Music: Night
森将軍塚古墳 2002.5.4(土) 長野県更埴市




	
	2002年度連休の後半、第1日目はあいにくの雨になった。大阪を6時半に出て、名神から北陸道を抜けて金沢、小松、糸魚
	川と過ぎ、途中「野尻湖ナウマン象博物館」に寄って更埴(こうしょく)市に着いたのは3時過ぎだった。古墳館が4時半
	までだというので、先に見学してから山頂の古墳へ来た。晴れていたら20分くらいだと言うし歩くのだが、雨だし、おま
	けにWIFEとセガレは麓の古墳館前の車の中で待つと言うものだから、山頂まで運んでくれる古墳館のバスを利用する事にし
	た。急斜面の有明山を3分で登ってしまった。

 
	
	バスを降りて林の中を1分ばかり行くと、目の前に葺石を並べた古墳が突然出現し驚く。山の頂上にこんなドデカい古墳を
	築くなんて。呆れるやら感心するやら。

 

	★築造当時の姿を取り戻した科野(しなの)のクニの大王の墓所★
	もりしょうぐんづかこふん
	森将軍塚古墳
	
	森将軍塚古墳は、千曲川沿いに発達した、善光寺平でも有数の穀物地帯を見渡す、標高490mの山頂にある。4世紀中期
	〜末期にかけて、千曲川を見晴らす有明山の尾根上に築造された。森将軍塚古墳はその規模から、信濃国となる以前の科野
	(しなの)のクニを治めた大王の墳墓と目されている。東日本における典型的な畿内型の前期古墳で、全長約100mの前
	方後円墳だが、憤丘の構築方法や多数の小型埋葬施設を持つなど、きわめて強い独自性も見られる。出土した土器などから、
	古墳の築造は、4世紀末が有力視されている。




	
	「科野のムラ」から山頂の森将軍塚古墳までは約1km。ゆっくり歩いても約20分ほどの距離だ。「古代の道」と呼ばれ
	る道沿いには、説明板や休憩広場もある。晴れてれば絶対歩きたいところだ。林を抜けてやがて視界が開けると、全長100
	mの巨大な前方後円墳が姿を現し、眼下には水田が広がり、当時の更埴地方が千曲川流域の豊かな農業地帯で、政治・経済
	にも科野のクニの中心地であったことがうかがえる。説明によれば、築造当時のままにそっくりそのまま復元したとあるが、
	当時はともかく復元にも相当な労力を要した事だろう。ありがたや、ありがたや。

 

 

 

	
	この古墳は昭和56年(1981)から平成4年まで、11年の歳月をかけて整備され、発掘調査の成果をもとに、同じ材料・同
	じ工法で築造当時の姿に復元されたそうだ。表面には約8万個の石英班岩を葺き、古墳の上には千曲川の玉砂利を敷き詰め、
	27種・157個の円筒埴輪や朝顔型埴輪が古墳を飾っている。主体部(後円部)には、長さ7.6m、幅8m、幅約2m
	の竪穴式石室が納められており、その大きさは日本最大のものである。室内は、平石を積んだ壁面を赤く塗り、棺とともに
	刀、鎌などの鉄製品や、長野県下では唯一の三角縁神獣鏡、ヒスイの勾玉、管玉、土器、などの副葬品などが納められてい
	た。



 





	
	古墳の頂には、縦穴式石室の跡をレンガで示してある。石室内は薄い石片を幾重にも重ねて造った壁で構築されており、そ
	の原寸大模型が麓の、眼下に見える園内の瀟洒な建物、「更埴市森将軍塚古墳館」に復元してある。あまりの大きさに圧倒
	される。なるほど日本一の縦穴式石室というのもうなずける。古墳からの出土品も、同じく古墳館で見学できる。





山頂からの眺望は素晴らしい。千曲川も遠くに見える。眼下の古墳館からここまでアッという間に登ってきたのが嘘のようだ。







	
	森将軍塚古墳の周囲には、13基の円憤や埴輪を利用した埴輪棺や、石を箱形に並べた組合式箱形石棺など90基もの墳墓
	があり、科野のクニの奥津城(墓所)のたたずまいを伝える。古墳のある尾根から見下ろすと、古墳時代の集落(科野のム
	ラ)が復元されている。









雨に打たれて色鮮やかなツツジ。雨なのに10人ほどが帰りのバスに乗り込んでいた。




	
	更埴市には28年前新婚旅行で来た。4月中旬だった。福岡から名古屋まで飛行機に乗って、国鉄(JR)で中津川から白
	馬へ行き、次の日、山を越えてここへ「あんずの森」を見に来たのだ。膝まで雪に埋まる白馬から、山一つ越すとこの辺り
	はもう春で、山一面がピンク一色に染まって何とも幻想的だったのを覚えている。勿論その時にはその山の頂にこんな古墳
	があるなんて知りもしなかった。新婚旅行は、それからひと気のない軽井沢で一泊し、東京を廻って帰ってきた。今回はピ
	ンクの山並みは見れなかったが、ここを再び訪れる事になるとは思わなかった。なんかもう一回来そうな予感がする。








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