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陸奥国分寺・国分尼寺
2005.7.17(日) 宮城県仙台市若林区
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■ 陸奥国分寺 仙台市若林区木ノ下2丁目 仙台駅からバス、聖和学園前下車
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陸奥(むつ)国分寺周辺は、古来より宮城野と呼ばれ、「古今集」に「宮城野の木荒の小萩露をおもみ 風をまつごと君を
こそ待て」とよまれた様に、宮城野萩の名でも知られている。仙台駅からバス、聖和学園前下車すぐ。
陸奥国分寺は天平13年(741)、全国の国家鎮護と人々の無病息災を願って、聖武天皇の詔により全国に建てられた国分寺
の一つであり、国分寺としては最北端に位置する。聖武天皇は、尼寺(国分尼寺)建立の詔(みことのり)も同時に発し、
さらに、東大寺を総国分寺とする東大寺建立の詔を2年後に出した。それから9年後の752年、東大寺大仏の開眼供養が
行われている。いったん荒廃したものを藤原秀衡が修復、源頼朝が焼き打ちしたあと、伊達政宗が再建し現在に至っている。
なお、国分寺は「金光明四天王護国之寺」といい、国分尼寺は「法華滅罪之寺」というのが正式な名称である。当時の全国
六十数カ国にたてられたが、現在その場所も不明なものも多い。
多賀城から約10km南にあり、広瀬川が形成した最下段の河岸段丘に立地している。昭和30年からの5年問の発掘調査
によって、242.4平方mと推定される寺域に南門・中門・金堂・講堂・僧房が南北中軸線上に並んでいること、中門と
金堂は複廊式の回廊で結ばれていること、さらに塔は金堂の東にあり、単廊で囲まれていることなど、大規模な伽藍配置が
明らかになった。その規模は東大寺と同程度であったとみられている。また、文献にある「貞観11年(869)の大地震」や
「承平4年(934)の落雷」による被害の痕跡も確かめられている。この寺のそもそもの創立者は行基菩薩であるといわれ、
創建されたときには、七重塔、七堂伽藍・三百坊を有する大寺院であったと伝えられるが、七重塔は承平4年(934)落雷
によって焼失し、それ以後再建されることはなかった。
文治5年(1189)には、源頼朝が奥州藤原氏を追討した際の兵火によって七堂伽藍・三百坊も焼失してしまい、草堂に仏像
を残すだけであったといわれる。室町時代の寛正年間に真言宗の寺となり、現在までつづいている。その後、地元国分氏の
庇護のもと、薬師如来銅像、十二神将像、不動明王像、毘沙門天王像などがおかれる。慶長10年(1605年)には、仙台藩
主の伊達政宗によって3年の歳月をかけて、薬師堂、仁王門、鐘楼、塔中二十四坊が造営された。
現在、周囲は史跡公園になっていて、寺域には陸奥国分寺薬師堂および白山神社が建つ。約3万坪の境内には、史跡陸奥国
分寺跡をはじめ、伊達政宗建立の薬師堂、仁王門などがあり、心字ケ池畔には芭蕉の「あやめ草 足に結ばん 草鞋の緒」
と詠まれた句碑や、大淀三千風の句碑がある。また、江戸時代の力士、横綱谷風(たにかぜ)ゆかりの牛石、谷風誉れの足
型など、句碑、石仏が多数散在し、歴史の散歩道になっている。初詣・どんと祭・節分や花見の時期には、多くの人が訪れ
る。
<陸奥国分寺薬師堂> 国指定 有形文化財 建造物(県文化財)
文治5年(118)源頼朝の奥州征伐によって焼失したものを、伊達政宗が泉州(大阪府)の工匠駿河守宗次等を招いて再建
したもので、慶長12年(1607)に竣工した。桃山様式の単層入母屋造り、本瓦葺。法5間、向拝をつけ廻縁をまわす。
妻飾りには素木造の簡潔・雄勁な構成美がみられる。内部は内陣と外陣とを峻別して、奥の須弥壇上に宮殿形の厨子が安置
されている。厨子は巧緻な架構で、豊かな装飾により燦然たる光彩を放っている。大崎八幡宮社殿とともに、仙台市におけ
る桃山建築の双璧であり、仙台最古の建造物でもある。「造立慶長十二年丁未十月廿四日」の棟札がある。薬師堂の前には
中門や金堂の礎石が保存されており、往時を偲ばせる。右手奥に鐘楼がある。
創建当時は威容を誇ったであろう七重塔の基壇と心礎。七重塔は承平4年(934)に落雷のため焼失。
陸奥国分寺の想像図 七重の塔を回廊で囲んでいる。
三間平方の袴腰鐘楼(上左)。境内には旧国分寺の礎石がわかりやすく露出していて、旧伽藍を忍ぶことができる。
陸奥国分尼寺
国分寺から数分のところに国分尼寺があった。こちらはほったらかしのような佇まいを見せていた。
<国分寺・国分尼寺(こくぶんじ・こくぶんにじ)>
奈良時代に,聖武天皇が国ごとに建立させた寺。当時の農民は負担が重く,また,ききんや伝染病のために苦しむことが多
かったので,口分田をすててにげだす者もあった。そこで天皇は,国家が安らかにおさまるようにと,741年に詔(みこ
とのり)を出して国分寺をたてさせた。僧寺と尼寺があり,尼寺は国分尼寺とよばれる。奈良の東大寺・法華(ほっけ)寺
は,それぞれ,全国の国分寺・国分尼寺の総本山とされた。
東大寺(とうだいじ)
奈良時代に聖武天皇が総国分寺としてたてさせた寺。奈良市雑司(ぞうし)町にある華厳宗(けごんしゅう)の大本山で、
別称を金光明四天王護国之寺という。本尊の大仏(盧舎那仏(るしゃなぶつ))は,752年に開眼(かいげん)式を行っ
た。その後、1180年と1567年に兵火で焼かれたが、重源(ちょうげん)や公慶(こうけい)らの努力でそのつど再
建された。現在の大仏殿は江戸時代のもので創建当時の約7割の規模しかないが,木造建築としては世界最大。法華堂(三
月堂)には不空羂索(けんじゃく)観音像など,天平時代の代表的仏像が安置されている。
法華寺(ほっけじ)
聖武天皇夫人光明皇后(藤原不比等の娘光明子)は、人臣として初めて皇后となったが、天平9年(737年)疫病が大流行し、
光明皇后の兄弟、房前、武智麻呂、麻呂と宇合の藤原4兄弟も次々にこの病に倒れた。天平12年(740年)、藤原広嗣の乱
の翌年、光明皇后42才の時(天平13年(741))、聖武天皇は「国分寺、国分尼寺の詔」を発するが、光明皇后が創建し
たこの法華寺も総国分尼寺となる。東大寺大仏の開眼供養が行われたのは天平勝宝4年(751)で、光明皇后は52才であっ
た。光明皇后は賢夫人として名高いが、天平宝宇4年(759)6月、60才で崩御した。
法華寺は天平時代、光明皇后の勧めにより日本総国分尼寺として創建されたが、正式な寺号は「法華滅罪寺」である。光明
皇后の生家、藤原不比等の邸が寄進されて寺となった。皇太子を満一歳前に亡くし、また天然痘で兄弟の藤原四卿を失った
皇后の悲しみが、「滅罪寺」という名前を付けさせたのかもしれない。
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