Sound: Jet Plane Takeoff


島根県・神庭荒神谷遺跡


幻視行



飛行機に乗って日本海側から出雲平野を見る。大きく左へ旋回し宍道湖を目指すと右の方に荒神谷遺跡が見えてくる。



ぐーっと近づくと田圃の際に今回銅剣が大量に発見された場所が見える。


	 
	飛行機を降りて1984年7月へ戻る。これが発見された当時の銅剣の出土状況。この状態では唯の錆び付いた銅板だが、
	これが日本の歴史学・考古学に大きな波紋をなげかける事になった。まず、その量。この当時(84年当時)日本国内で発
	見されていた銅剣は全部あわせても300本たらずだった。それがここからは合計358本も出土したのである。この夥し
	い量は一体何なのか?




発掘作業は慎重を極めた。前代未聞の発見に調査員達は胸躍らせながら取り組む。銅剣1本1本を薬品で拭き取り取り上げる。添え木を当て、僅かの片鱗でも落ちこぼれないように慎重に格納する。

358本の銅剣1本1本づつ詳細な図面を取り、安定同位体比法による金属分析が行われた。結果は357本が中国産の鉛(10本程は朝鮮産と混合)、たった1本だけが朝鮮産の鉛であった。又、300本以上の銅剣の取っ手の部分に、右のようなX印が刻まれていた。これは一体何を意味しているのか。

銅剣の発見からちょうど1年後、荒神谷の発掘整理もまだ終了しない85年7月、銅剣発見場所からほんの数メートルの所から、今度は銅鐸6個と銅矛16本が発見された。学会はまた騒然となった。これまでの常識では、文化圏の異なる(乱暴に分けると北九州と近畿)銅鐸と銅矛が併存する事は有り得ないとされてきた。それが同時に埋められていたのである。又、従来出雲は青銅器の少ない地域ともされてきた。それが、日本中で発掘された銅剣の数を上回るものが出現し、文化圏の異なる二つの金属器が同時に出現したのである。





	
	銅鐸発掘作業(左)と発掘された銅鐸(右)。これらは、銅剣も含めて1997年夏、『山陰・夢みなと博覧会』に会わせ
	て、島根県立博物館と『八雲立つ風土記の丘資料館』で一般公開された。
	先立つ4〜6月には東京の東武美術館で公開され、11〜12月には大阪市立美術館でも公開されている。


	
	宍道湖の北、荒神谷遺跡からちょうど北東にあたる、鹿島町佐陀本郷の志谷奥遺跡からは、一緒に埋められた銅剣6本銅鐸
	2個が発見された。(左)。谷の奥地に静かに眠っていた。平成8年10月、荒神谷遺跡の南東に当たる加茂町岩倉からは、
	39個というこれ又全国に例を見ない大量の銅鐸が発見された。(右)。出雲独特の文様もあり、先の荒神谷の銅剣に刻まれ
	たX印が10個の銅鐸にも刻まれていた。



	
	一連の青銅器の発見により、古代出雲は考古学上重要な位置を占めるようになった。今後、古事記の出雲神話や出雲風土記
	の研究がますます熱を帯びてくるだろう。いずれにしても、北九州と近畿との関係をめぐる問題や、邪馬台国問題ひいては
	大和朝廷の成立に関しても、極めて重要なキーワードがこの出雲に潜んでいると考えられる。

写真提供: 島根県教育委員会。加茂町教育委員会。



現視行

第2回歴史倶楽部例会 97年11月21〜23日 出雲遺跡の旅


	11月は神無月という事で、出雲以外の各地には神様がいない。一杯集まっている神様達に会うため、連休を利用して友人
	達と出雲ツアーに出かけた。神庭荒神谷、加茂岩倉、出雲大社、幾つかの古墳や猪目洞窟等を見た。和鋼博物館や八雲立つ
	風土記の丘にも行った。小雨がパラつく生憎の天気だったが、出雲は静かにそこにあった。

神庭荒神谷遺跡


	荒神谷遺跡は、簸川郡斐川町大字神庭西谷に所在し、「出雲風土記」に記されている神名火山(仏教山)の東約3km、高
	瀬山北麓の低丘陵地帯に散在する小さな谷間にある。昭和59年7月に発見された358本の銅剣は日本古代史上の衝撃的
	な発見として全国的に注目された。また翌年7月には銅矛16本、銅鐸6個が出土し、古代史上の謎として現在も多くの古
	代史ファンを引きつける遺跡だ。
	荒神谷遺跡の周辺は、現在遺跡公園になっている。この遺跡を中心に整備された荒神谷史跡公園は、出土した銅剣・銅矛・
	銅鐸のレプリカを納めた「出雲の原郷館」をはじめ、キャンプ場・バーベキューサイト・古代復元住居・遊具公園・古代農
	地などがあり、家族連れで楽しめる公園となっている。2000年前の大賀ハス池の脇に、遺跡はひっそりと佇んでいる。
	人が案内板に近づくとマイクから案内が流れる。レプリカの銅剣が358本、出土した時のままに並べられていて、銅鐸銅
	矛も全く同じレプリカが7m脇に並んでいる。

	出雲の原郷館
	住所: 簸川郡斐川町大字神庭853 (tel)0853-72-9044
	開園: 9:00〜18:00(公園)  9:00〜17:00(原郷館) 年中無休(とあった。)
	入場料:無料
	交通: JR荘原駅から車で10分 南駐車場 乗用車126台 バス5台 北駐車場 乗用車64台 バス5台








	日本で見つかっている青銅器は、大きく分けて銅剣・銅矛などの武器形青銅器と銅鐸がある。今までは、銅剣・銅矛の見つ
	かっている地域と銅鐸の見つかっている地域は違うというのが定説だった。この二つの青銅器は、違う文化圏に属している
	人々が使用していたと考えられていたのである。ところが島根県斐川町の荒神谷遺跡では、それが同じ場所から一緒に見つ
	かったのである。ということから今後の古代史学には、銅剣・銅矛の文化と銅鐸の文化は、まったく別の文化というわけで
	はないようだ、という新たな見方が加わった事になる。

 

 







遺跡の前の私。夕方で少し小雨がパラついていた。


	荒神谷 それとも 神庭荒神谷? 国、県、町で名称混在  

	遺跡の名称は荒神谷、それとも神庭荒神谷? 遺跡の名前をめぐって島根県が「神庭荒神谷」、地元斐川町は「荒神谷」を
	使い混乱があったが、斐川町も国宝指定を機に、県にならって神庭荒神谷を採用する方針。ただ、国は今後も荒神谷を使い、
	混乱は尾を引きそう。
	荒神谷遺跡の名称は、出土地奥の別の谷の名にちなむ。しかし、その出土場所が斐川町神庭」だったことから、研究者の中
	にはなぜ神庭を遺跡名につけなかったのか、と発見当時から疑問の声も出されていた。研究者の意見を入れ、神庭荒神谷と
	称されるようになったのは、県教委が作製した遺跡の調査報告書から。昨年開催の古代出雲文化展でも踏襲され、一般化し
	た。今春の島根県の公立高校入試問題には「神庭荒神谷遺跡」として登場したが、「どこの遺跡?」と戸惑った受験生もい
	た。これに対し、地元斐川町は、県教委から何の相談もなかったことから、遺跡案内標識や印刷物などすべてを、先例に従
	って荒神谷のままできた。しかし、3月末に開いた町文化財保護審議会で、名称変更の意見を聞いたところ、神庭荒神谷と
	する方向でまとまった。県と協議した上で、文化庁への遺跡名変更申請がこれからの課題となる。
	−1998年4月22日(水)山陰中央新報より転載−



加茂岩倉遺跡

	
	平成8年10月14日、 島根県大原郡加茂町大字岩倉の、谷奥の丘陵斜面中腹で銅鐸31個が発見された。標高140mの
	付近で、ブルドーザーの作業中に出現したのである。大きさは、大きいものが45〜51cm、小さいもので30cm前後で
	あった。文様は袈裟襷文、流水文が確認された。1遺跡から出土した銅鐸数としては全国最多であったため大きな注目を集め
	た。それまでは滋賀県野洲町の大岩山遺跡の24個が最多であった。ほぼ同じ時期に出現した斐川町の神庭荒神谷遺跡と共
	に、弥生時代の出雲地域を考える上で極めて重要な遺跡となった。





	
	加茂岩倉遺跡は山の中に突然あった。一体どうしてこんな所に、と思わずにはいられないような場所だ。廻には何にも無い。
	小さな土産物屋が1軒あり、看板に「ドウタクグッズ」とあったのには笑ってしまった。急な階段が見学者の為に造ってあ
	ったが、今は対岸の丘の上から眺めるようになっている。
	発見当時の公開時には4,000人〜10,000人が押し寄せたそうで長蛇の列が続いていたとの事。我々が訪れたときは、青いビニ
	ールシートが小雨に打たれていた。加茂町岩倉の集落から5分ほど山に入った所で、我々の他には見学者は誰もいなかった。
	帰りにドウタクグッズの土産屋に寄った。もしかしたら銅鐸まんじゅうなんかあったりして、と笑いながら立ち寄るとホン
	トにあった。銅鐸まんじゅう、銅鐸せんべいから銅鐸ポスターなど、古代史ファンなら買いそうな物ばかり置いてあった。
	アサヒグラフの別冊、加茂岩倉銅鐸特集号を買った。





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	39個の銅鐸は1カ所からの出土としては全国最多で、全国で約500個ほど出土している銅鐸のうち、合計50個もの銅
	鐸が出雲から出土していることになる。出土した銅鐸は弥生時代中期頃の古い形式のものと、新しい形式のものとがあり、
	文様は流水文と、袈裟襷文(けさたすきもん)である。新しい段階の銅鐸群で注目されるのは、18号鐸・23号鐸・35
	号鐸が、袈裟襷紋の上の区画内にトンボ・シカ・イノシシなどの絵画を持っていることである。また描かれた図像に違いは
	あるが、鈕や鐸身の紋様構成は極めて似通っており、これらの銅鐸は出雲で造られたものとみられている。このほかにも鈕
	にカメを描いた10号鐸、同じく鈕の頂部に人面を描いた29号鐸など、特色のある絵画を持つ銅鐸がある。また10号鐸
	には表面に水銀朱が塗布されていることも確認されている。





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	銅鐸の大きさは形式ごとに大きさがそろっており、古く小さいものが約30cm前後、大きいものが約45cm前後である。
	銅鐸は、入れ子の状態で発見されたものが12組あり、その他3組も入れ子だったと推定されており、銅鐸内部に詰まって
	いた土砂の分析結果から、銅鐸を埋めるまえに、人為的に中に砂を押し込んだ可能性があることも確認されている。また、
	同じ鋳型で作られた、いわゆる兄弟銅鐸が存在することがわかっている。出土した銅鐸の中の13個に、作った後「×」印
	を施したものがあり、神庭荒神谷遺跡で出土した銅剣358本の内344本にも「×」印があり、埋蔵したそれぞれの集団
	には深い関係があったのではないかと、注目される。更に、県内の男性が銅鐸1個を持ち帰っていた(1996.10.27)と届け出
	のあった銅鐸は、神戸市出土の「桜ヶ丘神岡(かみか)銅鐸」14個(国宝)の3号の1個や、鳥取県岩美町「上尾敷銅鐸」
	(重要文化材)と大きさ、文様が良く似ており、その点も大いに注目を集めている。




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	加茂岩倉遺跡  島根県大原郡加茂町大字岩倉字南ヶ迫八三七−一一

	 一九九六年十月十四日、農道工事の際、丘陵斜面より発見された銅鐸は滋賀県大岩山遺跡の二十四個を上回る国内最多出
	土の三十九個が確認され、全国的な注目を集めた。
	本遺跡の銅鐸群は弥生時代中期(約二〇〇〇年前)に鋳造・使用されたものと考えられるが、全長が約四十五センチ級と三
	十センチ級の大小の群からなり、小型鐸を大型鐸に「入れ子」状にして埋葬されていた。
	同じ鋳型で作ったとされる「兄弟銅鐸」が全国各地に分布することや、トンボ、シカ、イノシシ(?)、ウミガメ、人面な
	どの絵画を持つ銅鐸が知られている。さらに吊り手の部分に「×」印の刻印を持つ銅鐸もあり、三・三キロ北西に位置する
	全国最多の銅剣などが出土した神庭荒神谷遺跡の銅剣群にも同様の刻印が施されているなど弥生時代の出雲の社会を考える
	上で第一級の資料といえる。
	町内の神原地区では古墳時代前期に「景初三年」(西暦二三九年卑弥呼が中国に遣使したとされる)の銘文をもつ三角縁神
	獣鏡が副葬された神原神社古墳が築造されている点も注目される。 	加茂町教育委員会
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	全国最多39個の銅鐸が出土し全国的に注目を集めたこの遺跡は、東南約3キロの地点にある斐川町の荒神谷遺跡と並んで
	古代青銅器の分布図を塗り替える大発見となったが、古代出雲の解明にも新たな視点が加わった事で極めて重要な遺跡とな
	った。加茂町では農道建設現場一帯を「加茂岩倉遺跡」と命名し、周辺を史跡公園にする方針で、銅鐸を保存する歴史博物
	館建設を予定しているという。 







猪目洞窟(いのめどうくつ)
平田市猪目町 一畑電車平田市駅-生活バス猪目線で約35分
	
	出雲大社へ行く前に、島根半島の海岸、猪目(いのめ)洞窟にも寄ってみたが、まさしく根の国・黄泉の国を思わせるよう
	な洞窟だった。出雲大社の北東方向に車を走らせると、やがて海岸近くに出てトンネルを抜けた所にこの遺跡はあった。
	道路脇に、ここが古代の人骨や遺物の出土した文化遺跡であることを示す案内板がひっそりと立っている。平田市にある猪
	目洞窟は幅、奥行共に約30mの海食洞窟で、縄文から古墳時代にかけての人々の生活空間であったようだ。様々な遺物・
	考古資料が出土している。「出雲国風土記」には「夢にこの磯の窟の辺に至れば、必ず死ぬ。故、俗人古より今に至るまで、
	黄泉の坂、黄泉の穴と名づくるなり」という伝承を記録している。



	
	昭和23年、漁港の修築工事に際して堆積物を取り除いた時に人骨10数体と多数の遺物が出土した。仰臥屈葬のような状
	態で、その右腕にゴホウラ貝の腕輪をした男性の骨、弥生後期の甕形土器片、丹塗りの高杯、丸木船の残片などが発見され
	ている。ゴホウラ貝は鹿児島や沖縄でとれる貝であり、このことから広範囲において交易があったことが伺える。舟材を使
	用した木棺も出土した。これらは、弥生時代から古墳時代にかけての生活様式を知る上で貴重な資料であり、遺物包含層は
	昭和32年7月27日に国指定史跡となった。
	また、出土遺物は昭和49年12月27日に県指定文化財となった。現在、出土遺物は大社町の猪目洞窟遺物収蔵庫で保管
	されている。ここの住所は平田市だが、出雲市大社町が調査に当たった為、出土品および調査報告書は大社町が保管してい
	るのだ。大社町教育委員会の埋蔵物貯蔵庫内には、発見された人骨等も保存されている。



		
	洞窟は現在、漁船の船あげ場となっており、古びた船が何艘か並べられている。この洞窟は岩と岩が寄りかかったようにな
	っており、その奥の自然の洞窟は約30〜50m続いているという。崖沿いの道路の横にその洞窟に降りていく細道が作ら
	れており、伝わって降りて行くと、その洞窟の正面に至る。入り口には子供の背丈ほどの祠が祭られており、不思議な雰囲
	気を漂わせている。20mばかり中へ入ってみた。中はさほど広くなく、おおきな岩が奥に横たわっており、こんな所で暮
	らしていたのかと驚く。さらに奥は、子供がしゃがみこんでやっと位の高さで続いており、日本神話にいう「黄泉の国」は
	この先かと思わせる。イザナギがイザナミを追っていった死者の国。洞窟の奥は漆黒の闇そのものである。この洞窟の奥を
	「黄泉の入り口」と思った古代人の気持ちが伝わってくる。



	
	大社町教育委員会の資料には、次のような文章がある。

	「即ち北の海浜に磯あり、名は脳磯(なづきのいそ)といふ。高さ一丈許(ばかり)、上に松生ひ芸(しげ)り。磯に至る
	邑人(さとびと)の朝夕に往来(かよ)へるが如く、又木の枝は人の攀(よ)ぢ引けるが如し磯より西方に窟戸(いわやど)
	あり。高さ、広さ、各六尺許(ばかり)なり。窟の内に穴あり、人入ることを得ず、深さ浅さを知らず。夢に此磯の窟の辺
	に至る者は必ず死ぬ、故俗人(かれよのひと)、古より今に至るまで黄泉之坂、黄泉之穴と号(なづ)くるなり」
	<脳磯(脳髄の形に似た磯)「出雲國風土記」>




出雲大社




	>
	初めて出雲大社を訪れた。ここは人が一杯だった。折しも11月23日で、新嘗祭、献穀祭の真っ最中だった。一夜開けカ
	ラリと晴れた空の下、現代の神官達が厳かに儀式をとり行っている。
	祭神は大国主神(おおくにぬしのみこと)だが、本殿の裏には素戔嗚尊(すさのおのみこと)を祀っている。2,000年の昔、
	大国主神と素戔嗚尊は、この地で一体どんな話をしたのであろうか。姉天照大神からの指令を受け、素戔嗚尊は強引に国を
	譲れと大国主神に迫ったのであろうか。それとも古事記にあるように、高御産巣日(たかむすび)神の命令で、大国主神と
	談判したのは経津主(ふつぬし)神と武甕槌(たけみかつち)神の二人だったのか。『根の国』は多くの謎を秘めたままで
	ある。

	神殿の前に立って、今の日本でいいのかどうか神様たちに聞きたかったが、誰も教えてくれなかった。出雲大社裏の神山の
	奥深くにも分け入ったが、神々は何も答えなかった。





八雲立つ風土記の丘

復元された竪穴式住居(下左)と岡田山古墳(下右)。



正面から見た竪穴式住居と石棺。





この地図を見ても、この地方に古代相当の集団があった事が確認できる。古代出雲はかなりの勢力だったのではないか?


大阪での古代出雲展に出品のため、銅矛はいずれもレプリカであった。















神原神社古墳から発掘された景初三年銘入りの三角縁神獣鏡。右は方格規矩鏡。




	出雲国風土記

	西暦713年、奈良の大和朝廷政府は全国に、その地方の地名の由来、特産物、古老の伝承などを調査し、報告するように
	命じた。これが「風土記」である。当時、全国は60余りの国に分かれていたので、おそらくこの60余国全てについて風
	土記が製作されたはずであるが、現残しているのは「出雲国風土記」、「常陸国風土記」、「播磨国風土記」、「肥前国風
	土記」、「豊後国風土記」の5つだけである。これらの風土記は1,300年もの長い間に、大半が部分的に散逸しており、
	完本は「出雲国風土記」だけになっている。また、風土記そのものも、残念ながら奈良時代当時のものがそのまま残ってい
	るわけではなく、後の時代の写本である。
	「古事記」「日本書紀」は日本最古の歴史書として有名だが、これには地方の状況は詳しく書かれておらず、奈良時代の出
	雲地方の様子は「出雲国風土記」によって知る事ができる。「出雲国風土記」には奈良時代の地名が多く載っており、この
	地名の殆どが現存している。現在日本各地には、「風土記の丘」と称する歴史公園がたくさん作られているが、ここ出雲ほ
	どその名にふさわしい場所はあるまい。


日御碕(ひのみさき)

	
	今夜の宿は、日御碕(ひのみさき)に建つ国民宿舎。岬の突端に建っている宿で抜群の眺望だった。眼前に日本海を臨み、
	廻りにもウミネコの群生地や日御碕神社など景勝地も多い。日御碕灯台は柱状節理石英角斑岩上に立つ、紅白互灯の一等灯
	台で、基礎上38.8mあり、明治36年4月1日初点灯で、46万カンデラ、光達距離約40キロ、石積みの灯台として
	は東洋一を誇っている。  







	
	日御碕神社の由緒
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	祭 神	:	日沈宮(下の官)天照大御神 神の宮(上の官)神素盞鳴尊
	由 緒 :	日沈宮は、神代以来現社地にほど近い「経島(文島)」に御鎮座されていたが、村上天皇天暦2年(948)
		に現社地に遷座。素戔嗚尊の御子神である天葺根命が清江の浜(社地前の浜辺)に居られたときに島上の松が輝き
		「吾はこれ日ノ神なり。此処に鎮まりて天下の人民を惠まん。汝速やかに吾を祀れ」と天照大神の御神託を賜った
		ことにはじまるという。神の宮は、神代以来現社地背後の「隠ヶ丘(古墳)」に鎮座していた。安寧天皇13年に
		現社地に御遷座。のちに「日沈宮」とともに日御碕大神宮と称された。素盞鳴尊は出雲の国造営後に「熊成峯」に
		登り、終生鎮まる地を求めて柏葉を風で占うと社殿背後の「隠ケ丘」に柏葉が止まったために、御子神である御子
		天葺根命は素戔嗚尊の御魂をこの地で奉斎したという。日御碕は素戔嗚尊の神魂の鎮まる霊地、根の国の根源とし
		て篤く遇されてきた。現在の社殿は徳川家光の命により幕府が直轄して建立したものであり寛永21年竣工。
		国の重要文化財指定。また伊勢神宮は昼を、当社は夜を護る神としても信仰されている。<神社由緒書参考>










邪馬台国大研究ホームページ/ INOUES.NET/神庭荒神谷遺跡