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NO.2



勝竜寺公園 −細川ガラシャの嫁ぎ先−


	暦応2年(1339)に北朝(足利尊氏)方の細川頼春が築城したと伝える。南北朝の内乱や応仁の乱などの戦火をくぐり、織
	田信長の時代には、細川藤孝によって城の大改修が行われ、その面影を今に伝えている。この城は、天正6年(1578)に明
	智光秀の三女玉(たま:後のガラシャ)が藤孝の長男忠興に16歳で輿入れしてきた城でもあり、山崎の合戦では光秀とと
	もに落城する。ガラシャ自身は、丹後の宮津に移るまでの3年間をこの城ですごす。父光秀が「本能寺の変」を引き起こし
	てからは、丹後の三戸野に幽閉されるが秀吉の計らいで忠興と復縁する。しかし苦渋の生活を強いられキリスト教に救いを
	求めて洗礼後ガラシャと呼ばれるようになる。やがて関ヶ原の戦いのとき、石田三成の人質になるのを拒み自らの命を絶つ。

 




	この城は、京都へ進出してくる南朝方を迎え撃つ尊氏方の前線基地として頼春が、京都盆地の南西からの入り口に当たる要
	所に築いた。城の中心部は本丸と沼田丸とに分かれ、外郭施設として城の北側を守るための土塁跡や空堀跡が神足神社周辺
	に今も残されている。

	現在城跡は、資料展示室となっている管理棟をはじめ櫓、庭園などが整備され、長岡京市民憩いの都市公園として開放され
	ている。


 

 



−龍に勝った寺− 勝龍寺


	大同元年(806)に空海が開き、青龍寺と名づけた。平安時代の中頃、乙訓地方は大干ばつ、大飢饉となった。村上天皇は青
	龍寺の住職千観和上に命じ雨乞いをさせた。やっと7日目に雨が降り、村人達は大喜びした。報告を聞いた村上天皇は
	「(雨を降らす神である)龍神を呼び、龍神に勝った。以後勝龍寺と名乗れ。」と命じ、以後この名があるという。

 

 



恵解山(いげのやま)古墳


	5世紀中頃に造られた乙訓地方最大の前方後円墳。周囲に濠があった。前方部から多数の武器(鉄剣)が発見され全国的に
	注目を浴びた。鉄剣の同時出土数としては日本最大。約700本(だったかな?)。この事から被葬者はこの地方の支配者
	だったと推測される。埋蔵文化財センターに解説がある。

 

 



古代の墓の隣に現代の墓がある。古墳の側に現代も墓があるのは近畿地方に多い。

 



 

 



長岡宮 −大極殿跡−


	大極殿跡は、阪急「長岡天神駅」から一つ京都寄りの駅「西向日駅」で降りて北へ4、500mの所にある。大極殿は天皇
	が政務を司る所で、都の中でも最も重要な場所である。発掘調査によって場所が定まり、昭和39年に国指定の史跡になり復
	元整備された。

 






	復元史跡は閑静な住宅街のど真ん中にある。平城宮と違って京都周辺は家が立ちこめていて、とても広範囲を保存するとい
	う訳にはいかない。これは平安京跡も同じ。


 

 

 

 



 

 








	ここで紹介できなかったが、乙訓地方にはこの他にも沢山の遺跡・史跡が存在している。長岡京市や向日市などで発行する
	観光 MAPには、これらが丁寧にコース付きで紹介されており、時間をかけてじっくり散策できるように案内してある。ぜひ、
	「いにしへ」の都人達に思いを馳せながら歩いて見る事をお勧めしたい。



 





長岡京市の居酒屋で反省会。西本さんは所用で反省会は欠席。河原さんが店の可愛こちゃんとどうしても写りたいと言って聞かない。

 




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