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水迫遺跡 2000.9.17(日)鹿児島県指宿市






	昨年の(99年)クリスマス・イブに、鹿児島指宿の「水迫(みずさこ)遺跡」の発掘成果が新聞に報道された。指宿市教育
	委員会が発表したものだがそれによると、後期旧石器時代終末期(約15,000年前:人によっては縄文時代早期という意見も
	ある。)の竪穴式住居跡、道路状遺構、石器製作場跡、杭列などがまとまって出土したというのである。日本国内で旧石器
	時代の生活遺構がこれほどまとまって出土したのははじめてであり、明らかに旧石器時代に南九州では既に「定住化」に向
	かっていたことが窺える集落跡なのである。

	現地を視察した岡村道雄・文化庁主任文化財調査官の話。(平成11年12月24日朝日新聞朝刊)
	「今回の旧石器時代といわれる住居跡は年代が明確だ。出土状況から竪穴住居と道などはセットとみてよく、これまで日本
	で類例がない。世界的にみても大変貴重な遺跡。日本の集落の起源と考えられる。」



以下は99年12月24日朝日新聞(asahi.com)の、水迫遺跡の発掘を報じる記事。


問い合わせ先: 指宿市教育委員会/時遊館COCCOはしむれ
(〒 891-0403 鹿児島県指宿市十二町2290番地 TEL 0993-23-5100 FAX 0993-23-5000)






	この遺跡は今(平成12年9月17日現在)もなお発掘中である。発掘現場には、出土した旧石器時代の石器がそのまま放
	置してある。縄文時代から古墳時代にかけての複合遺跡である「橋牟礼川遺跡」から車で10分ほどの丘の中腹にある。




	遺跡全体を道路の反対側から見た図。これがこの遺跡の今発掘されている現場全体である。道路の反対側にも小さな発掘現
	場があって、石器が沢山出土していた。まだほんとに発掘ホヤホヤの遺跡である。
	訪れたのが日曜日で、一同おおいに残念がった。「誰かいてはったら説明が聞けたのになぁ。」「しゃ−ないで、儂らが休
	みの時はここも休んではるんや。」「そやそや、見れただけでもえぇやん。」



 

 

 





 

 

 








	竪穴住居跡は火山灰層が掘り込まれて造られ、道路跡は谷のところでほぼ直角にカーブすることから人工的に造られたと見
	られ、又炉跡には逆三角形に掘り込まれた穴の中に赤く焼けた土や炭が入っている等、明らかに人工的な手が加えられてい
	ることから、後期旧石器時代の集落跡が明解に裏付けられた。炉跡は調理・暖炉・明かりなどに使われたと見られる。又杭
	跡は約230ヶ所にのぼり、柱列や住居跡の可能性が高いと云われる。




	メインの発掘現場とは道路を挟んで反対側に、10u位の新しい発掘現場があった。小さな土杭みたいなものが立っている
	のは石器のあった場所を特定するためこういう形で残してあるものと思われる。まだ上に石器が乗っていた。

	「レプリカやろう。」「いやぁ、ほんもんちゃいまっか。」「えぇー、持っていかれたらどないすんねん。」「幾ら田舎の
	人は純朴やいうてもなぁ、儂らみたいな歴史の好きなヤツは持っていきよるで。」「儂、一つもろてこかな。」「やめとき
	なはれ!」

	心配だったので鹿児島市への帰路、「COCCOはしむれ」に携帯から電話して確認したら「さぁ、本物だとおもいますけどねぇ」
	との返事だった。日曜日で、担当が居ないからはっきりとは分からないという返事だったが、もし本物の石器だとするとあ
	れはまずいんじゃないだろうか。ひょいと持っていく人がいないとも限らない、とみんなで大いに心配した。

 

 




遺跡全体を空から見た写真。この時点ではまだ道路の手前側は発掘されていない。99.12.24




水迫遺跡 速報コーナー 指宿市「時遊館COCCOはしむれ」にて


遺跡の発掘現場はここから近いこともあって、ここに幾つかの資料が展示してある。遺跡までの地図もここで頼めばCOPYをもらえる。




	水迫遺跡は現在の海岸線から約2km離れた、標高126mの舌状尾根の東南側に位置する、後期旧石器時代から弥生時代
	中期にわたる複合遺跡と確認された。平成11年度の調査では、約15000年前の2軒の竪穴住居・道路・杭跡・石器製
	作場などの遺構と共に、石器製作場からは細石刃・細石刃核・小型ナイフ形石器・台形石器などが出土した。更に平成12
	年度の調査では、5軒の建物跡・炉跡1基・道路跡2本などが発見され、約15,000年前の集落跡の姿が徐々に明らかに
	されてきた。集落跡は更に西側に広がることが予想され、平成13年度も引続き発掘調査が行なわれた。当遺跡の後期旧石
	器時代の地層の上には約11,400年前の薩摩火山灰が、その下には約24,000年前の姶良カルデラ噴出物が堆積して
	いると共に、細石刃・細石核などが出土したため後期旧石器時代と特定できた。



水迫遺跡の集落跡の想像図と水迫遺跡の調査区域



 

白線で囲まれた黒い土の範囲が重なりあった竪穴建物跡




	住居跡が確認された地点から西側に石器製作所があったと見られ、多数の黒曜石製細石刃・砕片などが出土した。約15,
	000年前には最終氷河期が終わり、コナラ・カシ・シイ・クリなどの温帯落葉樹林が分布し、又野山にはシカ・イノシシ
	・ノウサギ・ネズミなどの中小型の哺乳動物が生息していたと推定される。当遺跡から出土したいろいろな生活遺構は、一
	定期間人々が暮らしていた痕跡と考えられ、「移動生活から定住生活へ」移り変わる段階と考えられ、これまでのキャンプ
	生活を主とした後期旧石器時代のイメージを一新させる画期的新発見と云える。これほど多種の遺構と数多くの石器類の出
	土例は極めて珍しく、旧石器時代の生活様式をこれほど具体的に伝える遺跡は日本で初めてのケースと見られ、今後の発掘
	調査が期待される。

 


	集落跡の広がりを科学的に確認(指宿市広報) 水 迫 遺 跡

	約1万5000年前(後期旧石器時代)の集落跡といわれる水迫遺跡で、新たに五軒の竪穴(たてあな)建物跡や二基の炉跡、
	二本の道跡が発見されました。平成12年度に行われた科学分析を駆使した発掘調査で明らかになったものです。

	<新たな発見>
	水迫遺跡では平成11年12月、約1万5000年前(後期旧石器時代)の二軒の竪穴建物跡や道跡などが発見されました。また、
	平成12年9月には、同時代の炉跡が発見され、それまでは、キャンプ地を転々とするような遊動生活と考えられていた、後
	期旧石器時代の定説を覆すほどの発見と、大きな話題を集めました。平成12年度に行った水迫遺跡の西側の調査区域から発
	見された五軒の建物跡や二基の炉跡、二本の道跡と合わせて、竪穴建物跡七軒、炉跡三基、道跡三本のほか、多数の杭跡な
	どがあり、約1万5000年前の集落跡の姿が徐々に明らかになってきました。

	<建物跡と道跡>
	五基の竪穴建物跡は、四角い竪穴がほぼ同じ場所に重なるようにつくられていました。これは、当時の人々が、いったん水
	迫を離れて、再び帰ってきた時に、同じ場所に竪穴建物を建てたからと考えられます。また、道跡の表面は周辺よりも硬く
	なっていました。その断面の様子から、道は地面を掘ってつくられたことがわかりました。先のとがった道具で、地面を掘
	削した痕跡が残っていたことから判明したものです。

	<科学分析を駆使>
	平成12年度の発掘調査は、文化庁をはじめ県や全国各地の大学、民間の研究機関などの協力で、実施されました。竪穴建物
	跡や炉跡、道跡などが、自然のくぼ地ではなく、遺構(地面に掘られた生活の痕跡)であることを証明するために、従来の
	考古学的な分析に加えて、地球物理学や地質学の分野からの科学分析が行われました。さらに、自然の地層と異なる遺構を
	埋めた土の色をコンピュータを使って解析し、人工的な遺構であるかという検証作業が、慎重に進められました。このよう
	に、最先端の技術を用いて、竪穴建物跡や炉跡、道跡であることを科学的に確かめました。 



 



最古の定住生活遺構群に炉跡 鹿児島県指宿市 2000年9月6日 毎日新聞
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約1万5000年前(後期旧石器時代)の竪穴住居や道の跡など国内最古の定住生活遺構群が確認された鹿児島県指宿市西方、水迫(みずさこ)遺跡で、新たに炉跡1基が見つかった。6日発表した市教委は「竪穴住居と同時期のもの。当時の集落の様子を具体的に語れるようになった」と話している。
炉跡は直径約50センチ、深さ20〜15センチ。東西に並ぶ住居跡2基の西側約4・5メートルの位置で見つかった。たき火の繰り返しで土が赤く変色し、燃え残りの炭化物もあった。炉跡は住居跡と同様、1万1400年前と2万4000年前の火山灰層に挟まれた地層にあり、炉跡周辺で多数見つかった石器(細石刃と細石核)の特徴から約1万5000年前と特定された。
水迫遺跡の竪穴住居や道の跡などは昨年12月、見つかり、市教委は「定住性の高い集団の集落跡」と発表した。旧石器時代は獲物を追っての移動・キャンプ生活とみなされていただけに、その「常識を覆す発見」(岡村道雄・文化庁主任文化財調査官)と注目されていた。
水迫遺跡で新たに見つかった炉跡
たき火で底の土が赤く変色している=6日午前9時、居垣隆弘写す (C)Copyright 毎日新聞 co.,LTD




	上記に見て頂いたように、この遺跡は日本における旧石器時代の概念を覆す大発見と思われた。しかし、2004年の年明
	けに、南日本新聞に以下のような記事が載った。岡山大学教授で日本旧石器学会会長の稲田孝司氏が、発表した論文で、全
	国に19か所あるとされる旧石器時代の住居跡のうち、鹿児島県指宿(いぶすき)市の水迫(みずさこ)遺跡など4か所は
	誤認の可能性を含め問題があると指摘したのだ。


	南日本新聞ニュースピックアップ [2004 01/22 07:40]  

	出水・上場遺跡と指宿・水迫遺跡の旧石器時代住居説を否定 −旧石器学会会長が論文「形態など疑問」 
 
	約1万5000年前の旧石器時代の住居跡として、「国内初」という高い評価を受けていた出水市の上場(うわば)遺跡と
	指宿市の水迫(みずさこ)遺跡の竪穴遺構について、日本旧石器学会会長で岡山大学教授の稲田孝司氏が、いずれも住居跡
	ではないと否定する論文を発表した。水迫遺跡は発見が新しいものの、上場遺跡は30年にわたって「旧石器時代の住居跡」
	とされてきた。学界の第一人者による衝撃的な指摘に、県内の関係者らを中心に波紋が広がっている。稲田氏の論文は「日
	本における旧石器時代住居遺構の批判的検討」。昨年12月末発行の「考古学研究第50巻第3号」に掲載された。
 
		(略)

	一方、水迫遺跡では99年から01年にかけて竪穴7基、道跡3条など集落跡とみられる遺構が見つかった。国内初の複数
	の住居跡の発見だった。稲田氏はこれらについて「風化や崩壊による自然の窪(くぼ)みであった可能性が高い」としてい
	る。発掘にあたった指宿市教委は「われわれと一緒に現地を調査してもらったのだが、否定されてびっくりしている。再度、
	住居跡という根拠を提示したい」と話している。


	この記事(論文)は関係者に波紋を巻き起こした。稲田氏の論文は考古学研究会の学会誌に発表されたのだが、住居跡を除
	く遺跡の学術的な意義については否定していないという。それでも関係者たちの反応は様々で、貴重さは変わらないので今
	後もPR活動は続けていきたいという意見や、報告書を出すことで反証したいと言った意見が見られる。しかし、旧石器研
	究についてはねつ造事件以来厳しい目が注がれているので、学会のトップが先頭を切って検証に乗り出したことで、旧石器
	文化をめぐる論議に一層拍車がかかることは間違いなく、旧石器人定住説は再検討を迫られるかもしれない。

	定住生活は縄文時代からという定説を崩す発見として注目された水迫遺跡が、自然地形を住居跡と誤認した可能性が高いと
	指摘された指宿市教育委員会では、「1つの意見だと認識している。今後、住居跡である根拠を改めて示していきたい」と
	論争を受けて立つ構えらしい。同遺跡は指宿市教委が1999年から調査、約1万5000年前(後期旧石器時代)の竪穴
	住居跡や道路跡を確認したと発表している。稲田教授は報告書から土の堆積(たいせき)状況などを検証し、かく乱された
	土層を誤認しており、人為的な遺構の可能性は低いとしている。さらに稲田氏は、旧石器時代の住居遺構と判断する条件を
	以下の3点あげている。

	1)一定の構造を持ち、それが安定した状態にあること。
	2)旧石器時代と判定可能な遺物を伴い、住居構造と遺物分布に有機的な関連がみられる。
	3)住居の上を安定した無遺物層が覆い、新しい時代の遺構遺物との見分けが明確なこと。

	この条件に沿って再検討された遺跡は、鹿児島県上場遺跡、群馬県小暮東新山遺跡、福岡県椎木山遺跡、鹿児島県水迫遺跡
	であり、特に水迫遺跡例は情報も多く、慎重に検討されたそうだ。また疑問点や問題点を指摘したとは言っても、「最終判
	断というより、むしろそうした再検討への足がかりとして役立つことを期待したい」と締めくくられている。旧石器時代に
	果たして人々は定住していたか? これはむろん慎重に検討されるべき問題であるが、日本史研究の流れをも変えかねない
	課題である事を考えると、何とか早く真相にたどり着いてほしいと願うばかりだ。




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