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モヨロ貝塚遺跡 2000.11.5 北海道網走市

  


【モヨロ遺跡概要】
	
	●流氷を渡ったオホーツク文化の記憶・8〜11世紀(オホーツク文化)
	流氷が寄せる網走川河口のモヨロ貝塚は、オホーツク文化最大の遺跡だ。本州で古墳文化が始まった頃、北方のオホーツク
	海域では、千島列島、サハリン、アムール川流域を結ぶ広域な文化圏が栄えた。モヨロ貝塚の担い手は、アイヌ文化興隆以
	前、サハリンを拠点に北の海を往来したニブフ民族(ギリヤーク族)だったらしい。
	
	●流氷が運んできた文化・アムール川に至る北の道
	発見された住居は大きな五角形の竪穴式で、数家族が同居していたらしい。海獣の狩猟・解体・油作りなどに多人数の緊密
	なチームワーク編成を必要とした生活がしのばれる。海獣の骨・牙を彫った動物像や細い優雅な線文様の土器、海獣の油を
	入れたオホーツク土器などの不思議な光沢に魅せられる。
	
	●海の冒険商人の息吹
	遺跡で発見された青銅の鈴や鐸、帯飾りは、8世紀から9世紀に中国の東北地方に勢力を拡大した靺鞨(まっかつ)の族長
	のシンボル。その異国風のデザインは、絹や金属製品と毛皮や油、魚介や昆布などを交換したであろう古代の冒険商人の息
	吹を伝えてくれる。
	
	●モヨロ貝塚館(網走市立郷土博物館分館)
	モヨロ貝塚を地表から見れば、樹林と深草に覆われた単なる平地に過ぎないが、この地下30aから3bに及ぶ地中には、三
	重、四重に土砂が層をなし、その各時代に生活を営んだ人々の遺物が包含されている。これらのものを発掘当時そのままの
	状態に復元して、数千年前からオホーツク海沿岸に住んでいた時代人の文化や、民族の移り変わる生活様式を、一般の人々
	にわかりやすく見ていただき、地上では何の変哲もないモヨロ貝塚であるが、地下には貴重な文化遺産が内蔵されているこ
	とを理解するとともに、よりよく史跡を認識していただくため、内蔵遺物をそのままの状態で展示したのがモヨロ貝塚館で
	ある。(案内パンフより)
	
	●網走市立郷土博物館
	この館は、昭和11年11月3日、当時の社団法人北見教育会が地方教育の振興と文化の発展を図るべく、「北見郷土館」
	として建設・開館したものです。開館にあたっては、故米村喜男衛名誉館長(網走市名誉市民)が長年にわたり収集した考
	古、民族資料3,000点が提供され、それが基礎となりました。昭和23年4月、網走市に移管され、昭和36年11月には創設25周
	年を記念して別館が造築され充実がはかられています。網走の豊かな自然と古代から現代に至る歴史の流れを展示解説し、
	郷土のあり方を探ろうとしています。(同)



 


	
	■オホーツク文化の代表的な遺跡で、貝塚だけでなく住居跡も幾つか発掘されている。モヨロ貝塚館にその遺物が展示されて
	いる。

	■網走市街を抜けて走る国道39号線を紋別方向にむかって行くと、港の近くに、左が網走市立郷土博物館、右がモヨロ貝塚
	遺跡の交差点(名前は忘れた)にさしかかる。右に曲がってすぐの所に交番があり、ここでモヨロ遺跡を訪ねたら「橋を渡
	ってすぐ」という事だった。網走川の河口、網走港近くのほんの少し高台になった所に、「モヨロ遺跡」及び網走郷土博物
	館の分館である「モヨロ貝塚館」がある。 
	遺跡の前に貝塚館とその前が広場になった一角があり、ここに車を止めることができる。遺跡のある一角は周囲を金網で囲
	われ、竪穴住居の跡などはすっかり木々に覆われて、まるで林である。金網の入り口を入ると、モヨロ貝塚の碑と説明版が
	立っている。小さな竪穴式住居がすぐ脇に復元されていた。



 

 



	
	■この貝塚は、大正2年(1913)9月、考古学に強い関心をもっていた函館の理髪師米村喜男衛氏が発見する。網走川河口左
	岸の平地の地中から、従来とは全く異なった千年ほど前の遺跡が発掘された。アイヌ人とも、現存するどの民族とも違う彼
	らを、当時の付近の最寄村から名をとり「モヨロ人」と呼び、貝塚も「モヨロ遺跡」と名づけられ、オホ−ツク文化研究の
	端緒となった。米村喜男衛氏は東京に住んでいたが、アイヌ研究をするために東京をひきはらい、北海道にわたり函館の理
	髪店につとめていたのである。この遺跡の発見をめぐるいきさつは、司馬遼太郎氏の「オホ−ツク街道・北海道の歴史60話」
	に詳しい。その一部を抜粋すると、

	
	『網走川の河口に、高さ、2,30 bの砂丘があり、川にむかって急断面をなしていた。なんとその断面いっぱいに貝殻層が
	露出していたのである。一つの層の厚さが1bほどで、数層もあった。巨大な貝塚だった。土器片や石器もまじっていた。
	土器を見ると、これまで見てきた縄文系とはまったくちがったものだった。米村さんにとってのトロイアがはじまったので
	ある。砂丘の上を歩きまわると、深くて大きな竪穴があった。古代の住居跡だった。さらに歩くと、数十カ所もあり、大集
	落の跡だった。米村さんは、すぐさま”オホ−ツク人”を想定したわけではなかったが、圧倒されるような異様さを感じた。
	すぐさま、網走定住を決意した。アイヌ研究も、先送りにした。大正2年9月4日のことである。駅付近にあばらやを一軒
	みつけ、月1円50銭で借り、改装工事をした。11月に開店した。看板は手製で、トタン板にペンキで「ババ−ショップ」
	と書いた。』『店は繁昌し、発掘も順調にすすみ、出土品は店の奥に堆積した。大正7年には木造洋館につくりかえ、出土
	品を整理して、希望者に見せるようにした。この出土品置き場が、のちにモヨロ貝塚館や網走市立郷土博物館へと発展する
	のである。』

 

	
	■住居跡などは笹やシダに覆われて全く見えない。わずかに立て札が立っているのでそれと分かるがこれではどうしようも
	ない。5分もあれば一回りできる。

 



	
	■モヨロ貝塚館
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	■建物の内部は、入り口を入るとすぐ左手に階段があって、半地下の展示室へ降りるようになっている。今で言う「地層は
	ぎ取り展示」のはしりだろう、貝塚を縦に斬ったような展示で、年代層ごとに遺物と説明板がおいてある。年数のせいか相
	当古びている。断面は、ゆるやかに傾けて展示され、左から右へ年代順に観ていくことができるようになっている。最下層
	は6000〜7000年前の土器や石器が置かれている。縄文時代から続いて、オホーツク文化の土器や、墓が展示されている。
	埋葬された人骨の頭部に底を抜いた土器が被せられている。貝塚の最上部は、いわゆるアイヌの人々の文化である。

 

 

	
	■モヨロ貝塚からは、独特の土器や石器のほか、芸術性の高い骨角器、精巧な金属器も出土しているが、その文明を築いた
	人々については、北方民族で、何時の頃か北海道オホーツク沿岸に住み着き、6〜11世紀に最盛期を迎えたと推測される
	だけで手掛かりは皆無である。現在、この民族はオホーツク人という名前で呼ばれるが、かっては"モヨロ人"とか呼ばれて
	いたようで、いまでいうニブヒ(旧称ギリヤーク)人らしいという説もある。
	このモヨロ貝塚を残した人々は、遙かアムール川河口地方からカラフトも行動圏に入れていたようである。カラフトは冬期
	にはユーラシア大陸との間の間宮海峡が凍り、氷上交通が可能になる。つまり文化的にはカラフトは孤島ではなくユーラシ
	ア大陸の一部といっていい。北海道オホーツク沿岸も同様だったと考えられる。オホーツク海沿岸を南下してきた民族が網
	走川河口に住み着き、海獣狩猟・漁労を主な生業とした独特の海洋文化を発展させていったものと考えられる。「謎の海獣
	狩猟民族文化」とも形容される「オホ−ツク文化」であるが、この文化の遺跡は、カラフト南部から、礼文・利尻島、稚内、
	網走、知床半島、根室半島を経てクナシリ、エトロフ島などのクリル列島に及ぶ広い範囲に分布しており、流氷の接岸地帯
	と一致している。一部は、日本海沿岸の天塩、浜益まで分布している。

 

 



 

	
	■オホーツク文化の名称は、当時使用されていた土器が「オホーツク土器」とよばれたことからつけられたようである。
	この土器は、表面に縄文がつけられる北海道土着の土器とは異なり、土器の表面にへら状の工具で舟形状の刻みをつけた舟
	形刻文や、土器の表面を爪先でつまんでひねる爪形文様などそれまでどの地方にも無いようなものであった。最終期には、
	擦文文化とオホーツク文化が混ざり合った、「トビニタイ文化」へ発展していったものと考えられており、土器も「トビニ
	タイ式土器」とよばれ、表面にすだれ状文様と擦文土器の文様と同ようなものが見受けられる。この三形式をまとめて「オ
	ホーツク土器」とよんでいる。年代的には5世紀ころに始まり、終末が10世紀ころと考えられ、最後には擦文文化に一部
	吸収されて、北海道では消滅してしまうが、サハリンでは10世紀以降もある程度の期間存続している。この「オホーツク
	土器」は明治時代から注目されてはいたが、その内容が明らかにされたのは、先述の米村喜男衛氏(後、網走市郷土博物館
	長)のモヨロ貝塚の発見によるところが大きい。この土器は米村氏により「モヨリ(モヨロ)式土器」と命名されたが、昭
	和8年、当時北海道帝国大学助手であった河野広道氏により「オホーツク式土器」と命名・発表され、一般化していった。


 

 

 



 









土家の復元・発掘時のようす
 

 

 



 



	
	■近年の調査・研究で、オホ−ツク文化の起源、終末、内容についてだんだん明らかになってきたとは言うものの、「謎の
	オホーツク人」と形容されるように、この民族をめぐる謎はまだまだ多い。かっての最大の謎はその終末であった。すなわ
	ち「オホーツク人は何処へ消えたのか?」というものである。およそ800年間、その文化の栄華をほこった民族がプツリ
	とかき消したように消滅してしまったのである。一時は、「オホーツク海から一斉に海へ出て、新大陸へ渡った」とか、
	「出自の地サハリンへ民族大移動をして帰っていった」というような説もあったようである。
	現在の調査結果では、擦文人と擦文文化に吸収されたという説が有力である。オホーツク海沿岸で生活していたオホーツク
	人達も次第に、内陸にいて狩猟採集を中心に雑穀農耕を行っていた擦文人と交流し、やがて海獣捕獲の生活から農耕中心の
	安定した生活へ変化していったというものだ。それを裏付けるひとつの事実は土器の変化である。オホーツク土器の特徴で
	ある「すだれ文様」(そうめん状文様)が、後期には消えていき、擦文土器と似てくるのである。また、オホーツク文化に
	はあって擦文文化には無かった熊崇敬の思想(イヨマンテ)は、擦文文化から発展したアイヌ文化に受け継がれている。
	両文化は融合して、オホーツク文化はやがて擦文文化に吸収され、擦文文化はアイヌ文化へと発展していったと考えられて
	いる。彼らが何処からやってきたのかについては、現在定説はない。


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