Music: Acoss the Universe









	御所駅前からバスに乗って、何ともロマンチックな名前の停留所「風の森」で降りる。15分位である。我々の例会としては
	初めての朝からの雨。今日は一日中降るらしいが、何とか途中ででもいいから上がって欲しいものだ。
	この街道は、至る所に案内・標識が立っていて殆ど迷うことはないが、簡単な地図くらいは用意して置いた方がいいだろう。
	栗本さん、東江さんは本格的な合羽を用意していた。失敗した。折り畳みの傘しか持ってこなかった他のmenberはズブ濡れだ。



 





高鴨神社・歴史文化館




高鴨神社の池越しに見る葛城の山々。左が金剛山で後ろが葛城山。雨に煙ってまさしく「幽玄な」光景。



 

資料館にはりっぱな畳敷きの座敷があって、歩き始めたばかりなのに「もうここで昼飯にしようか。」などと言う者がいる。
 




	葛城王朝の出自を究明するにあたって、もっとも重要な部族は葛城族である。
	この葛城族からは後世に歴史的人物が多く排出した。第八代孝元天皇の皇子である彦太忍信命の孫、武内宿禰は俗に、五代に
	わたる天皇に仕えたといわれ、明治以来の日本紙幣にその顔が見えて、国民に広く親しまれている人物である。
	この武内宿禰の子が葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)で、その娘の磐之媛は仁徳天皇の后となり、后の生んだ皇子から履中、
	反正、允恭の各天皇がでている。また、武内の宿禰を祖とする氏族は非常に多く、巨勢、平群、紀、石川、蘇我などの歴史的
	に活躍した豪族が名をつらねている。
	しかし、それらの各氏族は、武内宿禰や葛城襲津彦に自をもとめているものの、その源である皇子の彦太忍信命は第三子であ
	って、葛城族の本宗ではない。古く、葛城の地域に栄えていた葛城族の本宗とその流れは、雲の中に消えて、つかむことがで
	きなくなっている。そのために、一般に葛城襲津彦が葛城氏の本家にみたてられているが、真実の本宗はどこできえたのであ
	ろうか。ここにこの部族の秘められた謎がある。

	葛城族の祖先の名を文献の上で示すものは「日本書紀」神武天皇の条にみえる剣根である。神武天皇が大和を平定されて後、
	その戦いに参加した各部族の論功行賞が行われ、「また剣根という者をもて葛城国造となす」と記されている。国造の制を、
	神武天皇の時代までさかのぼらすことは無理であろうが、そのことは別の問題としても、葛城族の祖先として、剣根の名を示
	しているのである。このほかに「旧事本紀」の尾張族の系譜にもみえ、三世の天忍男命が「この命、葛木土神、剣根の女、賀
	奈良知姫を妻とし二男一女を生ましむ」とある。
	この尾張氏の祖先は前に考証したように、葛城山の中央山麓に古くから居住していた部族である。
	それが葛城の土豪である剣根の娘を娶ったというのであるが「葛木土神」を信仰していたこの部族は、葛城地域のどこに住ん
	でいたのであろうか。葛城氏の系譜では、高皇産霊神を祖神としている。したがってこの神をまつるところが、またこの部族
	の居住地でもあったことになる。ところが好都合に、金剛山に中腹に延喜の制で名神大社であった高天彦神社があり、その祭
	神が高皇産霊神である。
	しかも、この葛城の地域における名神大社の中で、この高天彦神社は、これまでのべてきた各部族とも関係しないでのこるた
	だ一つの神社でもある。そこで、この高天彦神社に焦点をあてて、葛城族の出自を探っていくことにしよう。

	高皇産霊神を祖神とする葛城各氏のすべてが、高天彦神社をまつる金剛山の中腹の台地とすそに、部族として発祥したことは
	みとめねばならない。その金剛山から下りて、葛城王朝を樹立したのは、鴨族がすでに先住開拓していた葛城山下の平坦地で
	あった。もっとはっきり言えば、御所市の町の南端で事代主神を中心に定着していた鴨族の土地から、わずか三キロメートル
	西にいった柏原の地である。そののちは鴨族の地内まで入って都を自由にうつした。そのことは、鴨族との政治的結合がなさ
	れた結果だといえる。
	葛城王朝の崩壊の後、この王朝の最後の王であった開化天皇の異母弟、彦太忍信命の子孫から武内宿禰が出て、彼の功績によ
	って葛城氏を再考する機会を与えられ、その子の葛城襲津彦が葛城氏の本宗として地位をきずきあげた。しかし、この葛城氏
	の本宗も数代にして亡び、それに代わって一族の蘇我氏が後に台頭する。
	(鳥越憲三郎氏の著書、「神々と天皇の間」から抜粋)


高天原へ

 

高天の里へは200b以上の高度差を一気にのぼるため非常にしんどい。
日頃の生活態度がこういう時現れる。服部さん悠々、松ちゃんぜぃぜぃ。




神話の里を坊彿とさせる葛城・高天の里






	古代においては、金剛山と葛城山をあわせて「葛木山」と呼んだらしい。その葛木山を仰ぎ見る地域がかつての南葛木郡、いま
	の御所市である。そして、その葛城山の麓に転々と連なる古社寺や遺跡をつなぐ古道を、いつの頃からか「葛城古道」とか「葛
	城の道」と呼んで、多くの古代史ファンやハイカーらが訪れるようになった。

	昔の葛木山の最高峰になる金剛山頂の真下に、高天(たかま)という集落がある。標高 450メートルもあって、大和平野や吉野
	の山々が見漉せる台地状の地形に水田もかなり広がっていて、ここにはこの地が記紀神話の高天原だとする伝承が昔からある。
	集落の南はずれにある高天彦神社は、参道の両脇に直径二メートルもある杉の老木が立ち並び、いかにも神さぴた雰囲気を漂わ
	せる。『延喜式』に記載された古社のひとつで、とりわけ格式の高い名神大社に列せられている。
	祭神は高皇産霊尊(たかみむすびのかみ)、別名高天彦神。葛城氏の粗神である。鳥越憲三郎氏は、その著書『神々と天皇の間
	一大和朝廷成立の前夜』朝日新聞社刊で、この地を「葛城氏の本拠地で、葛城王朝の発祥地」とした。また、記紀神話の高天原
	の呼び名はこの高天の台地から出た、と主張した。

	その論旨は前節に掲載したので読んで貰えばわかると思うが、簡単に言えば次のようなものだ。「弥生時代の中期頃、御所市南
	部の金剛山麓の丘陵地に、畑作と狩猟に生き、高皇産霊神を祀る葛城族がいた。やがて、御所市北部の肥沃な平地にいた鵬族を
	服属させて、水稲農業を始め、「葛城王朝」を樹立、後に大和朝廷に成長していった。そして、発祥の地の高天の台地を、記憶
	にある祖先の神々がいた場所と考え、「高天原」と呼んだ。」
	神話の高天原はこの世に実在したはずはないのだが、夏でも冷んやりした風が吹く高天の台地は、いかにも「神話の里」の雰囲
	気を漂わせており、我々のようにロマンを求めて訪ねる人が後を絶たない。





高天彦神社



 



奈良テレビのスタッフが何とか言う朝の番組の取材に訪れていた。外人のキャスターみたいなのも2,3人いた。
プロデューサーみたいなのが「昨日から来てるんですけどこの雨でねぇ。」とボヤいていた。ご苦労さん。
 

 


	下右はムラサキシキブ。河原さんは意外なことに花に詳しい。女性ばかりの職場だと知識もそうなるのかな。
	何と若い女の子300人の部下を持っている。うらやましい。

 

 





橋本院

 


橋本さんは、この歌の返歌を作って次の会報誌に投稿してくれるそうだ。楽しみ。

 

 




	橋本院の境内におあつらえ向きの東屋があって、そこで昼食となる。ビール、熱燗、松ちゃんはウィスキーも持ってきていた。
	そぼ降る雨の中、神秘的な光景を眺めながら食べる昼食・熱燗の味は格別だった。しばしの至福の時。

 



歩き出して振り返った高天の里。金剛山、葛城山が素晴らしい。左下に昼食をとった東屋が見える。






極楽寺

 

 









住吉神社

 

 





長柄神社

 

 







銅鐸出土地

 

 





一言主神社

 

 



 


	雄略天皇と一言主神のエピソードはおもしろい。
	葛城山の東麓、御所市森脇に一言主神社がある。石積みの参道が美しく、境内は神々Lい雰囲気をとどめている。名神大社
	のひとつ。地元では「一言さん」と呼び、「一言の願いならば何でもかなえられる神」とされる一言主神を祭神としている。
	「一言主神」(ひとことぬしのかみ)とは又変わった名前の神様だが、この一言主神にまつわる次のようなエピソードが、
	『日本書紀』雄略天皇の段に載っている。

	(雄略)四年の春二月、天皇は葛城山で狩りをした。突然、背の高い人に出合った。顔や姿が天皇によく似ていた。天皇は
	「神に違いない」と考えたが、「どこのものか」と尋ねた。背の高い人は、「私は姿を表した神である。お前から先に名の
	れ。その後私が名のろう。」と答えた。天皇は「わたしは幼武尊(ワカタケルミコト)である。」と名のると、背の高い人
	は「私は、一言主神である」と名のった。ともに猟を楽しみ、一匹の鹿を追って弓を放つことも互いに譲りあった。日が暮
	れて猟を終え、神は、天皇を来目河(くめがわ)まで送った。

	『古事記』にも同じようなエピソードが載っているが、部分的に若干ニュアンスが異なる。例えば、雄略天皇は一言主神を
	見つけて、自分と変わらぬ装束や態度に驚き、「この倭の国に、吾以外に王はないはず」と怒り、互いに弓を構えて一触即
	発の状況となった。そこで、一言主は「吾は悪事も一言、善事も一言、言い放つ神。葛城の一言主神だぞ。」と答えた。
	「記」では一言主の方が先に名乗ったことになっている。しかし、これを聞いた天皇は「あな恐(おそろ)し、我が大神」
	と大いにかしこまった。そして、従者らの着ていた衣服を全部脱がせて奉じると、一言主神は手を打って喜び、それを受け
	取った、とある。まるで、山賊に出会って、丸剥ぎにされたような記述だが、一言主神の威厳に満ちた態度は『日本書紀』
	と同じである。
	雄略天皇と言えば、古代史にひとつの画期を成した天皇だ。猛々しい英雄として「記紀」にも描かれ、熊本の江田船山古墳、
	埼玉の稲荷山古墳から出土した刀剣に「ワカタケル大王」の文字があった事から、日本統一がなったのはこの天皇の御代の
	頃とする説もあるほどだ。それほどの天皇を恐れさせ、衣服まで献上させるとはこの「一言主神」というのは一体どういう
	存在だったのだろう。葛城に、古代何か大きな勢力があった事を想起させる。







 

 



 


	神武の次の第二代綏靖天皇は、学会では実在性は低いとされているが、ここにこういう伝承が残っているのはどういう訳だ
	ろう。何かその伝承の元となる事象があったのではないだろうか。欠史八代の、多くの天皇の伝承がこの周辺には残ってい
	る。記紀によると、綏靖天皇は「葛城高丘宮」に、五代孝昭天皇は「液上池心宮」に、六代天皇は「室秋津嶋宮」にそれぞ
	れ宮居を営んだ。「高丘宮」はここ御所市森脇にあり、「池心宮」は同市池之内、「秋津嶋宮」は同市室で、いずれも御所
	市内にその伝承地がある。また、第三代安寧天皇、四代懿徳天皇、八代孝元天皇の宮居も御所市に隣接する大和高田市と橿
	原市に信承地がある。
	二代綏靖天皇から八代開化天皇までは、記紀にその実績をほとんど記さず、実在の可能性は極めて薄く「欠史八代」などと
	呼ばれているのだが、それらの天皇の多くが、御所市とその周辺に宮居を営んだという伝承を残すのは、やはり何かありそ
	うだ。明示的な証拠に欠けるため、この説は証明された「定説」とはなっていないが、王朝の存在を思い浮かべるのは鳥越
	氏だけではあるまいと思う。


九品寺



 





孝昭天皇陵





御所駅周辺には飲み屋さんがない。やっと探し当てた1軒に飛び込んで「反省会」。
 



葛城古道全図







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