この遺跡からは20,000年前の旧石器時代の石器も見つかっている。その後縄文時代晩期(3,000〜2,300年前)後半の貯蔵穴、 土器片などが確認されているが、集落としての規模が顕著なのは弥生時代後期から古墳時代初期にかけて(1,900〜1,600年 前)である。 台地全体を環濠で囲み、多くの竪穴式住居跡が発掘されているが、何度も建て替えられているため住居の総数は不明である。 環濠の中からは弥生時代終末期の土器が多量に出土しているので、環濠はこの頃(3世紀末)埋められたと推定できる。 集落は約200年間ほど続いたようである。土器以外にはめぼしい出土品はない。石鏃、石斧、石包丁が数点、他には魚の骨や 貝殻等である。この為、この遺跡にはさしたる権力者や首長は居なかったのでは無いかと推測できる。又 墓や水田跡なども 現在のところ発見されていない。 古墳時代でも住居跡は発見されており、弥生から引き続いてこの集落を利用していた事がわかる。この遺跡が考古学上有名 になったのは、土製の銅鐸片が発見されたからである。小さな土器片であるが明らかに銅鐸の形をしている。どこかで本物 の銅鐸を見た者が、似せて土器で作ったと考えられる。弥生のこの集落が一般庶民の集落であった事を裏付ける。
笠寺公園は史跡公園として整備中であるが、公園内に弥生時代の住居跡や竪穴式住居を復元した施設がある。キチンと屋根 で覆われているので、これなら痛みが少ないだろうと思われる。多くの復元建物は年数を経るとともにみすぼらしく朽ちて いくが、ここのは大分もちそうである。
一部藁葺きを除いて住居の内部が見えるようにしてある。弥生時代の竪穴式住居にしては少々構造が複雑なような気もする。 藁葺きの厚さなど、つい最近まで農村で見られた藁葺家の屋根の厚さと変わらない。壁もぶ厚く、果たして弥生時代にこん なしっかりした竪穴式住居を造れただろうか?