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能登・真脇遺跡 縄文時代のイルカ漁のムラ 石川県能都町 2000.5.5(金) 歴史倶楽部例会 & Wife

【真脇遺跡】

昭和57,58年の発掘調査によって、縄文時代の前期初頭(約6000年前)から晩期終末(約2000年前)までの、実に4000年も繁栄を続けた、他に例を見ない長期定住型集落遺跡である事が判明した。大量の出土品は極めて多彩。土器・石器・装身具・編物縄類・木製品・用途不明な巨大柱・大量のイルカ類骨など、我々に縄文時代観の見直しを迫る貴重な遺跡である。平成元年1月9日、37,599.94uが国指定遺跡となった。さらに大量の出土品のうち219点が、平成3年6月21日、国の重要文化財の指定を受けた。


【石川県能都町・真脇遺跡公園までの交通案内】
		〒927-0562  石川県鳳至郡能都町字真脇48字100番地
		TEL 0768-62-4800   FAX 0768-62-4172
●北陸自動車道・金沢ICから2時間(能都有料道路経由)
●JR金沢駅から七尾線、和倉温泉駅で「のと鉄道」に乗り換え、2時間30分。
 「縄文真脇駅」下車(急行停車駅)、徒歩10分。



	「真脇遺跡」は、金沢駅からJR七尾線と「のと鉄道」を乗り継いで2時間半、能登半島の内浦に面している「縄文真脇駅」
	から徒歩 10分の、海を望む高台にある。平成9年、真脇遺跡博物館である「縄文館」が完成し、付近は遺跡公園として整備
	され、公園内に温泉も併設されている。又近辺には民宿・公的宿泊所も多数有り、車なら千枚田、輪島の朝市など、能登半
	島めぐりも楽しめる。

若狭から来て前夜飯田の民宿に一泊 その民宿の裏の飯田湾にて

  

 

朝食後、千枚田(棚田)を見て輪島の朝市に行った。 それから真脇遺跡に到着。




 

 

【日本漁業発祥の地?】


	出土した遺物は土器の他にも、石器、装身具、編物縄類、木製品など多種多彩だが、中でも注目されたのは地下3mほど掘
	り下げた前期末から中期初頭の層で、夥しいイルカの骨が出土したことである。判別されたイルカの総数は285頭で、う
	ちカマイルカが56%、マイルカが35%、他はバンドウイルカやゴンドウイルカ類である。骨が出土した層は発掘区域外
	へも広がっていたから、遺跡全体での量は見当もつかない。真脇入り江を含む周辺の海岸では、近世以降にもイルカの追い
	み漁に関する記録が残っている。海流や海底地形などの自然環
	境がイルカ群の回遊を誘っているものと考えられ、4000年間続いたもこのムラの生活も大部分イルカ漁に支えられてい
	たのではないかと考えられている。そういう意味であろう、「縄文館」の脇にはイルカのレリーフに「日本漁業発祥の地」
	と刻み込んだ石碑が建てられている。
	イルカの骨が出土する場所は、石鏃や石槍等も多量に出土したことから、骨を捨てるのみならず、イルカを解体処理した場
	所ではないかと考えられている。またイルカ層およびその真下からは、長さ約250cm、最大経約45cmの彫刻木柱も
	出土した。彫刻は抽象的で意味は不明だが、縄文人の精神面を窺うことができる。同じ層からは、櫂(かい)の柄の部分、
	木製皿、丸木舟、編物類、縄、紐なども出土している。
	遺跡の内3万7600平方mは国の史跡に指定され、遺物219点も重要文化財に指定された。これらの遺物は真脇遺跡博
	物館「縄文館」に展示されている。











真脇遺跡からの出土物を展示した博物館「縄文館」は遺跡のすぐ前に建てられている。

 


	下左は、この遺跡のもう一つの目玉、彫刻木柱だ。トーテムポールと違って動物の彫刻がなく全て抽象的な紋様のみ。その
	ためこの柱の意味をめぐっても諸説紛々だが、何らかの祭祀用という節が有力らしい。私にはただの遊びのような気がする
	のだが。







 

 

 

 

 

 


	【真脇遺跡のイルカ漁】石川県能都町教育委員会発行「図説真脇遺跡」より要約)

	縄文時代のイルカ捕獲法はどのようなものであったのだろうか?これを追求するためには出土遺物や骨の出土状況を分析す
	る必要がある。イルカ骨の廃棄状態を見ると、多い場合で9頭、普通は5,6頭を一度に捨てている。またこの層からは多
	量の石鏃(せきぞく)や石槍(いしやり)が出土している事や、ただ1点だけだが肩甲骨に石槍の先端が突き刺さって折損
	している例があった。
	これらのことから、当時は突き取り漁が主流ではなかったかと考えられる。しかしこの事は、網を使って群の一部を湾内に
	追い込む方法を否定するものではない。仕留められたイルカは、縄文人にとってはメリットの大きい獲物だった。カマイル
	カの体重は平均100kgを超し可食部は約77%と言われる。これを、日本人には量が多すぎて食べきれないと言われる
	1ポンドステーキ(約453g)に換算すると、1頭でざっと170人前になる。従って、一度の漁で平均5頭を捕らえた
	場合、ムラでの消費量をはるかに超え、余剰を生む量ではなかったかと考えられる。
	昭和18年発行の「小木(おぎ)町史」(当時真脇は小木町に属していた。)によると、脂皮から油を採り、表皮はなめし
	皮に、筋は綿打ち用の弦として販売したとある。おそらく真脇縄文人たちも、同様にイルカを有効利用していたに違いない。
	また、出土した土器に残っていた脂肪を分析すると、イルカの油しか付着していない土器が見つかった。つまりイルカ油専
	用の貯蔵瓶が存在していたのだ。

	イルカや魚類に大きく依存していた真脇縄文人であるが、海と同時に山における優れた猟師でもあった。出土した動物遺体
	の種類は多岐に渡るが(表参照)猟犬も飼っていたと思われる。また魚や肉のみでなく、ドングリ、クリ、クルミ、トチの
	実なども出土しており、最近の研究によると、縄文時代の食生活に占める植物食の比率は相当高いと推測されているので、
	ここ真脇でも動物食に劣らず、さまざまな植物を食べていたと想像できる。

 

 







【謎の環状巨大木柱列】

	巨大柱を縦に半分に裂いて半円状にし、それを直径7,8mのサークル上に並べた遺構がこの真脇遺跡でも発掘された。
	その2年前、金沢市の西方にあるチカモリ遺跡でも同様のサークル遺跡が発掘され論議を呼んだが、再び同じ能登半島での
	遺構発見に人々は驚いた。チカモリ遺跡の発掘時は、柱の巨大さと300本を超すあまりの多さに、考古学者のあいだでも
	これが縄文期の柱だとは信じがたいという意見を述べる人もいたのである。おそらく後世に製作されたものが、何らかの理
	由により縄文期の地層に紛れ込んだのであろうと言うのだ。チカモリ遺跡を「縄文晩期」と判断したのは金沢市文化課の南
	久和氏だったが、この真脇遺跡からのサークル遺構の出土を一番喜んだのは南氏かもしれない。真脇遺跡は、科学的分析法
	によっても「縄文期」の遺跡であることがはっきりしている。層位の明瞭な真脇遺跡からの出土により、疑義を挟んでいた
	声は消えてしまったのだ。
	巨大環状木柱列は、3つのサークルが重なって出土している。出土順番によりA環、B環、C環と名付けられたが、A環の
	1本の半円柱根は直径が76〜99cmという巨大なクリ材を使用している。B環、C環は30〜50cmであるが、同じ
	くクリ材である。チカモリ遺跡の柱根もクリ材だった。サークルが重なっているという事は、次々に立て替えられたが同一
	の場所に建てられたことを示している。いったい何の用途に用いられた遺構なのか結論は出ていないが、定位置に建ててあ
	るというのは何らかのヒントになるのかもしれない。

 

 





【巨大柱根の特殊文化圏?】

	真脇遺跡は縄文時代の前期初頭(約6000年前)から晩期終末(約2300年前)までの約4000年間にわたる縄文時代の長期定住
	型遺跡である。
	真脇遺跡からの巨木根柱も、チカモリ遺跡と同時期のものである事が明らかになっている。さらに同様の遺物が新潟県青海
	町の寺地遺跡でも出土していることから、縄文時代の北陸地方には巨木を使用する祭祀など独自の文化が存在していた事が
	推測できる。もしかしたら、青森三内丸山遺跡の巨大柱建造物も、この流れを汲む文化の一端かもしれない。
	真脇遺跡の巨大木根の直径は99cmと、チカモリ遺跡のものを上回る大きさで、直径6.2m、5.3m、7.5mの3つの真円上に、ク
	リ材が配置されていた。出入り口に「ハ」の字形をした門扉形の板状材木が立つことや、柱の根本に溝が彫り込まれている
	ことなどもチカモリ遺跡と共通している。出土した遺物も膨大な量にのぼり、とくに各地層から出土する土器は前期中葉か
	ら晩期末まで、縄文時代を通じてのほぼ全期間の形式を網羅している。このことからも、この集落が極めて長期にわたって
	定住された集落だった事を物語っている。



 

 

 

 

 

 

 

 

 






 

【世界一の縄文土器】


	真脇遺跡を出て内浦の湾沿いの道路をずつと西へ来た国道沿いに、能都町民が製作した縄文土器が展示されている。道の側
	なのですぐ分かる。町民の寄せ書きでいっぱいのこの土器は、高さ4mほどで、ギネスブックにも「世界一の土器」と登録さ
	れているそうである。帰りにこの側の和食屋で昼食に「刺身定食」を食べた。うまかった。イルカは付いてなかった。 


 

一路大阪へ向かう北陸自動車道の彼方に沈む夕陽。連休だというのに道路もさほど混んでなかった。

 







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