾が
	見えることもある。波照間(はてるま)島は、有人島としては日本最南端の島である。西表から台湾までは距離的には200
	kmで、緯度的には台北(タイペイ)よりも南にある。これらの島々は、さらにバシー海峡の島々を経てルソン島および他
	の東南アジアの島々へと連なっている。地図を見れば一目瞭然だが、地理的には九州よりもこれら南方の海洋文化の影響を
	受けている事は容易に想像できる。
	実際、先史文化遺跡にはその傾向が顕著で、石斧や貝器には南方先史文化との類似性が強く感じられる。隣接する石垣島で
	は、やや西側および北部に山地があり、東側及び南側には台地が展開する。台地の多くは石灰岩地帯とその風化した赤土土
	壌で、ほとんどの海岸に広大な珊瑚礁と長大な海浜砂丘が広がっている。石器の材料になる原石もこの島に産し、宮古諸島
	を含めて周辺の島々にも供給していたようである。




	八重山諸島の遺跡は、殆どが海岸に近い台地か海浜砂丘地にあるが、集落によっては内陸部に展開する例も僅かにみられる。
	先史時代は前期と後期に分かれ、前期は下田原(しもたばる)式と呼ばれる土器が少量出土し、半磨製石斧が盛んに用いら
	れる。遺跡は海岸近くの低い台地にある。一方、後期は土器を用いず調理には焼け石調理法が流行した。石斧は少し研磨面
	が増え、やや大型化の傾向を見せるが、前期の伝統は残っている。シャコガイの貝斧が目立ち、また、遺跡によっては大量
	に出土するのが特徴である。スイジガイ突起部加工品やサメ歯製品などは、両時期に共通である。また前期の、珊瑚礁の魚
	介類を採取する生活形態は琉球島全体に共通している。なお、この前期文化と後期文化との関係については、後期に別の文
	化集団が新たに渡来して展開したものであるとする説と、同一系統の集団が連続しているとする説とがある。12・13世
	紀頃から集落が大規模化し、農耕・鉄器を基盤とする古代社会へ入り、外耳の付いた深鍋形や壺形の土器、中国陶磁器、鉄
	鍋、カムィヤキなどが出土する村跡やグスク遺跡が、台地や丘を拠点に展開するようになる。

	【グスク】
	グシクとも呼ばれその語源についてはっきりした事は分かっていない。現在は「城」と書かれたりするが、通常の「城」の
	概念と	違うようである。城壁だったり砦だったり、時には大規模な集落跡もグスクと呼んだりしているようだ。有力な権
	力者達が築き、ここを中心に集落が広がりを見せていったものと思われる。

 






	密林(ジャングル)の古代文化 【仲間第一貝塚の無土器文化】

	東海岸の、大原集落と大富集落の間を流れる仲間川河口の大富側にある貝塚である。二枚貝を主体に、無数に堆積した貝塚
	が印象的で、土器は伴わない。
	多和田眞淳氏が角形の船釘を発見しており、以前から新しさを示唆する兆候があったが、1959年(昭和34)の早稲田
	大学の調査においては包含層からは検出されず、無土器文化であることを根拠に第一期に編年された。焼石の出土量の多い
	のに注目し、焼石調理法の存在を推定しているが、これは後に宮古島の浦底遺跡で焼石調理遺構が多数発見されて、その推
	定の正しさが証明された。
	人工品は石器のみで、石斧は短冊形、撥(ばち)形に分けられ、半磨製石器が多い。敲石も得られている。1974年に金武正
	紀氏(沖縄県教育委員会)がこの貝塚の掘り返し土から開元通宝を採集し、遺跡の従来の年代観に疑問を投げた。これに対
	し、一時は國分直一博士の反論もあったが、石垣島の崎枝(さきえだ)・赤崎(あかさき)貝塚で一括して開元通宝が27
	枚、合計33枚も出土して自動的に決着が着いた。また、後に國分博士は赤土層と砂層の関係から独自に第一期と第二期の
	逆転を説明し、同様の結論を導き出した。

	【仲間第二貝塚】
	仲間第一貝塚の北東方の海岸に面した低い赤土台地にできた遺跡で、少量の下田原式土器と大量の局部磨製石斧が出土する。
	1958年に多和田眞淳氏が試掘を行い、基本的な内容が把握されていたのを、さらに翌年に早稲田大学の西村正衛氏らが再発
	掘を実施した。
	短冊型で半磨製の石斧が目立つほか、少量の土器片と有孔ホラガイ製品を得ている。ホラガイ製品は南北琉球諸島各地で発
	見され、民俗例を参考に煮沸器として理解されている。
	ところで、早稲田大学の一連の調査の総括で、八重山の石器文化が東南アジアのバクソニアン・ホアビニアン文化に類似す
	ることを非常に慎重に指摘しているが、調査者の慎重さは捨てられてしまい、その後、この説がかなり有力な系統論として
	歩き出している。近年高山純が明らかにしているように、当該石器文化は大陸部東南アジアとスマトラ東岸に限定されるも
	ので、直接八重山とはつながりそうにない。しかし、全体的な雰囲気はやはり東南アジアのいずれかに系譜が求められるで
	あろうとの印象に変わりはない。
	【この項は、嵩元政秀・安里嗣淳共著「日本の古代遺跡 47.沖縄」1993年、保育社から転載した。】


	「土器を伴わない」という表現があるが、八重山諸島では実に奇妙な時代編年も指摘されている。それは石器時代が繰り返
	すのである。つまり、太古に石器時代があって、やがて土器を用い、そしてまた土器を使わない時代が出現するのである。
	これは常識的にも非常に考えにくいが、現に仲間第一貝塚の時代の遺跡は、その殆どが土器を伴わず石器のみで暮らしてい
	た様相を呈しているのだ。

	先島諸島(宮古・八重山諸島)にいわゆる下田原式土器が登場したのは、今から3千数百年前である。2千数百年前になり、
	奇異なことに長年使用してきた土器を捨てて、いわゆる無土器時代に入り、それが1000年以上続く。これは先史時代後
	期の先島諸島の特徴である。彼らは焼石料理を行っていたことが知られており、焼石遺構も100カ所以上発掘されている。
	つまり土器を必要としない生活だったのである。
	この事は、つまり、土器文化を壊滅させてしまう程の大きな社会状況の変化がこの地方に訪れた事を示唆している。構成民
	族が大きく入れ替わった可能性が高い。宮古島の底裏遺跡から出土した200個近い貝斧は、南太平洋諸島やフィリピンに
	その分布が多く、南方系文化の特徴であり、フィリピンと南琉球には、貝斧を介して共通の文化的素地があることが見て取
	れるのだが、果たしてこれら南方文化の担い手達が先島諸島へ渡ってきたものなのかどうか、その真実は、今後の研究過程
	にゆだねるほかない。

	それにしても、本土では平安京への遷都が行われようかとしている時代に、この西表島ではまだ石器を駆使して獲物を漁り、
	貝塚を積む生活を繰り返していたのである。今でもイノシシは、常時殺され食卓に上っている。頭の中で考えると、ほんと
	にそんな未開な島だったのだろうかと思うが、現地へ来てみると瞬時にそれが理解できる。一言で言えばここは「ジャング
	ル」である。今でこそ車が走り、幹線道路が島をめぐっているが、1000年前の西表は、鳥も通わぬ「絶海の孤島」に近
	いものだったと言うことが容易に想像し得るのだ。
	中央集権を達成した大和朝廷の力もここまでは及んでいなかったのである。



		参考文献

		・高良倉吉 琉球沖縄の歴史と日本文化(『琉球王国史の課題』、1989年、ひるぎ社) 
		・嵩元政秀・安里嗣淳(『日本の古代遺跡 47.沖縄』1993年、保育社)
		・當眞嗣一 考古遺跡は語る(『新琉球史 古琉球編』、1991年、琉球新報社) 
		・安里進 『考古学からみた琉球史 上 』(1990年、ひるぎ社)


邪馬台国大研究・ホームページ/ 遺跡巡り/ 仲間第一貝塚