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鬼虎川遺跡 第58次発掘調査・現地説明会 2004.4.17(土)








 

近鉄東大阪線の「新石切駅」南西500m位のところが説明会場。目の前には生駒の山々が壁のように立ちはだかっている。



	
	近鉄東大阪線の新石切駅南にある西ノ辻遺跡は、弥生式土器が発掘されたところ。昭和16年に整地が行われた際、多数の
	土器が出土したため調査が行われその結果、近畿地方の弥生時代後期の遺跡としての重要性が確かになった。この地域は現
	在、弥生町と呼ばれているが、その名称は弥生式土器が出土したことから、地元の人々によって昭和40年に名付けられた
	比較的新しい地名である。この西ノ辻遺跡は大阪府の史跡に指定されている。 

	●鬼虎川遺跡 東大阪市宝町・弥生町
	●交通    近鉄東大阪線新石切駅 
	●時代区分  縄文後期−弥生時代 〜 中世



	
	鬼虎川遺跡は河内(大阪府東部)で最も早く弥生文化を持った集団が住み着いたとみられ、全盛期の弥生中期は拠点集落の
	一つとなった。遺跡は、昭和38年に府道外環状線(現国道170号)の建設に際し、弥生土器や石器類等が採集された遺
	跡で、これまでに59次に及ぶ発掘調査が実施されている。今回の説明会は58次調査のものである。

	河内湖縁辺に連なる生駒西麓の沖積地に形成された弥生時代中期を中心とした遺跡である。第7次発掘調査は昭和55年9
	月から昭和56年5月にかけて、遺跡のほぼ中心で病院の建設に先立って実施された。この調査において、弥生時代中期の
	層から、青銅器鋳型4点と銅鐸形土製品1点が出土した。4点の青銅器鋳型の内訳は、銅鐸鋳型、銅釧鋳型、石突形青銅器
	鋳型、不明青銅器鋳型で、いずれも和泉砂岩製である。これらの鬼虎川遺跡で出土した青銅器鋳型などの鋳造関係遺物は、
	鬼虎川遺跡の中心部付近の極めて近接した地点で集中して出土しており、弥生時代の青銅器生産を考える上で学術上極めて
	貴重な資料となっている。



	
	また、これまでの調査において、土器や青銅器の他にも農耕具、石器、狩具など、弥生時代の代表的な遺物が数多く出土し
	ており、近畿圏では奈良県田原本町の「唐古・鍵遺跡」、兵庫県尼崎市の「田能遺跡」、大阪府泉大津市の「池上曽根遺跡」
	などと並んで、弥生時代を代表する遺跡である。しかし、現在では遺跡の上には建物が建ち並び、発掘調査は、今回のよう
	に極めて狭い領域をぬって行われている。また、奈良県の遺跡などと違って、ここは5mも掘り下げないと弥生時代の地表
	面に行き着かない。多くの弥生時代の遺跡はせいぜい1mも掘れば地表面にぶち当たることを考えると、この地がいかに地
	表の変動・変遷が大きかったかがわかる。その原因がおそらく河内湖とそこへ流れこむ河川の活動にあることは容易に想像
	できる。



驚いたことに、説明してくれた職員の一人はうら若き乙女であった。汚れた作業着を着てけなげに説明してくれる姿は新鮮だった。



発掘現場

 



 







 

























出土物の展示と説明



 

 

 

 

 

 



 

 

 



 

 

 





 



人面土器

	
	本日のメイン・イベントーッ。マスコミで一斉に報道された弥生時代中期とみられる土偶の頭部である。周知のごとく、土偶
	は縄文時代を代表する祭祀遺物で、弥生中期の例は知られていない。土偶の頭部は幅約10cm、厚さ1−2cmの板状。ま
	ゆや目の周りを土でやや盛り上げ、線で刻み細長の目を表現していた。土を張りつけて鼻にし、鼻の穴は小さなくぼみ。口は
	丸く、耳を表す穴も開いていた。肩のラインからみて、下に台形の胴体があったらしく、全体の高さは約20cmと推定され
	る。弥生中期中ごろのつぼやかめなどと一緒に穴から出土した。似た形の縄文晩期の土偶は近畿で多数見つかっており、その
	名残とみられる。

 

 

裏面が見えるように下に鏡が設置してあったが、デジカメにはうまく映っていない。ほんとに顔に付けたような紐穴があいている。

 



発掘調査パネル



 

	
	この遺跡はどこもこうやって隙間をぬって発掘されている。それでも前述したような遺物が出土しているのだから、もしあた
	り一帯を全面的に掘ることが出来たら、おそらく一大弥生集落が出現する事だろう。河内湖の端に位置して、裏手の生駒山の
	動植物を狩り、眼前の河内湖の魚をとり、水辺の稲を収穫して、実り多い生活をおくっていたとも考えられるし、或いは、度
	重なる鬼虎川の洪水におののき、埋まっていく河内湖を恨めしく思いながら暮らしていたのかもしれない。いずれにしても、
	ここに広範囲の遺跡が横たわっている事実は、古代ここが多くの人々の飢えを満たしてくれる環境だった事を物語っている。

 

 

 

 

 

 

 

 









	
	これまでの発掘調査の成果は、ここから南へ行った所にあるセンターで展示されている。今日は時間がなかったが、こんど
	司馬遼太郎館を訪ねるときついでに行ってみよう。ん、どっちがついで、かな。


	
	銅剣鋳型:鬼虎川遺跡で出土 近畿で2例目
	毎日新聞 2007年6月10日 0時42分 (最終更新時間 6月10日 1時14分)

	
	鬼虎川遺跡から出土した銅剣の鋳型片=大阪府東大阪市役所で8日午後2時、懸尾公治撮影

	弥生時代の拠点集落跡「鬼虎川(きとらがわ)遺跡」(東大阪市弥生町)で、弥生時代中期後半(紀元前1世紀ごろ)の銅剣
	の鋳型が出土した。9日発表した市教委によると、鋳型の出土はこれまで九州北部がほとんどで、近畿では2例目。市教委は
	「銅剣が畿内中心部でも生産されていたことが裏付けられた。当時の祭祀(さいし)を考えるうえで貴重な発見」としている。
	昨年6〜11月、国道170号の拡幅に伴い約100平方メートルを調査。鋳型は、弥生時代中期後半の整地土から、土器や
	石器などの生活道具に交じって出土した。
	見つかったのは、剣身中央部に当たる一部分で、長さ8.8センチ、幅8センチ、高さ5.2センチ。砂岩製で、砥石(とい
	し)に転用されたため、凹凸部分は削れていたが、銅剣の形の焦げ跡が残っていた。復元すると、銅剣は長さ約40センチで、
	剣身のくびれ部上端の幅が広い独特の型式だった。
	弥生時代、祭祀用などに盛んに製造された銅剣は、主に九州北部や中国・四国地方に分布。近畿では、鋳型の出土例は田能遺
	跡(兵庫県尼崎市)だけで、畿内中心部での生産の実態ははっきりしなかった。市教委は「畿内でも需要があったため作られ
	たのだろう」としている。【中本泰代】

	金関恕(ひろし)・大阪府立弥生文化博物館長の話
	青銅器生産は畿内でも盛んだったが、銅剣も作られていたことが裏付けられた。従来とは違うタイプで、この時期には青銅
	を使った祭祀が各地で盛んになり、地域独自の型が生み出されたことを暗示している。



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