Music: Unchained Melody
  





	「魏志倭人伝」に現れる「末廬国」(まつろこく:まつらこく、とも言う)は、佐賀県の、ここ唐津を含む松浦半島東側一帯
	にあったクニだと考えられている。古代から大陸との交流が多くあった場所である。
	菜畑遺跡は唐津市の西南部、JR唐津駅から西へ2km程行ったところにある。昭和55年から56年にかけて行われた発掘調査に
	より、縄文時代前期から弥生時代中期に至る遺跡である事が確認された。なかでも縄文時代晩期後半(約2500〜2600年前)の
	水田跡の発掘と、付随して出土した数々の農機具は、我が国稲作の起源が縄文晩期後半まで遡る事を明らかにした。福岡の板
	付遺跡の発見では半信半疑だった者も、ここに至っては「縄文時代の水田」を認めざるを得なくなった。稲作は弥生時代に開
	始されたのではなく、縄文時代の末期に既に定着していたのである。
	遺跡からは、多数の炭化した米や石斧、石包丁、石鏃などの石器をはじめ、クワやエブリ(柄振り)その他の農具とともに20
	〜30の水田跡も発見されている。また稲作のみならず、アワ、ソバ、大豆、麦などの穀物類に加えて、メロン、ゴボウ、クリ、
	モモなどの果実・根菜類も栽培していた事が判明した。
	中でもメロンが縄文後期に既に栽培されていた事は大きな驚きだった。さらには平成元年の発掘で、儀式に用いたと思われる
	形のままの数頭のブタの骨が出土し、ブタが家畜化されていた事を裏付けた。これらの事実から、「菜畑遺跡」は我が国「農
	業の原点」であった事が証明されたのである。

	遺跡は現在遺跡公園として整備され、竪穴式住居や、日本最古の水田跡も復元されている。遺跡の敷地内には、高床式建物を
	イメージした「末廬館」が建設され、「菜畑遺跡」出土の炭化米をはじめ石包丁、クワ、カマなどの農具、カメ、ツボ、スプ
	ーン、フォーク(既に現代と同形のものが使用されていたのである。)などの食器類等々、多くの遺物が展示されている。
	「末廬館」にはこの他、唐津周辺の遺跡から出土した青銅器や土器類も多数展示されている。



  

 

 

 

 




 

 


	復元された水田には今でも近隣の団体・個人が稲を栽培している(下左)。上右の写真でわかるように、その種類はジャポ
	ニカ種米(通常の日本米)、赤米、もち米等々である。収穫後の米は、年末の餅つき大会で参加者その他に配られている。
	下右は、復元水田から見た「末廬館」。

 


  


		眠りこける女学生の頭越しに見える玄界灘の海。遙かな古代に、魏や帯方郡からの使者達が船を漕いで到着した
		海である。唐津から博多へ帰るJR筑肥線の車窓から。



この遺跡からの出土品は遺跡内に建つ「末廬館」で展示されている。







99年3月22日歴史倶楽部で末廬国を再訪。






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