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中の池遺跡
香川県で初めて見つかった最古の弥生時代前期の大規模環濠集落跡 2003.12.28(日)香川県丸亀市



	
	末尾の新聞記事を会社で読んで、是非行ってみたいと思っていた遺跡だったが行くのが遅すぎた。夏頃行けば発掘作業が見
	れたようだが、今はもうすっかり埋め戻されていた。戦後すぐの頃から、ここに遺跡があることは知られていたが、本格的
	な発掘作業は近年まで行われていなかった。丸亀市の総合運動公園建設が決まってから、それに伴った発掘調査が行われ、
	昨年(2003)まででほぼ終了したようである。調査は丸亀市教育委員会が奈良の(財)元興寺文化財研究所に依頼し、両者
	による共同作業として行われた。昭和22年頃、平池の北側辺りで土器片が見つかり、その後も大量の土器片などが出土し、
	昭和50年には苗床づくりの田んぼからサヌカイトの矢じりが見つかった。このような発見があったため、運動公園の開発
	工事のあるところから順次調査が開始され、現在の第11次遺跡発掘調査に至っている。中の池遺跡は紀元前200年頃弥生
	時代前期の遺跡で、香川県で初めて調査された大規模な環濠集落である。水田跡や墓など、集落全体を見ることができる遺
	跡として評判を呼んだが、埋め戻されてはもうそれもかなわない。



昨夜泊まった道後温泉を出て、松山道を善通寺インターへ向けて走っている時に、車窓から見た雪化粧の石鎚山。





この説明板から見て左手(上)と右手(下)。説明板が道路と駐車場の境目に立っている。







道路側から見た駐車場。左に遺跡の説明板が立っている。



	
	中の池遺跡は、今から約2200年ほど前の、弥生時代前期終末から中期・後期にわたる集落跡である。丸亀市金倉町字中
	の池という名前が示すとおり、香川県立丸亀競技場のすぐ北にある、平池というため池の北側一帯をいう。この遺跡は海抜
	約10mの平野部にあり、西側に金倉川が流れ、流域には弥生時代の遺跡が点在している。海に近く、当時は一帯が湿地帯
	だったと推測される。昭和56年の発掘調査では溝を集落の周りに巡らせた環濠集落であることが判明した。この時期、環
	濠集落は九州から東海地方にかけて出現し、稲作農耕を主体とした集落だったと考えられる。中の池遺跡は2重、3重に溝
	を巡らせた多重環濠集落(最終的に5重。)で、時期的には有名な「吉野ヶ里」以前の環濠集落跡になる。遺跡から多くの
	土器や石器が出土している。特に香川県はサヌカイトの産地であり、他県に比べてサヌカイトを使用した石器が多く出土し
	ている。また、出土物の中には、大陸から稲作とともに伝わってきたと考えられる石を磨いて作った石器もあった。





	
	平成13年(2001)度第9次調査ではじめて、集落の南東部から水田跡と墓が発見された。この調査は集落の東から東南部
	にかかる部分で行われ、多重環濠の変遷が確認できた。集落域が拡大していく様が確認でき、環濠に架かる橋も発見されて
	いる。集落の南側に水田跡が発見され、土器、石器、木製品など多数が出土している。土器は貯蔵用の壷や煮炊き用の甕な
	どが多く、ミニチュア土器もある。平成13年11月、丸亀市教育委員会主催で「親子発掘教室・体験学習」が催され、参
	加した女の子が石器の紡錘車(糸巻きの道具)を発見した。石器は大陸系磨製石器と呼ばれる石包丁、石斧やサヌカイトを
	使用した石鏃や石錐などの打製石器も多く出土している。木器のなかには祭祀に用いられた男根形木製品や漆塗りの竪櫛な
	どもあった。これらの出土物は、丸亀城内にある丸亀市立資料館にあるとの事だったが、残念ながら年末で閉館中だった。

 

 

 

	
	2003年10月には、中期初頭ごろと見られる細形銅剣の破片が人骨とともに出土した。北部九州で製作されたものと見
	られ、瀬戸内中部以東では最古で、再利用されていない初期の銅剣片が出土したのははじめてである。鑑定の結果、弥生時
	代中期初頭(約2200年前)のものと判明。銅剣の生産地とされる九州地方や山口県を除けば最古で、鑑定に当たった愛
	媛大法文学部の吉田広助教授は「細形銅剣として年代のはっきり分かるものは少なく、貴重な資料。生産地の北部九州から
	いち早く香川に伝わっており、当時の流通経路や朝鮮半島との結びつきを知る上でも興味深い。」と話している。出土地付
	近からは県内初の弥生時代の人骨も発見された。ほぼ1体分の人骨が、溝に放棄されたような状態で見つかり、壮年の人物
	とみられる。この遺跡では、環濠の南側で木棺2基の痕跡が確認されていることから、放棄された人骨は埋葬されなかった
	骨と考えられる。中の池遺跡は、集落のすぐ近くで溝と柵(さく)を巡らした跡が確認されているので、争いの犠牲者か、
	或いは他に何らかの放棄された理由があるのかもしれない。この人骨も、香川県内では善通寺市の「永井遺跡」で縄文時代
	後期の小片が見つかっているだけで、弥生時代の人骨で頭蓋骨や大腿骨など部位が特定できる良好な形での出土は初めてだ
	そうだ。





	
	この遺跡では、同心円状に掘られた時期の異なる環濠が、最終的に5つ確認されている。大きさは内側から2番目のものが、
	囲っていた土地の広さ、南北約80m、東西約60mとみられている。1番内側と内側から2番目の環濠には、これに並行
	して柵を巡らせた跡があった。内側から4番目の環濠では、橋を渡していたとみられる柱跡も見つかっている。加えて、一
	番外側の環濠の南東約120mの場所で、幅4−5mの溝とこれに並行する柵の跡が確認された。従来は環濠で囲まれた土
	地が集落域と目されていたが、最近は複数の居住区画に分かれていたと考える研究者もおり、中の池遺跡の環濠や溝はこの
	居住区画を具体的に示すものとの見方が強まっている。



	
	弥生文化は、日本に従来からあった縄文文化と、新しく大陸から入ってきた文化が融合して成立するが、その際、縄文人と
	渡来人のどちらが主体的な役割を果たしたのかという論争がある。
	狩猟採集民族が農耕民化することから弥生時代は始まったという考えと、渡来人がまず稲作を持ち込んで水田を営み、やが
	て狩猟採集民族がそれを真似て農耕民化したという考えである。
	約2万年(或いはそれ以上)続いた狩猟採集の縄文文化は、約2500年前に稲作農耕を生活基盤とする弥生文化に移行す
	る。その最初の舞台となったのは九州北部である。在来の縄文人が中国や朝鮮半島の先進的な文化を選択的に受け入れたこ
	とによって縄文から弥生への転換をとげたのか、あるいは、おもに朝鮮半島から渡来した人びとが先進的な文化を背景に転
	換をおしすすめたのか。私の今回の四国訪問の旅は、これに私なりの結論を出したような気がしている。

	学者連中が言うように、一大転換期のようなものは無いと思う。昨日今日と見てきた四国は、愛媛県の上黒岩岩陰遺跡、高
	知県の龍河洞遺跡のように、一般に弥生時代と呼ばれる年代になっても狩猟採集を続けていた集団があった事を物語ってい
	るし、弥生時代遺跡の水田の規模を見ても、少なくとも初期・中期においてはとても集落全員の飢えを満たすほどに稲穂が
	豊富だったとは思えない。
	また、貴重な籾種を気前よく在地の縄文人達に分け与えるほど、渡来人達が寛容だったとも思えない。おそらく縄文人達は、
	水田を作っている集団が山河で狩りもせず、毎日出掛けて食い物を探していないのを不思議に思いながら、この渡来人達の
	仕事を眺めていたに違いないのだ。そして稲を知り、コメを食うだけで生きていける事を学ぶ。
	やがて何らかの方法で籾種を入手し見よう見まねで、或いは友好的な渡来人に教わって、稲を作り始める。それは稲が渡来
	してきて少なくとも3,4百年、或いはそれ以上の年月を必要としただろう。
	つまり、一般に弥生時代と言われる時代と縄文時代は大部分重なり合って経過してきたと考えたほうがよい。稲作が定着し
	生活が安定すれは、渡来人達も二代三代と増え続ける。彼らは新しい稲作地を求めては移動し、北九州から東へ東へと稲を
	運んでいった。北部九州からここ中の池遺跡へ稲作を伝えた民族も縄文人ではなく渡来人であったと思う。
	そして現地の縄文人達を山から平野へと降ろしたのである。つまり、渡来してきた人びとが稲を手に、長期にわたって日本
	の文化転換をおしすすめたのだ。


	香川・丸亀市 中の池遺跡 細形銅剣出土(2003/10/08)

	
	丸亀市の「中の池遺跡」から出土した瀬戸内中部以東では最古と見られる細形銅剣の破片

	◇破片、再利用されず出土  弥生中期の生産か

	 香川県丸亀市教委は七日、弥生時代前期の環濠(ごう)集落跡で知られる丸亀市金倉町の「中の池遺跡」から、弥生時代
	中期初め(紀元前一―二世紀)に作られたと見られる細形銅剣の破片が出土した、と発表した。広島、愛媛以東で発掘され
	た細形銅剣では最古級と見られ、付近からは、県内で初めて弥生時代の人骨も出土した。
	 遺跡は県立丸亀競技場北西側にあり、破片は長さ二センチ、幅一センチ、厚さ二ミリ。市教委と奈良市の元興寺文化財研
	究所が進めている第十二次調査の中で、環濠集落周辺の溝跡から一体分の頭がい骨や歯、大腿(たい)骨とともに出土。
	銅剣に詳しい吉田広・愛媛大法文学部助教授が鑑定した。
	 同時期の細形銅剣は全国で百五例出土しているが、大半は九州や山口県の一部で見つかっている。瀬戸内中部以東では十
	例目、県内では五例目だが、今回の銅剣が最も古い。紀元前一―二世紀に九州北部で作られ、初期に伝わったらしい。

	
	銅剣の全体の想像図。今回出土した破片は黒い部分と見られる

	 細形銅剣は中国から弥生時代初めに伝わり、九州北部で生産され、破片は、のみなどの工具に再利用されながら、中四国
	や近畿に広がったと推測されているが、今回のように再利用されていない初期の銅剣の一部が見つかったのは初めてという。
	 吉田助教授は「細形銅剣と分かる破片は貴重で、九州北部や朝鮮半島との結びつきや過程を考える上で貴重な資料」とし、
	市教委文化課の東信男学芸員も「丸亀の歴史を知る大きな手掛かりとなる。さらに発掘を進めて銅剣の残り部分を見つけ、
	市民に公開できるようにしたい」と話している。

	
	瀬戸内中部以東では最古と見られる細形銅剣が出土した丸亀市の「中の池遺跡」の発掘現場
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	(C) The Yomiuri Shimbun Osaka 2003 











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