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吉備風土記の丘 (造山古墳・作山古墳) 2001.3.3 岡山県岡山市・総社市






造山古墳(つくりやまこふん:岡山市)


	仁徳・履中・応神陵に次ぐ、我が国古墳4番目の大きさを持った前方後円墳。全長約350m。高さ約24m。頂上には長持型石棺
	があるが、近くの車塚古墳のものとも言われている。





 

 


	でかい古墳だ。さすが日本で4番目。一回りして、Wifeとセガレの待つ車まで戻ってくるのに30分はかかった。それにして
	もこんなに大きな古墳を、宮内庁はよく天皇陵や参考地に指定しなかったもんだ。もっとも、天皇陵が吉備ではちと困るこ
	とになるのかも。それに参考地でも、どうして吉備にという事になって説明できないのかもしれない。まぁそのおかげでマ
	ニアはこうして古墳の上まで登れるのだけれども。
	4,5世紀の吉備に強大な勢力が存在したことは、この古墳を見れば明らかだ。もしこの古墳が近畿にあれば間違いなく天
	皇陵だろうと思う。日本書紀には、吉備地方で反乱が起きた事がたびたび記録されている。しかも、雄略・清寧天皇の時代
	にそれは集中する。




	<雄略天皇7年8月条>
	吉備下道臣前津屋(きびのしもつみちのおみさきつや:一書には国造吉備臣山(くにのみやっこきびのおみやま))が天皇
	と女で争い、物部の兵士30人に一族70人とともに殺された。

	<雄略天皇7年是年条>
	吉備上道臣田狭(きびのかみつみちのおみたさ)は任那に単身赴任中、雄略天皇が自分の妻「稚媛(わかひめ)」を犯した
	事を知り、新羅に援助を求める。天皇は新羅征伐を子供の弟君(おときみ)に命じるが、吉備上道臣田狭は弟君に謀反を勧
	める。

	<清寧天皇即位前紀>
	雄略天皇の死後、吉備稚媛の子「星川皇子」(ほしかわのみこ)は王位をねらう。しかし白髪(しらかの)皇子(後の清寧
	天皇)の部下、大伴室屋(おおとものむろや)らに焼き殺される。星川皇子を救おうとした吉備上道臣らは、援軍を送ろう
	とするが、星川皇子が殺されたことを知り引き返す。しかし白髪皇子は彼らを追い、その領地である山部(やまべ)を奪っ
	た。




	これらの日本書紀の記事からは、この時代の吉備の豪族が、天皇家と争えるほどの権力を持っていたということが窺える。
	この造山古墳の大きさを見ても、大王の地位をねらっても不思議ではないような気がする。吉備は大和の勢力と盛んに姻戚
	関係を結ぶのであるが、これらの記事から推察するに、その関係を背景にして本当に大王の地位を狙っていたのかもしれな
	いと思う。しかし、これらの事件を契機にして、やがて吉備は大和政権の前に屈服し、その勢力はそがれていったようであ
	る。

	前方部の途中から上に登れるようになっていて、頂上には神社がある。そばに風化した石棺が放置されているが、これはこ
	の古墳ではなくどこか近くの古墳から運ばれたもののようである。この石棺の石材は、遠く阿蘇の火山灰でできた阿蘇石で
	ある事がわかっている。北九州との結びつきも、いかなるものであったのか興味は尽きない。

 





 








備中国分寺(総社市:8世紀後半〜15世紀)


	聖武天皇によって諸国に建立された国分寺の一つ。創建時の領域は、東西160m、南北178mという寺域が推定されている。
	南北朝時代に焼失し、現存する建物は江戸時代中期の再建。現在の国分寺山門付近に、創建時の南門・中門跡の礎石が
	残っている。県内唯一の五重塔で、のどかな田園風景のなかに聳える姿は、吉備路の代表的な景観である。







 

 








こうもり塚古墳(総社市)


	全長約100mの前方後円墳。奈良の石舞台古墳に匹敵する、後円部の巨大な横穴式石室は、全長19.4mあり、井原産の浪形石
	の家形石棺が納められている。石室内に多数のこうもりがいた事からこの名がつく。仁徳天皇との恋物語のヒロイン黒媛
	(くろひめ)の墓とも伝えられる。
















作山古墳(つくりやまこふん:総社市)


	岡山県下2番目、全国でも9番目の大きさを持つ前方後円墳。全長286m、高さ24mで3段から成る。岡山市の造山古墳の少し
	後に築造されたもののようである。



 















 











	吉備地方は、縄文時代の早い時期に稲が持ち込まれ、弥生時代には大規模な集落が出来てくる。そして古墳時代には、鉄の
	生産や加工の技術を得たと思われる有力な豪族によって、巨大な古墳が築造される。文献にも、吉備と大和朝廷の関わりを
	示す記事が頻繁に登場する。仁徳天皇は、嫉妬深い皇后の仕打ちに耐えかねて吉備へ逃げ帰った黒媛(日売)の後を追って、
	この吉備へ訪れたと言う。その繁栄の跡から、古代この地方に「王国」があったとする説も根強く、「吉備王朝」などと形
	容される事も多い。

	岡山県と言えば「きびだんご」と「桃太郎」である。桃太郎伝説にはちゃんとしたベースがある。





	第11代垂仁天皇の頃、吉備の国に「温羅(うら)」という異国の王子がたどり着いた。髪やヒゲはぼうぼうと伸び放題、性
	格は極めて凶悪で、備中国新山に居城を構え、近在の婦女子を誘拐したり、都への貢ぎ物を略奪したりしていた。大和朝廷
	はこの温羅退治に、「吉備津彦命」(きびつひこのみこと)を派遣する。これが「桃太郎伝説」の由来で、吉備津彦命が桃
	太郎、温羅が鬼と言うわけだ。
	温羅が住んでいたという「鬼ヶ島」は、今も「鬼城山」として総社市に存在し、古代の城郭遺跡が残っていて発掘調査も進
	んでいる。発掘は昭和53年から開始され現在第3次の調査中である。それによると朝鮮式の山城で、城壁の総延長は2.8km、
	城内の面積は約30万uにも及んでいる。今回は訪問しなかったが、写真で見る限り、石積みの城壁が山肌をうめており、壮
	大なスケールの山城である。鬼が住んでいても不思議ではない。吉備津彦命は、古事記や日本書紀に何度か名前が登場する
	人物で、吉備という名前からこの地方と何らかの関わりのあった人物で、「吉備」という名前は後世付与されたものではな
	いかと言う説もある。

	一方でもう一つの「桃太郎伝説」もある。それは、「温羅」は大和朝廷の吉備侵略に立ち向かって「吉備津彦命」と戦った
	英雄である、と言うものだ。温羅は百済の王子で、唐・新羅との戦いに敗れ古くから交流のあった吉備に逃れてきて、ここ
	に山城を築き、製鉄等の百済の進んだ技術を吉備地方にもたらした。これにより吉備地方は次第に繁栄していった。これを
	危惧した大和朝廷は、吉備征伐に「吉備津彦命」を派遣し、温羅を滅ぼしたと言う話である。「鬼城山」は、温羅とその一
	族が住んでいた居城と言うことになる。敗残者の常で、やがて温羅は悪人となり、終いには鬼となった。この話の方が信憑
	性がありそうである。

	しかし見てきたように、大和朝廷に刃向かった吉備の豪族達と朝廷側の戦いが「桃太郎伝説」になっていった可能性もまた
	ある。






	いずれにしても、この地方が古代相当な繁栄を続けていたのは確かだし、大和朝廷と強く結びついていた可能性は大きい。
	「王朝」とまでは言えないにしろ、相当な権力を持った豪族達が、出雲や近畿と肩を並べるような国家を形成していたの
	である。吉備路を歩くと、そういう時代の史実と伝説が入り交じった、遙かな古代ロマンの香が漂ってくる。






古代散策マップ





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